キンサシャの覚悟ー
ベルは何も言わなかった。
ただ。
キンサシャを見ていた。
その視線が僅かに動く。
ほんの一瞬。
それだけだった。
だが。
バルザックには十分だった。
指先が動く。
印を結ぼうとした。
その瞬間。
キンサシャの目が鋭く細まる。
「おっと、動くんじゃないよぉっ!」
叫びながら水晶玉を握り締める。
視線がバルザックへ向く。
バルザックの動きが止まった。
――その瞬間だった。
床を蹴る音すら聞こえない。
ベルの姿が消える。
キンサシャの視界から。
まるで最初からそこにいなかったかのように。
次の瞬間。
目の前にいた。
キンサシャの瞳が見開かれる。
何が起きたのか理解するより先に。
ベルの腕が伸びる。
指が首へ届く。
逃げる暇も。
叫ぶ暇も。
水晶玉を使う暇すらない。
ベルの右手が喉を掴んだ。
細い首を。
正面から。
容赦なく。
身体が浮く。
足先が石畳から離れた。
「ぐはっ!」
空気を潰されたような声が漏れる。
水晶玉が揺れる。
キンサシャの両手が反射的にベルの腕を掴んだ。
だが。
びくともしない。
涙で濡れた瞳がベルを見上げる。
目の前にいるのは傷だらけの少年だった。
毒に侵され。
血を流し。
満身創痍のはずの少年。
それなのに。
その右腕だけは鉄のようだった。
ベルは無言のまま。
キンサシャを見下ろしていた。
キンサシャの身体が宙に浮く。
両足が虚しく空を掻いた。
ベルはそのまま見下ろしていた。
怒鳴りもしない。
脅しもしない。
ただ静かに。
静かに。
その首を掴んでいる。
それが余計に恐ろしかった。
ベルの指に力が入る。
キンサシャの喉が軋んだ。
「今すぐミリィを解放しろ」
低い声だった。
「でなければーこのまま首を折る」
キンサシャの瞳が揺れる。
涙が溢れる。
止まらない。
頬を伝い。
顎から落ちる。
ベルの顔は変わらない。
だが。
怒っていた。
誰の目にも分かるほど。
静かな怒りだった。
キンサシャの肩が震える。
苦しい。
痛い。
喉が焼けるようだった。
空気が足りない。
答えなければならない。
言わなければならない。
だが。
声が出ない。
ベルの手が喉を押さえつけている。
口を開く。
息が漏れるだけだった。
「あっ…」
かすれた音。
言葉にならない。
涙が次々と溢れる。
ベルの視線は動かない。
逃がさない。
誤魔化させない。
ただ答えだけを待っていた。
ベルの指が首へ食い込む。
キンサシャの身体がびくりと震えた。
「もう一度言う」
静かな声だった。
怒鳴り声ではない。
だが。
だからこそ恐ろしい。
「今すぐミリィを解放しろ」
キンサシャの意識が揺らぐ。
視界が霞む。
肺が悲鳴を上げる。
息が吸えない。
苦しい。
痛い。
それでも。
答えなければならない。
答えなければ殺される。
その確信があった。
ベルは本気だ。
脅しではない。
今この場で。
本当に首を折る。
恐怖が全身を駆け巡った。
指先が震える。
足が震える。
涙が止まらない。
「どうなんだ?」
ベルの声が降ってくる。
「答えろ?」
答えたい。
違うと。
そうじゃないと。
言いたい。
だが。
言葉にならない。
喉が潰されている。
空気が足りない。
キンサシャは必死に手を伸ばす。
腕を振る。
足をばたつかせる。
苦しさに耐えられない。
ただそれだけだった。
だが。
ベルにはそう見えなかった。
その瞳が僅かに細まる。
「…抵抗する気らしいな」
キンサシャの目が見開かれた。
違う。
違う。
そうじゃない。
首を振りたい。
否定したい。
答えたい。
けれど身体は言うことを聞かない。
喉は声を出してくれない。
恐怖が思考を塗り潰していく。
死ぬ。
このままでは死ぬ。
その現実だけが。
キンサシャの心を支配していた。
キンサシャの瞳から涙が溢れ続ける。
恐怖に支配されたまま。
必死に手足を動かす。
だが。
ベルの指は首から離れない。
呼吸は苦しいまま。
意識も揺らいでいた。
その時だった。
「HEY!彼女、答えようとしてるんじゃないのか?」
背後から声が響く。
ウルフだった。
ズタボロの身体を引きずるようにしながら。
ゆっくりと歩いてくる。
ラインとバルザックも続いていた。
バルザックがキンサシャを見上げる。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。
必死にもがく姿。
そして苦笑した。
「あんた、今、この世で最も怒られちゃいけない男を怒らせてるぜ?」
ラインもベルへ視線を向ける。
「ベルくん、気持ちはわかるが殺しては、それこそミリィさんが心配だ」
一歩前へ出る。
穏やかな声だった。
「ここは拘束するに留めて」
ウルフが肩を竦めた。
「たぶんな」
そう言ってキンサシャを指差す。
「喉押さえてるから話せないんだと思うぜ?」
ベルは黙ったままキンサシャを見る。
涙。
恐怖。
苦痛。
もがく手足。
数秒。
そして。
ベルの指から力が抜けた。
支えを失ったキンサシャの身体が落ちる。
どさり、と音を立てて石畳へ叩きつけられた。
そのまま崩れ落ちる。
喉を押さえ。
激しく咳き込む。
肺が空気を求めて悲鳴を上げた。
キンサシャは石畳の上で横たわったまま。
荒い呼吸を繰り返す。
目の前にはベル。
背後にはウルフ。
バルザック。
ライン。
四人が黙って見下ろしていた。
キンサシャの顔から血の気が引いていく。
震える瞳が揺れる。
頭の中が真っ白だった。
ミリィは攫っていない。
あれは咄嗟に出た嘘だった。
ベルへ。
少しでもやり返したかった。
ゼニエダを失った直後だった。
何か。
何か一つでも。
相手に傷を残したかった。
だから口から出た。
ただそれだけだった。
今頃ミリィは宿屋にいる。
何も知らず。
自分の部屋で過ごしているはずだ。
だが。
そんなことを言えるはずがなかった。
言った瞬間。
ベルはどうする。
バルザックはどうする。
ウルフは。
ラインは。
想像しただけで身体が震える。
喉が鳴る。
冷や汗が流れる。
言っても殺される。
言わなくても殺される。
バルザックの言葉が頭の中で反響する。
遅効性の毒。
解毒剤。
ベルの怒り。
首を締められた感触。
全てがぐちゃぐちゃに混ざる。
呼吸が浅くなる。
胸が苦しい。
視界が滲む。
逃げ場はどこにもない。
ゼニエダはもういない。
怪人もいない。
頼れるものは何も残っていない。
キンサシャは震える指で石畳を掴んだ。
そして。
ゆっくりと顔を上げる。
目の前には四人。
誰一人として視線を逸らさない。
その事実が。
何より恐ろしかった。
もう。
どちらにしても殺されるのだ。
キンサシャの唇が震える。
呼吸もまだ整わない。
涙に濡れた顔のまま。
震える声を絞り出した。
「う…嘘だよ…」
ベルの眉が僅かに動く。
「?」
キンサシャは視線を落とした。
もうベルを見ることもできない。
「人質はブラフだよ…」
その言葉に。
場の空気が変わった。
ウルフがキンサシャを見下ろす。
表情は変わらない。
だが声だけが低かった。
「…本当だろうな?」
キンサシャの肩が跳ねる。
一瞬だけ迷う。
だが。
もう嘘を重ねる気力も残っていなかった。
ゆっくりと。
小さく。
首を縦に動かす。
コクリ。
それだけだった。
静寂が落ちる。
ベルは何も言わない。
バルザックも。
ラインも。
ただキンサシャを見ている。
キンサシャは石畳を見つめたまま。
拳を握り締める。
震える指先。
涙がぽたりと落ちた。
ゼニエダはもういない。
最後の切り札も。
最初から存在しなかった。
残ったのは。
全てを失った自分だけだった。
キンサシャは震える唇を開いた。
掠れた声だった。
「…だから…解毒剤を、早く…」
縋るような声。
もう先ほどまでの威勢はどこにもない。
ただ。
目の前の恐怖から逃れたいだけだった。
その言葉に。
バルザックが舌を出した。
「こっちもブラフだ」
キンサシャの動きが止まる。
数秒。
理解が追いつかなかった。
やがて。
その意味が脳へ届く。
目が大きく見開かれた。
「あ…」
声が漏れる。
「あぁ…」
力が抜ける。
肩が落ちる。
握り締めていた拳も緩む。
乾いた笑いが漏れた。
「また騙された…」
視線が石畳へ落ちる。
「所詮あたしゃ騙されてばかりの人生さね…」
それ以上。
何かを言う気力も残っていなかった。
キンサシャは大きく項垂れる。
長い髪が顔を隠す。
その姿は。
先ほどまでベルたちを脅していた女とは思えなかった。
ただ。
全てを失った一人の女がそこにいた。




