一本取ったー
そうして一週間が過ぎた、早朝。
まだ空気が冷たい練習場に出ると、そこにクレタはいた。
いつものように地面に転がったまま、ただ空を見上げている。
「……」
呼吸はしている。けれど、目が妙に虚ろだった。
私は少しだけ足を止める。
(……珍しい)
いつもなら、私が来る前から声が飛んでくる。
「よぉ」とか、「遅ぇぞ」とか、そんな雑な一言。
でも今日は違った。
視線が合っているのかどうかも分からないまま、クレタは動かない。
私は一歩、距離を詰める。
「……クレタ?」
呼びかけるのは、初めてこちらからだった。
それでも反応は薄い。
数秒の沈黙のあと、ようやくクレタの目がわずかにこちらへ向く。
「……あ?」
かすれた声。
いつもの棘も勢いもない。
ただ、起きているだけの返事だった。
私はもう一度、少しだけ近づく。
「どうしたの?」
クレタはしばらく黙って、それからゆっくりと腕で目元を覆った。
「……別に」
短い言葉。
けれど、それ以上続かない。
私はそのまま立ち尽くす。
朝の静けさだけが、やけに重く感じられた。
「ただよ……」
クレタは空を見たまま、右手をゆっくり持ち上げた。
「……今日、初めて、あのメイド野郎から……」
そこで一度言葉を切る。
その右手が、ぎゅっと握り込まれる。
「一本取ってやったってだけさぁ」
その瞬間だった。
私は思わず駆け出していた。
「……おめでとう!ついに……やったね!」
そのまま、地面に倒れたクレタに抱きつく。
勢いを受けたクレタは一瞬だけ目を見開く。
「お、おい……」
珍しく、反応が遅れた声。
私は構わず続ける。
「すごいすごい!すごいよ!」
自分でも少し子供っぽいとは思ったけれど、それでも言葉が止まらなかった。
クレタはしばらく固まって、それから小さく舌打ちする。
「……まだ一本取っただけだっての」
けれど、その声にはいつもの棘が少し戻っていた。
私はようやく少し離れて、クレタの顔を見る。
「それでもすごい!すごいよ!」
クレタは空を見上げたまま、口元だけ歪める。
「まだまだこんなもんじゃねぇ」
「だんだん、掴めてきたんだ……」
一拍置いて、地面に拳を軽く打ちつけた。
「明日は2本、取ってやる!」
その言葉は、妙に軽いのに、確かに熱を持っていた。
そうしてクレタは、いつもの顔で笑った。
さっきまでの虚ろさは、もうどこにもない。
「今日もぼてくり回してやっから、覚悟しやがれ!」
そのまま勢いよく立ち上がる。
まだ疲労は残っているはずなのに、足取りは軽い。
私は一歩だけ後ずさる。
「……ほどほどに、してほしいんだけど……」
小さく呟く。
でもクレタは聞いていない。
すでに頭の中は次の稽古でいっぱいみたいだった。
「来いよ。さっさと構えろ」
振り返りもせずに言う。
その背中を見て、私は小さく息を吸った。
(……逃げても意味ないよね)
模擬剣を握り直す。
腕はまだ痛いし、足も重い。
それでも、一歩前に出る。
さっき見たあの笑顔が、頭から離れなかった。
私はゆっくりと構えを取る。
「……お願いします」
朝の空気の中で、再び打ち合いが始まった。
そして数分後、私はまた地面に転がって空を見上げていた。
息が荒い。
でも――前とは少し違う。
倒れる回数は減っているし、立ち上がるまでの時間も短くなっていた。
私は歯を食いしばって身体を起こす。
剣を握り直し、構える。
「もう一度、お願いします」
クレタは退屈そうに剣を肩に引っかけたまま、こちらを見る。
「……うちの能力は『月読』っつってな……」
突然の言葉に、私は一瞬動きを止めた。
「少し先の未来が見える」
喉が小さく鳴る。
クレタは構えも取らず、淡々と続ける。
「言うて数秒……長くて3秒が限界だ」
「だがそれは戦闘において大きなアドバンテージになる」
そう言いながら、手にした剣を真っ直ぐ立てて見つめる。
「だけどよぉ、あのヒゲの執事やメイドの野郎は、先を読んでも……それでも追いつけねぇ」
「わかっていても...身体がついてかねぇ」
その声には、はっきりと悔しさが混じっていた。
柄を握る手に力が入る。
「そんで……ミリィの親父、それからお前は、未来視と違う動きをしやがる。そんなこと、あっちゃならねぇんだ」
私は一瞬、言葉の意味が掴めなかった。
頭の中で引っかかる。
でも、今はそれよりも気になることがある。
私は小さく問い返した。
「それなら……どうして私は勝てないの?」
クレタは、きょとんとした顔をする。
本気で意味が分からない、という表情だった。
そしてあっさりと言い切る。
「ミリィの場合は、単にの技量がねぇだけだ。戦いなめんな。能力だけで勝てるわけねぇだろ」
一切の遠慮がなかった。
でも――
私は、その言葉から目を逸らさなかった。
クレタは剣を肩に担いだまま、まっすぐ前を見た。
「だからうちは、まだまだ強くなる。未来視に追いつける身体、そして力と技を身につける!そしたらよぉ……うちは魔王殺しにだって、勝てるようになる!」
その言葉と一緒に、強く笑う。
迷いのない顔だった。
私はその姿を見上げたまま、しばらく動けなかった。
(……すごいな)
ただ、そう思う。
クレタは、自分がどこまで行くのかを疑っていない。
足りないものも、負けている現実も、全部分かった上で、それでも前に進むことを選んでいる。
強い志がある。
自分を信じている。
それが、こんなにもはっきりと見える。
私はゆっくりと視線を落とす。
手に握った剣が、少しだけ重く感じた。
(私は……)
言葉にはならない。
でも、胸の奥に小さく何かが残る。
さっきまでとは違う、引っかかりのようなもの。
私はもう一度、剣を握り直した。
そして顔を上げる。
「……もう一度、お願いします」
声はまだ弱い。
それでも、さっきよりは少しだけまっすぐだった。
クレタが剣を下ろし、わざとらしく間を取る。
「つまりよぉ……何が言いてぇかと……言うとぉっ!」
その声と同時に踏み込まれる。
視界が揺れた。
対応する間もなく、衝撃だけが身体を打ち抜く。
気づいた時には、私はまた地面に転がっていた。
息が詰まる。
肺がうまく動かない。
ぼやける視界の中で、クレタの影が覆いかぶさる。
額のすぐ前に、指が突きつけられた。
「努力しろ。自分を鍛えろ。能力は能力だ。生かすも殺すも自分次第」
短く、はっきりとした言葉だった。
クレタはそのまま剣を地面に突き立てる。
そして背筋を伸ばし、両手を組み合わせた。
空気が、変わる。
さっきまでとはまるで別人みたいに。
荘厳で、静かで、どこか遠い。
クレタの声も、表情も、その雰囲気すべてが変わっていた。
「神はいつでも私たちを見守り、そして導いてくれるものー。強く有ろうとするものは強く、賢く有ろうとするものは賢く、足掻き、もがき、苦しんで、その先にあるのはー『己のあるべき世界』」
その言葉に合わせるように、朝日が差し込む。
逆光になったクレタの姿が、輪郭だけを強く浮かび上がらせる。
まるで、本当に――
何かに祝福されているみたいだった。
私は地面に倒れたまま、その光景を見上げていた。
私は手から離れていた剣を掴み直す。
奥歯を噛み締めて、無理やり身体を起こした。
まだ痛む。
でも、それでも立つ。
目の前には、さっきまでとは別人のようなクレタ。
私は剣を向ける。
「もう1本、お願いします!」
踏み込む。
考えるより先に、身体が動いていた。
剣を振り下ろす。
――その瞬間。
手応えが、あった。
「……え?」
予想していた抵抗はなかった。
弾かれる感触も、防がれる気配もない。
あっさりと、私の剣がクレタの横腹に入る。
鈍い音。
クレタの身体が横に折れ、そのままくの字に崩れる。
そして地面に沈んだ。
「え……? うそ……?」
現実が追いつかない。
さっきまで、あんなに余裕だったのに。
地面に倒れたクレタは、小さく痙攣していた。
ピク、ピクと不規則に震える。
「クレタ!?」
私は慌てて駆け寄る。
「ちょっ、ちょっと……!」
その動きが、ふっと止まる。
完全に、動かなくなる。
嫌な沈黙が落ちる。
「クレタ!?死なないでぇっ!?」
声が裏返る。
心臓が一気に跳ね上がった。
さっきまでの手応えが、急に現実味を帯びてくる。
頭が真っ白になる。
私はその場で、完全に固まっていた。
数時間後。
私はクレタの部屋の隅で正座していた。
目の前のベッドでは、クレタがゆっくりと上体を起こす。
「……っ、いてぇ……」
頭を押さえながら、状況を思い出すように目を細める。
そして次の瞬間、視線がこちらに向いた。
「ミリィ…」
低い声だった。
私は反射的に背筋を伸ばす。
「い、いや、その……」
言い訳を探す前に、クレタがベッドから降りる。
足取りはまだ少し重いのに、迫力だけは十分だった。
「なんであのタイミングで斬ってくんだよ!」
「え、いや、だって……稽古で……!」
言い終わる前に、軽く拳が頭に落ちる。
「いっ……!」
「加減ってもんがあんだろうが!」
もう一発。
「いたっ!」
私は頭を押さえながら、必死に言い返す。
「だって当たると思ってなかったし……!」
「うっせぇ!当たってんだろうが現実に!」
しばらくの間、そんなやり取りが続いた。
最終的にクレタは大きくため息を吐いて、腕を組む。
「……いいか」
妙に真面目な声になる。
「うちが“あの状態”のときは、攻撃すんな」
私は一瞬きょとんとする。
「あの状態って……」
「さっきのだよ!聖女モード!」
思わず言葉が止まる。
確かに、あの時は明らかに隙だらけだった。
でも――
「でも、稽古中は…」
「ダメだ。あれは別だ」
即答だった。
私は少しだけ考えて、それから小さく頷く。
「……わかった」
クレタは満足そうに頷くと、どこからか紙を取り出した。
「念のため書いとけ」
「え、書くの……?」
「書け」
有無を言わせない圧だった。
結局私は、その場で簡単な誓約書を書くことになった。
――後になって思い返すと、あの時のクレタは本気で怒っていた。
そして同時に、少しだけ本気で危なかったのだと思う。




