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RUN&GUN ― 二人で一人の逃走譚 ―  作者: F94
第13章ーミリィの旅立ちー
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クレタの受難ー

その出来事は、もう「過ぎた話」として扱われている。


朝の職務から戻ったお父様が、私の顔を見て動きを止めた。


青あざだらけの頬を見た瞬間、表情がわずかに変わる。


普段ほとんど崩れない顔が、ほんの一瞬だけ青ざめた。


そのまま何も言わずにトレントへ視線を向ける。


トレントは短く事情を説明していた。


淡々とした口調なのに、内容だけがやけに物騒だった気がする。


お父様はそれを聞き終えると、静かにクレタの方へ歩いた。


ちょうどそのタイミングで、床に転がっていたクレタが目を覚ます。


「……あ? 終わっ……」


そこまでだった。


お父様の姿が消え、次の瞬間にはクレタの頭を拳で床にめり込ませていた。クレタの首が曲がってはいけない角度に曲がっていたのを私は忘れない。


音はほとんどなかった。


ただ、空気が一瞬だけ重く沈んで、それで終わった。


私はその場で固まったまま、しばらく動けなかった。


(……え?)


何が起きたのか理解する前に、「終わった」という結果だけが先に頭に入ってくる。


そのあとに遅れて、冷たい現実が追いついてくる。


(……今の、本当に大丈夫なやつ……?)


正直なところ、そのときの印象は一つしかなかった。


クレタが、本気で死んだように見えた。


後になってから「気絶しただけ」と説明されたけれど、その説明を素直に飲み込むまでにも、また時間が必要だった。


クレタがまだ床で意識を失ったままの間に、私は深呼吸を一つしてから、状況を整理することにした。


お父様、パティ、トレントがそれぞれ距離を取ってこちらを見ている。


正直、全員の視線が重い。


「……えっと」


言葉を選びながら、朝からの流れを順番に説明した。


クレタとの模擬戦のこと。


稽古をお願いした経緯。


私が止めきれなかったこと。


パティが取り乱した理由。


そして、今の状況に至るまで。


話し終える頃には、妙に喉が乾いていた。


お父様は無言のまま目を細めている。


パティは納得していないというより、まだ気持ちの整理がついていない様子だった。


トレントに至っては、最初から最後まで表情が変わらない。


「……なるほど」


誰にともなく、お父様が短く言う。


それ以上の追及はなかった。


ただ、その沈黙が一番重い気もした。


私は少しだけ頭を下げる。


「……すみません。でも、私がお願いしたことなので」


その言葉で、ようやく三人の空気がわずかに緩んだ。


完全に納得しているわけではないのは分かる。


それでも、「そういうことなら」と無理に飲み込んでいる感じだった。


やがて、クレタがうっすらと息を吹き返す。


「……っ、いてぇ……何が起きた……」


その声を聞いて、私は小さく息を吐いた。


(……とりあえず、生きてる)


午後の訓練のことを考えると、少しだけ気が重くなる。


それでも、やるしかないと思った。


私は心の中で静かに区切りをつける。


また午後から、頑張ろう。


午後、トレントとの模擬戦を終えたクレタは、いつものように庭の隅の練習場で地面に転がっていた。


ただ、今日は少し違う。


いつもより呼吸が荒く、服もあちこち破れている。


「よ、よぉ……そんじゃあ、やっか」


重そうに身体を起こしながら、クレタがこちらを見る。


私は剣を持ったまま、少しだけ迷ってから口を開いた。


「どうして……勝てないのに、そんなに毎日がんばるの……?」


自分でも、少し踏み込みすぎた気がした。


けれど、どうしても気になった。


クレタは一瞬きょとんとした顔をして、それから当然のように答える。


「……勝つまでやんねぇと、強くなれねぇだろ?」


あまりにも自然な言い方だった。


そこに迷いも、疑いもない。


私は少しだけ言葉を選んで続ける。


「で……でも、毎日戦って……負け続けて、辛くない?」


クレタは一瞬だけ黙る。


そして、すぐに笑った。


「悔しさは、ある!」


はっきりと言い切る。


それから、肩をすくめるように続けた。


「だけど辛いなんてこたぁ、ねぇよ」


「まだまだ強くなれるってことだぜ!?最高じゃねぇか!」


そう言って笑うクレタの顔は、さっきまで地面に倒れていた人とは思えないくらい、軽かった。


その笑顔が、妙に眩しく見えた。


私はしばらく、その表情から目を離せなかった。


その夜、私は傷の痛みを引きずったまま、ようやく浴室に浸かっていた。


湯に入ってしまえば楽になるのに、そこに至るまでが地獄みたいに痛い。


呼吸を整えながら、なんとか身体を沈めていく。


「……はぁ……」


ようやく力が抜けかけた、そのときだった。


浴室のドアが、何の前触れもなく開く。


「え……?」


反射的に振り向く。


そこに立っていたのは、髪を下ろしたクレタだった。


いつもまとめている髪が肩に落ちていて、雰囲気が少しだけ違う。


私は一瞬固まる。


「な、なん裸!?なんで入ってくるの……!?」


クレタは気にした様子もなく、腕を組んだままこちらを見る。


「風呂は裸で入るもんだろ?」


「そこじゃないよ」


私の声が裏返る。


「まぁ堅いことは言いっこなしってことで」


そう言った瞬間、クレタはそのままの勢いで浴室に入ってきた。


「ちょ……ちょっと……!」


思わず声が裏返る。


押し寄せた波が縁にぶつかって跳ね返り、私の肩を濡らした。


慌てて身を縮めて隅へ寄るが、クレタは当然のような顔をして、私の背後へと滑り込んできた。


「うっせぇな。

別に減るもんじゃねぇだろ」


彼女は両膝を立てて座り、その間に私を収めるようにして、後ろから抱きしめる形になった。


肌と肌が触れ合う距離。狭い湯船の中で、逃げ場なんてどこにもない。


クレタはしばらく無言で湯に視線を落としていた。


それから、少しだけ真面目な声になる。


「……でよ」


「ん……なに?」


私は警戒しながら返す。


クレタは湯を指で軽く弾きながら続けた。


「お前、昼間の稽古で言ってたろ」


一拍置く。


「“なんで負けてるのに続けるのか”ってやつ」


私は少しだけ身構える。


クレタは横目でこちらを見る。


「別に理由なんざ大層なもんじゃねぇよ」


「ただ、止まったら終わりだろ?」


あまりにもあっさりした言い方だった。


続けるのが当然で、疑う余地さえない。


そのあまりに純粋で暴力的なまでの信念に、私は言葉を失うしかなかった。


沈黙に包まれた浴室に、ただお湯の流れる音だけが響く。


思考を巡らせていた私の脇の下へ、クレタの両手が、迷いなく伸びてきた。


「あ……っ」


咄嗟に止めようとしたものの、反応が間に合わない。


私の控えめな両胸が、クレタの手にあっさりと捕まってしまう。


「にゃぁっ!」


思わず変な声が漏れ、私は慌てて、自分の口を両手で押さえる。指の間から漏れる熱い吐息と、心臓の激しい鼓動。


「……んだよ。やっぱお前、体はまだまだクソガキだなぁ」


背後から聞こえるクレタの声は、呆れたような、それでいて少しだけ楽しそうな響きを含んでいた。


「ちょ、ちょっと…や、やめて...離してっ...」


必死に抵抗しようとするが、クレタはびくともせず、むしろその感触を確かめるように、指先に少しだけ力を込める。


「……ふん。まぁ、柔らかさだけは、認めてやってもいいけどな」


冗談めかして言いつつも、彼女の指先が、私の肌の上で微かに震えたような気がした。


クレタの指先が、いたずらっぽく、繊細な動きで這い回る。


「おら……ここを、こうすっと……どうよ?」


耳元で、熱を帯びた声が囁かれる。意地悪な笑みを浮かべているのが、顔を見なくても伝わってきた。


クレタはわざとゆっくりと、指先に力を込めて、一番敏感な部分をなぞる。


「ひゃぅ……っ、んん……!」


逃げようと身を捩るが、クレタの立てた両膝と、力強い腕に挟まれて、かえって彼女の体に、深く沈み込む形になってしまう。


「あはは!なんだよその声。稽古の時より、ずっといい反応じゃねぇか」


クレタは私の首筋に、熱い鼻息を吹きかけながら、さらに手を動かし続けた。


「……たく。そんなに震えて、お前、本当は期待してたんじゃねぇのか?」


からかうような言葉とは裏腹に、私の肌に触れる彼女の手のひらは、驚くほど熱く、湿り気を帯びていた。


クレタは、さっきまでの意地悪な手つきを、ぴたっと止めた。


「とまぁ、冗談はさておき……」 


クレタが私の腕を優しく取ると、今度は掌全体で、じっくりと揉みほぐし始める。


「身体使ったあとは、こうして風呂でマッサージしねぇから、痛みが残んだよ」


その手つきは、先ほどとは打って変わって、的確で、驚くほど丁寧だった。


「っ……あ……」


不意に強まった力加減に、思わず声が漏れる。


けれどそれは苦痛ではなく、溜まっていた疲れが、お湯の中に溶け出していくような、心地よい刺激だった。


「いいか。筋肉ってのは、動かした分だけ、労ってやらなきゃなんねぇんだ」


クレタが私の手足の筋を一つずつ、確認するように、ゆっくりと解いていく。


「……お前、無理しすぎなんだよ。まぁ...焦る気持ちはわかっけどな」


クレタはそれだけ言うと、立ち上がる。


湯が揺れて、また静かになる。


「じゃあな。のぼせるなよ」


そう言い残して、さっさと浴室を出ていった。


残された私は、しばらくその場で固まっていた。



ちなみにこの件がパティにバレ、クレタが気絶するまで何度も池に沈められたのは、また後の話。

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