約束ー
柔らかな春の日差しが、石畳の広場を優しく照らしていた。
街路樹の葉が風に揺れ、テラス席には穏やかな午後の空気が流れている。
ベルは白いカップを両手で包みながら、向かいに座るラインを見つめた。
約束していた二人きりの時間。
騎士団隊長としてではなく、一人の青年として現れたラインは、いつもより少し肩の力が抜けて見える。
だが話題は自然と、最近の出来事へ向かっていた。
ベルが小さく首を傾げる。
「…それじゃ、あのキンサシャって女の人は…」
ラインは静かに頷いた。
「そう。行方不明のままです。依然として」
ベルの表情が曇る。
手元の紅茶から立ち上る湯気を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「そっか…気になりますね」
「大丈夫です。ルグレシア騎士団の総力を上げて捜索しています。近いうちに必ず」
「はい」
ベルは素直に頷いた。
ラインの言葉には不思議な安心感がある。
責任感が強く、約束を軽々しく口にする人ではない。
だからこそベルも信じたかった。
しばらく沈黙が落ちる。
重苦しいものではない。
互いに言葉を探すような、少しだけ照れくさい静寂だった。
遠くから馬車の音が聞こえる。
テラスの隣席では旅人たちが楽しそうに笑っていた。
ベルは視線を逸らし、ケーキをフォークで小さく切り分ける。
そして恐る恐る口へ運んだ。
甘さが広がる。
自然と頬が緩んだ。
その様子を見ていたラインが微かに笑う。
ベルは気付いて顔を赤くした。
「な、なんですか?」
「いえ」
ラインは短く答えた後、少しだけ視線を和らげた。
「楽しそうでよかったと思いまして」
ベルはますます恥ずかしくなった。
せっかくのデートなのに、事件や行方不明者の話ばかりしていたことに今さら気付く。
慌てて紅茶を飲み、誤魔化す。
ラインはそんなベルを見ながら、静かに目を細めた。
騎士団本部では決して見せない穏やかな表情だった。
ベルは思考が止まった。
目の前の言葉を理解するのに数秒かかる。
耳まで熱くなっていくのが自分でも分かった。
「でも…どうして急に?…デ.. デートだなんて…」
そう言った瞬間、自分で口にした言葉にさらに顔が赤くなる。
ラインはそんなベルを見て、優しく微笑んだ。
「彼、ベルくんに頼まれたんですよ」
「…え?あいつに…?」
ベルの胸が少しだけ痛んだ。
今日の誘い。
ライン自身の意思ではなく、あいつに頼まれたから。
そういうことなのだろうか。
あいつとラインは親しい。
頼み事をすることだってあるだろう。
それでも。
ほんの少しだけ期待していた自分がいた。
その微かな落胆を察したのか、ラインはすぐに言葉を続けた。
「でも、彼から言われなくとも、お誘いするつもりでした」
ベルが顔を上げる。
「え?」
ラインが柔らかく目を細める。
「私は今日、国へ戻らねばなりません。だからー」
そう言って。
テーブルの上に置かれていたベルの手へ、そっと自分の手を重ねた。
ベルの身体がびくりと震える。
温かい。
剣を握り続けてきた大きな手。
突然のことに頭が真っ白になる。
ラインは逃がさないように、しかし壊れ物を扱うような優しさでその手を包んだ。
ベルの心臓が激しく跳ねる。
視線を合わせられない。
けれど手を引くこともできない。
ラインは真っ直ぐベルを見つめていた。
「少しでも、2人の時間が欲しかった」
ベルの呼吸が止まる。
春風がテラスを吹き抜けた。
街の喧騒も、人々の話し声も、遠くへ消えていく。
聞こえるのは自分の鼓動だけ。
こんな真っ直ぐな言葉を向けられるとは思っていなかった。
ラインはルグレシア騎士団の隊長だ。
誰からも信頼される騎士。
そんな人が。
自分と過ごしたいと思ってくれていた。
ベルは俯いたまま、小さく指先を震わせた。
言葉が出てこない。
嬉しい。
恥ずかしい。
信じられない。
色々な感情が胸の中で絡まり合う。
やっとのことで声を絞り出す。
「そ、そんなこと言われたら……」
最後まで続かなかった。
ラインは無理に返事を求めなかった。
ただ穏やかに微笑んでいる。
ベルは赤くなった顔を隠すように俯きながら、それでも握られた手だけは離さなかった。
ラインはベルの手を離さないまま、穏やかな笑みを浮かべた。
「次はどちらに?」
突然話題を変えられ、ベルは思わず目を瞬かせる。
「え?…えっと…」
胸の高鳴りを悟られまいと、必死に考えるふりをした。
そして何とか答える。
「次は…サナトリアへと考えてます」
ラインの表情が少しだけ引き締まる。
「魔道国家サナトリアですか…どうしてまた?」
ベルは小さく頷いた。
「そこに…聖女様がいると聞いて」
「なるほど、なんでも見通す千里眼ですか」
ベルは再び頷く。
自分の事情。
あいつのこと。
知りたいことは山ほどある。
そのためにも、一度会ってみたいと思っていた。
ラインはしばらく考えるように視線を落とした後、静かに口を開いた。
「ではー、その後、ルグレシアに来ていただけないでしょうか?」
「え?」
思わぬ誘いにベルが顔を上げる。
「ここブラハ・ラグから大陸横断列車でサナトリアへ、そこからルグレシアまではそう遠くありません。ぜひ」
ラインの声は穏やかだった。
けれど、その瞳は真っ直ぐだった。
そして一拍置いて続ける。
「その時、大切な話をさせてください」
ベルの胸が跳ねた。
言葉の意味を理解する。
いや、正確には理解しきれていない。
それでも。
何となく察してしまった。
ラインの真摯な眼差し。
優しく包まれたままの手。
今日の時間。
全部が一つの意味を持っている気がした。
ベルは視線を落とす。
頬が熱い。
胸の鼓動がうるさい。
逃げたくはなかった。
だから素直に答える。
「…はい」
ラインの表情が柔らかく緩んだ。
心から安堵したような笑みだった。
「楽しみにしています」
ベルは俯いたまま、小さく微笑む。
そして聞こえるか聞こえないかの声で答えた。
「…私も…」
春風が二人の間を通り抜ける。
テラス席には穏やかな午後の光が降り注ぎ、二人だけの時間が静かに流れていた。
柔らかな空気が流れる中、ラインは名残を惜しむように紅茶の残ったカップへ視線を落とした。
だが次の瞬間、静かに立ち上がる。
「さて、そろそろ行きますね」
その言葉に、ベルの胸がきゅっと締め付けられた。
つい先ほどまで長く感じていた時間が、あまりにも短かった気がする。
思わず声が漏れた。
「あっ…」
引き止めるつもりではなかった。
けれど口から零れてしまったその一言には、確かな寂しさが滲んでいた。
ラインが足を止める。
そしてベルを見る。
その瞬間。
ラインの表情がわずかに変わった。
意外そうに目を見開き、それから静かに微笑む。
「嬉しいですね。そんな表情を見せていただけるとは」
その言葉にベルは固まった。
自分がどんな顔をしていたのか理解してしまう。
途端に耳まで熱くなった。
慌てて視線を逸らし、肩を縮こまらせる。
何か言わなければと思うのに言葉が出てこない。
ラインはただ真っ直ぐベルを見つめていた。
からかうような色はない。
純粋に嬉しいと思ったから口にした。
そんな誠実さが伝わってくる。
ベルはますます顔を赤くした。
俯いたまま膝の上で手を握る。
ラインはそんなベルを見ながら穏やかに続けた。
「ルグレシアでお待ちしています」
その声はどこまでも真摯だった。
約束を交わすように。
再会を願うように。
ベルは小さく頷く。
顔は上げられない。
けれど返事だけはしっかりとした。
「…はい」
その答えにラインは満足そうに微笑んだ。
春の陽射しが二人を包む。
別れの時間は近い。
それでもベルの胸には、不思議な温かさが残っていた。
ラインの姿が広場の向こうへ消えていく。
ベルはしばらくその背中を見送っていた。
胸の奥に残る温かな余韻。
春風が黒髪を揺らす。
その時だった。
背後から不意に声が飛んできた。
「行かせてよかったのか?」
「っ!?」
ベルが慌てて振り返る。
そこにはいつの間に現れたのか、バルザックが立っていた。
腕を組み、いつも通りの不機嫌そうな顔でこちらを見ている。
「な…なんであんたがここに!?」
「いや?たまたま見かけてな」
気楽に答えた後、顎でラインが去った方向を示す。
「それより、引き留めなくていいのか?」
ベルは一瞬だけ視線を落とした。
そして小さく首を振る。
「…いいのよ」
「ふぅん」
興味なさそうに返しながらも、バルザックの視線がベルの姿を上から下まで眺める。
普段とは違う格好。
白いワンピース。
丁寧に整えられた髪。
ベルは居心地が悪くなった。
「な、なによ」
「いやいや、お前もそんな女らしい格好することもあるんだなー…と」
そう言いながらバルザックが右手を伸ばす。
まっすぐベルの胸元へ。
「ちょっと、やめて!」
ぱしん。
ベルが即座にその手を叩き落とした。
バルザックは大袈裟に肩をすくめる。
「おっと、やっと警戒心ってものを身につけたのか?」
「あなたは….本当に変わらないわね」
呆れたように言うベルに、バルザックは鼻で笑った。
「たりめぇだろ。人がそう簡単に変わるかよ」
ベルも思わず苦笑する。
確かにそうかもしれない。
この男は出会った頃からずっとこんな調子だ。
だからこそ逆に安心する部分もある。
少しだけ沈黙が落ちた。
ベルは首を傾げる。
「で…何の用?」
その言葉に。
バルザックは珍しく視線を逸らした。
空を見上げる。
何でもないことを口にするように。
「今回は助かった。ありがとよ」
ベルは目を見開いた。
一瞬、自分の耳を疑う。
今の言葉が本当にバルザックの口から出たものなのか。
だがバルザックは続けた。
どこか照れくさそうに。
「それから、いろいろ悪かったな」
ベルは何も言えなかった。
返事を考えるより先に。
バルザックは踵を返していた。
そのまま歩き出す。
「え?ちょっ…」
呼び止めるベルに背を向けたまま。
バルザックは片手をひらりと上げた。
「またな」
人混みの中へ。
雑踏の向こうへ。
やがてその背中も見えなくなる。
ベルはしばらくその場に立ち尽くしていた。
この街へ来てから。
本当に色々なことがあった。
怖いことも。
悲しいことも。
嬉しいことも。
そして色々な人と出会った。
次の街でもまたきっと様々な出来事や出会いがある。
そんな予感がした。
「…旅、なのね」
小さく呟く。
その言葉は風に溶けるように消えていった。




