母の眠る部屋へー
やがて迎えの馬車が動き出す。
御者席に座っているのはパティ。
私はその隣へ座り、クレタは馬車の室内へ押し込まれていた。
普通なら逆だ。
だがこれは私の希望だった。
久しぶりのアルカナスを、自分の目で見たかったから。
馬車は運河沿いの通りをゆっくり進んでいく。
石橋を渡るたび、水面が陽光を反射してきらきらと揺れた。
観光客の姿も多い。
以前より明らかに人が増えている。
列車の影響だろう。
駅周辺には新しい店まで増えていた。
土産屋。
カフェ。
水上レストラン。
見慣れない建物もかなり多い。
「なんか、また街変わったね」
「列車開通以降、観光客が急増しておりますので」
手綱を握ったまま、パティが淡々と答える。
「宿泊施設不足が深刻らしいですよ。現在も拡張工事中です」
「へぇ……」
私は街を眺めながら、少しだけ目を細める。
懐かしい。
でも、ちゃんと今も動いている。
そんな感じだった。
すると後ろの馬車室内から、不機嫌そうな声が聞こえてくる。
「うちも外座るっつっただろーが」
「クレタは威圧感がありますので」
「なんだそりゃ」
「あと顔が怖いです」
「ぶっ飛ばすぞ」
やがて馬車は、大きな門を抜けて屋敷の敷地へ入っていく。
白い石造りの屋敷。
広い庭園。
噴水。
整えられた並木道。
見慣れたはずの景色なのに、少しだけ久しぶりに感じた。
馬車が正面玄関前で止まる。
その瞬間。
ずらり。
使用人たちが一斉に頭を下げた。
先頭に立っているのは、黒燕尾服の老執事。
背筋を完璧に伸ばした老人が、静かに一礼する。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
執事長、トレントだった。
その後ろにも、料理人、庭師、メイドたちの姿が並んでいる。
みんな変わっていない。
元気そうで安心する。
私は馬車からゆっくりと下り、
「ただいま...戻りました」
すると空気が一気に和らいだ。
何人か露骨に安心した顔をしている。
トレントはそんな周囲を見ながら、小さく咳払いをした。
「皆、お嬢様が困惑しております。少し落ち着きなさい」
「ですが執事長、お嬢様がまた危険な旅へ…」
「その話は後です」
「今回のお手紙、“また山が消えました”しか書いて――」
「後です」
トレントが静かに遮る。
でも気持ちは分かる。
たぶん皆、本気で心配していたのだろう。
私は苦笑する。
「みんな、ほんとに大袈裟なんだから…」
屋敷へ入った後、私はまずお父様の事を尋ねた。
するとトレントが静かに答える。
「旦那様は本日、領内視察へ出ておられます。夜には戻られる予定です」
「そっか……」
最後に会ったのは、たしか半年以上前だっただろうか。
手紙のやり取りはしていたが、直接会うのは久しぶりだ。
私は小さく頷く。
「じゃあ先に、お母様のところ行くね」
「かしこまりました」
案内され、屋敷の奥へ向かう。
静かな廊下。
柔らかな絨毯。
窓の外には運河が見える。
懐かしい景色だった。
やがて辿り着いた部屋の前で、パティが静かに扉を開ける。
室内には穏やかな薬草の香りが漂っていた。
大きなベッド。
薄いカーテン。
差し込む午後の日差し。
そして、その中央。
お母様は静かにベッドの中にいた。
私は足音を立てないよう静かに部屋へ入り、そのままベッド脇の椅子へ腰を下ろした。
白いカーテンが風でわずかに揺れている。
お母様は眠っているようだった。
少し痩せた気もする。
けれど表情は穏やかだった。
私はそっと、その手へ触れる。
少し冷たい。
「お母様…ただいま、戻りました」
小さな声でそう告げる。
部屋の中には時計の音だけが静かに響いていた。
やがて、お母様の睫毛が小さく揺れた。
ゆっくりと、その瞳が開かれる。
私と同じ、薄い空色の瞳。
ぼんやりとしていた視線が私を映した瞬間、その目がぱっと大きく見開かれた。
そして唇が震える。
「やっば、ミリィじゃん! 帰ってくるの明日じゃないっけ?」
「いいえ、今日ですよ」
「え、マジ? 一日勘違いしてた……」
お母様は呆然とした顔のまま天井を見上げる。
その反応があまりにもいつも通りで、私は少しだけ笑ってしまった。
次の瞬間。
お母様は勢いよく布団を跳ね除け、そのまま飛びつくように私を抱きしめてきた。
「おっかえり! なんだよーみんな、起こしてくれたらいいのに」
「起こしても、起きないじゃないですか」
「いや今回は起きたかもしれないし?」
「絶対無理です」
「即答!?」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられる。
昔から、お母様はこうだった。
距離感が近い。
「うわー、ミリィだ……ほんものだ……」
「偽物みたいに言わないでください」
「だって最近ずっと手紙だけだったしー」
お母様は嬉しそうに笑いながら、私の頭をわしゃわしゃ撫で回す。
少し乱暴で、でも懐かしい手つきだった。
お母様はようやく体を離すと、じっと私の顔を見てから、にやりと笑った。
そして親指を立てる。
「彼氏できた?」
私は思わず苦笑する。
「お母様…私まだ12歳ですよ」
「私が12の時には、彼氏の1人や2人いたし」
「…いません」
「じゃー好きな男は?」
「そういうのも特には」
「え!? じゃいつも誰と遊んでんの!?」
「遊ぶって…んー、ベルさんですね」
少しだけ間が空いた。
お母様の表情がぴたりと止まる。
「……誰?」
「一緒に旅してる人です」
「男?」
「……人です」
「誤魔化したな今」
本当のことは言えない。
けれど、嘘もつきたくない。
少しだけ視線を逸らしてから、私は口を開く。
「…男性です。一応」
「なんだよーいるんじゃん!」
お母様は楽しそうに笑いながら、私の頬を指でつついてくる。
ちょっと痛い。
相変わらず加減が分かっていない。
「で? どんな男?」
「どんな…ちゃらんぽらんな…人、かなぁ」
言いながら、自分でも少し考える。
ちゃらんぽらん。
……うん、間違ってはいない。
たぶん。
お母様は興味津々といった様子で身を乗り出してくる。
「なにそれ気になる。顔は? かっこいい?」
「えっと……」
少しだけ考える。
昼と夜で違うとかは言えない。
「……整っては、います」
「ふーん? で、優しい?」
「優しい、ですね」
即答だった。
「ほらーいいじゃん! 完全にそれ好きなやつでしょ!」
「違います」
「早っ」
私は小さく息を吐く。
なんというか。
説明が難しい。
「そういうのじゃないです」
「うちのダーリンに似てる?」
ダーリン、というのはお父様のことだ。
私は少しだけ考えてから首を振る。
「お父様とは、とてもとても…真逆、ですね」
「へぇ?」
「ぐうたらだし、めんどくさがりで、ぶっきらぼうで…あとは…」
言いかけて、少しだけ言葉を選ぶ。
……でも。
結局そのまま出てきた。
「..女性にだらしない」
自分でも少しきつい言い方になったと思う。
お母様は一瞬だけきょとんとした顔をして、それから少し考えるように視線を上げた。
「…そいつ、大丈夫?」
私は少しだけ考えてから、静かに言う。
「少なくとも…私に害はないので」
お母様はへーと気のない相槌を打ち、それ以上は追及しなかった。
代わりに、「おけ」と一言だけ言って――。
次の瞬間、勢いよくベッドから飛び降りる。
柔らかく着地すると、そのままぐっと大きく背伸びをした。
「んー……よし、起きた」
さっきまで寝ていた人とは思えない軽さだ。
私は少し呆れながらそれを見ていた。
お母様はくるりとこちらを振り返り、にこやかに笑う。
「今度、うちに連れていらっしゃい」
間を置かずに返す。
「え? 絶対いやです」
ぴたり、と動きが止まる。
それからゆっくりと、信じられないものを見るような顔になる。
「なんで!?」
「そういう顔をした時のお母様、絶対何か企んでますもん」
即答だった。
お母様はぶんぶんと首を横に振る。
「たくらんでないって! ちょっといろいろ聞きたいだけ!」
「それが嫌なんです」
「ひどくない!?」




