ラストファイトー
でも、クレタの足はびくともしなかった。
踏みつけられたまま、引いても、ずらしても、まるで動かない。
……無理
身体ごと動かそうとしても、逆に押さえ込まれるだけ。
その間にも、クレタの右手が振り上げられる。
間に合わない。
咄嗟だった。
私はスカートの裾を掴む。
両手で――思い切り引き裂いた。
布が裂ける音が、やけに大きく響く。
……お気に入りだったのに
そんな考えが一瞬だけよぎる。
でも、もういい。
そのまま一気に後ろへ飛び退く。
距離を取る。
呼吸が荒い。
足元が軽くなる。
その代わり、風が直接触れる感覚が妙に現実的だった。
クレタはその様子を見て、楽しそうに笑う。
「そうだ!いいぞ!」
その声は、明らかに満足していた。
私は剣を構え直す代わりに、両手を前に出す。
さっきまでとは違う。
もう、遠慮はしない。
そうして、しばらく経ったあと。
私は路地裏の奥、建物の陰で、細く切り取られた空を見上げていた。
いつも通り。
地面に転がったままで。
隣では、クレタがあぐらをかいて座っている。
メイド服のスカートを無造作にまくり上げたまま。
はしたない。
でも、それを気にしないのが、あの人らしかった。
肘を膝に乗せ、頬杖をついたまま、クレタが口を開く。
「ぜんぜん成長してないと思ってるかも知んねぇけど、最初ん時よりゃあ、変わってるぜ」
私は、涙の止まらない顔のまま、クレタを見上げた。
視界が滲んで、輪郭がぼやける。
クレタは構わず続ける。
「あの、ヒゲの執事にしろ、メイドの野郎にしろ、うちにしろ、ミリィが勝てるわけねぇんだからさ」
――わかってる。
年齢が違う。
経験が違う。
積み重ねてきた時間が、違いすぎる。
今この瞬間も、その差は広がり続けている。
頭では、ちゃんと理解している。
それでも。
「……でも……悔しいです」
絞り出すように、声が漏れる。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
クレタは一瞬だけ黙る。
それから、小さく鼻で笑った。
「そりゃあな」
短い肯定。
けれど、その声音は軽くなかった。
「悔しくなきゃ、ここまでやってねぇだろ」
私は少しだけ目を見開く。
クレタは空を見上げたまま続ける。
「その悔しさ、忘れんなよ」
風が、細い空の隙間を抜ける。
「強くなる奴ってのはよぉ、結局そこにしがみついてる奴だ」
私は何も言えなかった。
ただ、その言葉を聞いていた。
涙はまだ止まらない。
でも、その奥にある感情は――
さっきまでとは、少しだけ違っていた。
クレタが軽く肩をすくめる。
「ま、がんばれや」
そう言って笑う。
いつもの、どこか雑で、それでいて真っ直ぐな笑い方。
私はその横顔を見上げる。
言葉は短いのに、不思議と伝わってくるものがあった。
…あぁ
胸の奥に、静かに落ちてくる。
期待されている。
応援されている。
無理に持ち上げるでもなく、ただ前を見ろと言われているみたいに。
クレタだけじゃない。
トレントも。
パティも。
お父様も、お母様も。
みんな、それぞれのやり方で、私を見ている。
私はゆっくりと息を吐いた。
涙で濡れた頬が、少しだけ冷える。
……がんばろう
誰かのためだけじゃなくて。
自分のために。
私は手を握りしめる。
その感触が、少しだけ頼もしく感じられた。
それからまた、クレタに背負われて屋敷へと戻ることになった。
さっきまでのやり取りなんて関係ないみたいに、いつもの調子で。
私は背中に揺られながら、ぼんやりと空を見ていた。
…ほんとに、最近こればかり。
そんなことを思っていた、その時だった。
屋敷の扉が開く。
中に入った瞬間――
空気が、凍りついた。
視線の先。
パティが、立っていた。
私の格好を見て。
ぼろぼろに裂けたスカート。
泥だらけの身体。
そして、それを背負っているクレタ。
数秒の沈黙。
「……」
パティの目が、ゆっくりと細められる。
あ、これは――
だめなやつ。
そう思った時には、もう遅かった。
次の瞬間、クレタの身体がぶれる。
音が消える。
そして――
鈍い衝撃音。
クレタが床に叩きつけられていた。
「貴様ぁぁぁぁぁ!!!!」
パティの声が屋敷中に響く。
私は慌ててクレタの背中から降りる。
「ち、違うの!これは私が――」
言い訳をする暇もない。
すでに二撃目、三撃目。
もはや“半殺し”という表現がぴったりだった。
クレタは何か言おうとしているけれど、声になっていない。
私はその光景を見ながら、思わず身体を震わせる。
なんだか、いろいろあった一日だった気がする。
でも最後は、やっぱりこれだった。
私は小さく息を吐く。
そして――
静かに、その場を見守ることにした。
この1ヶ月で、30体。
それを聞いたとき、最初に浮かんだのは純粋な驚きだった。
…すごい。
この1年で230体。
数字だけでも異常なのに、それが現実として積み上がっている。
『魔王殺し』。
その呼び名が、ただの異名じゃないことを改めて思い知らされる。
5年で1000体。
そう言っていたはずなのに――
3年で達成すると、マリーナさんに約束したらしい。
……本気なんだ。
胸の奥が、少しだけざわつく。
誇らしい。
すごいと思う。
応援したい。
それは間違いない。
でも――
…なんでだろ。
言葉にしづらい感情が、引っかかる。
嬉しいのに。
喜ばしいことのはずなのに。
どこか、落ち着かない。
置いていかれるような。
遠くに行ってしまうような。
そんな感覚。
私は小さく息を吐く。
視線を落とす。
…ダメだな、私。
頭では分かっている。
あの人は、あの人の戦いをしている。
いつでも誰かのために。
私は、私の場所で。
それでも。
胸の奥に残るその違和感だけは、どうしても消えてくれなかった。




