味のない朝食ー
私は覚悟を決めた。
もう、あの言葉を言うしかない。
リスクはある。
でも、この状況を止めるには、それしか思いつかなかった。
必死に声を絞り出す。
「も…もぉっ!やめてくれないと、パティのこと嫌いになるからっ!」
その瞬間だった。
パティの全身から、すっと力が抜ける。
クレタを押さえつけていた足も、静かに緩んだ。
圧迫から解放されたクレタは、その場に崩れるように壁へもたれかかる。
喉を押さえながら、荒い息を吐いていた。
「……っはぁ……死ぬかと思った……」
その声が耳に届く。
けれど、私はそれどころではなかった。
パティの顔が、変わっていた。
血の気が引いている。
さっきまでの冷静さも、無表情もない。
そこにあるのは、ただ動揺だけだった。
ゆっくりと、こちらを振り向く。
「……うそ……うそですよね……お嬢様が……私を……嫌いになんて……」
声が震えている。
パティはその場から動かない。
ただ、私の言葉の意味だけを確かめるように、じっと見ている。
背後でクレタが小さく舌打ちした。
「……おい、これ別の方向でヤバくねぇか?」
私は何も答えられなかった。
ただ、食堂の空気だけが、さっきとは別の意味で重く沈んでいた。
そして、私を見たまま――
パティの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
一滴、二滴ではない。
堪えていたものが決壊するように、次々と溢れていく。
「……っ……」
そのまま、膝が崩れる。
支えを失ったように、その場にへたり込んだパティは、次の瞬間にはもう抑えが効いていなかった。
「うぅ……っ……お、お嬢様ぁ……っ……!」
食堂に響くほどの大声で泣き出す。
完全に、いつもの冷静なメイドではなかった。
その騒ぎを聞きつけて、廊下の向こうから足音が集まってくる。
執事のトレントを先頭に、数人のメイドたちが顔を出した。
一瞬、食堂の惨状を見る。
床に崩れるクレタ。
固まっている私。
そして大声で泣いているパティ。
数秒の沈黙のあと――
ある者は、ほっとしたように息を吐き。
ある者は、深いため息をつき。
ある者は、苦笑しながら静かに視線を外し。
それぞれ何事もなかったように、持ち場へと戻っていく。
「……またか」
そんな空気すらあった。
最終的にその場に残ったのは、トレントだけだった。
トレントは一度だけ全体を見渡し、それから静かにパティへ視線を落とす。
そして、何も言わずに立っていた。
パティはその場で、ひたすら大声を上げながら泣き続けていた。
「うぅ……っ、お嬢様ぁ……っ……!」
周囲では、まるでそれが日常の一部であるかのように、他のメイドや商人たちが朝食の準備を進めている。
パンが並び、スープが温められ、皿が静かに運ばれていく。
泣き声が響いているのに、作業は滞らない。
異様なのに、妙に整った光景だった。
しばらくして、壁にもたれていたクレタがようやく立ち上がる。
「……それで、どうすんだよ?こいつ」
無造作に、泣き続けるパティを指差す。
私は一瞬だけ言葉に詰まる。
パティは――一度泣き始めると止まらない。
放っておけば、三日三晩は平気で続く。
以前は一週間泣き続けて、最終的に脱水症状で倒れ、病院に運ばれたこともあった。
あのときのことは、正直あまり思い出したくない。
そのせいで予定していた旅行が全部消えたのだ。
私は小さく息を吐く。
「……止まらないんだよね」
クレタが眉をひそめる。
「は?」
「放っておくと、そのまま長引いて……」
「いや知らねぇよそんな仕様」
クレタは心底面倒そうに頭をかいた。
その横で、パティの泣き声だけが食堂に響き続けている。
私はどうにかしようとして、どうにもならない現実に直面していた。
その場で、ただ静かに様子を見ていたトレントが小さく咳払いをした。
「……お嬢様、そろそろお願いします」
その一言に、私は現実へ引き戻される。
(……やっぱり、私がやるしかないんだ)
憂鬱な気持ちのまま、小さく頷いた。
この状況を招いたのは、間違いなく私だ。
なら、収拾をつけるのも私の役目になる。
痛む身体を無理やり起こして、深く息を吸う。
吐く。
もう一度吸って、ようやく気持ちを整えた。
そして、泣きじゃくるパティの前にしゃがみ込む。
そのまま、正面からそっと抱きしめた。
「パ、パティ……嘘だよー嫌いになんて、ならないよー」
なるべく声を高くして、軽くして、子供に言い聞かせるみたいに言う。
正直、かなり恥ずかしい。
自分で言っていて、耳まで熱くなる。
けれど、それでもパティは止まらない。
「うぅ……っ……ほんとう……ですか……?」
泣き声の合間に、かすれた声が返ってくる。
私は少しだけ強く抱きしめ直した。
「ほ、ほんとだよーわーい!よかったねぇー」
その様子を見たクレタが、突然吹き出すように笑い出した。
「なんっだ!?てめぇ、その声はよぉ!?」
お腹を抱えてケラケラ笑っている。
次の瞬間、視界の端で動きがあった。
トレントの膝が、クレタの鳩尾に正確に入る。
「ぐっ……」
短い声だけ残して、クレタはそのまま床に沈んだ。
完全に気絶している。
(……今それどころじゃない)
私は視線をすぐに戻す。
目の前には、まだ泣いているパティ。
ここをどうにかしないといけない。
私は必死に抱きしめたまま、声を作る。
「ほぉらー、嫌いなら抱きしめたりしないでしょー?ほらほらー」
なるべく明るく、軽く、揺らすように言う。
パティは私よりずっと背が高い。
その体を必死に抱えながら、左右に揺らす。
少しだけ上下にも揺らす。
どうにか落ち着いてほしくて、必死だった。
「お嬢様……」
まだ涙声は残っている。
でも、さっきよりは少しだけ呼吸が整ってきている気がした。
私はそのまま、もう一度しっかり抱きしめ直した。
パティを抱きしめたまま揺らしているうちに、私は妙な現実に気づいてしまった。
……背中に手が、うまく回らない。
パティの豊かすぎる胸が、私の身体を押し除けるかの様に迫ってくる。
ムカつくような、羨ましいような、妙に落ち着かない気持ちだけが残る。
それでも、今はそれどころじゃない。
私は必死に頭を切り替えて、言葉を重ねる。
「ほら、大丈夫だよー」
「嫌いになんてならないって言ったでしょー」
「パティはちゃんと頑張ってるしー」
自分でも何を言っているのか分からないまま、ひたすら褒めて宥めて、少し甘やかして、また揺らす。
その繰り返しだった。
時間の感覚は途中で消えていたけれど、気づけばかなり長い時間が経っていた。
そしてようやく――
パティの呼吸が落ち着いてくる。
「……お嬢様……」
まだ少し鼻声ではあるけれど、泣き声ではない。
私は内心で大きく息を吐いた。
(……やっと、止まった)
正直なところ、クレタとの模擬戦よりずっと疲れている。
体力というより、別の意味で消耗した気がした。
トレントが、気絶したクレタを一瞥してから淡々と処理に移っている横で、パティはまだ私にしがみついたままだった。
「……お嬢様」
ようやく落ち着いた声が、耳元で小さく響く。
私はそのまま離れるタイミングを完全に失っていた。
結局、私はパティを抱えたまま席に座り、朝食が運ばれてくるのを待つことになった。
テーブルには、いつも通りの料理が並ぶ。
スープの湯気も、焼きたてのパンの香りも、きっと本来なら落ち着くもののはずだった。
けれど私は、正面からパティを抱えたままなので、両手も自由ではない。
そしてパティも、当然のように離れない。
「……お嬢様、こちらを」
トレントが何事もなかったようにパンを差し出してくる。
私は片手でなんとか受け取る。
味は――よく分からなかった。
噛んでいる感覚はあるのに、何を食べているのか頭に入ってこない。
パティはようやく落ち着いたのか、私の肩に額を寄せたまま静かになっている。
その状態のまま、朝食は進んでいく。
周囲はいつも通り動いているのに、私のところだけが妙に重く、止まっているようだった。
(……これ、いつも通りの朝食って言っていいのかな)
そんなことを考えながら、私は黙々とパンを口に運んだ。
結局、その日の朝食は、何を食べたのかほとんど覚えていなかった。




