シチズンズ・シールドー
ベルが震える両手をゆっくりと開く。
指先にはまだ力が戻りきっていない。それでも、無理にでも拳を握り直した。
「……白狛、私も戦うわ。最後まで!」
声は弱い。けれど、意思だけは折れていなかった。
白狛の背中がわずかに動く。唸り声は消えないまま、完全に防御の姿勢を崩さない。
そのときだった。
地面を伝うように、重い足音が響き始める。
ひとつ、ふたつ――ではない。
数十の足音が、規律を持って一斉に迫ってくる。
包囲していたKAGEの気配とは違う。整った、訓練された“群れ”の圧力。
ベルが白狛の脚の間から視線を上げる。
そこに見えたのは、見慣れた青と黒の制服を身に纏った一団。
足音がぴたりと止まる。
先頭の一人が、一歩前へ出る。
「大陸警察! 本部直属部隊――市民の盾〈シチズンズ・シールド〉現着!」
その声に、空気が変わる。
ベルは目を瞬かせたまま、小さく息を漏らした。
「あぁ……応援、だぁ……」
安堵と緊張が同時に崩れ落ちるような声。
だが状況はまだ終わっていない。
警察隊長が短く息を吸い、全体へ命令を飛ばす。
「これより本隊はスメラギ皇国からの刺客に対し、全力制圧で臨む! 構え!」
一斉に金属音が響く。
肩に掛けられた銃剣が引き抜かれ、整然と前へ構えられていく。
空気が一段、冷たく締まった。
「制圧開始!」
その号令と同時に、戦場は“個”から“軍”へと切り替わった。
戦場は一瞬で様相を変えた。
KAGEと警察隊がぶつかり合うたびに、金属音と怒号が重なり、空気そのものが削られていく。
そこへさらに増援が到着し、流れは決定的に傾いた。
押し返す。
塗り替える。
数の差と統制が、じわじわと包囲網を逆転させていった。
やがて約三十分。
最後の抵抗が崩れ、KAGEの一団は次々と拘束されていく。
静けさが戻り始めたころ、ベルはようやく上半身を起こせる程度まで回復していた。
「……終わった、の……?」
小さく息を吐く。
白狛もゆっくりと力を抜き、ベルの上から体をどかす。張り詰めていた空気がほどけ、周囲にも安堵が広がりかけた、その瞬間だった。
すぐ近く。
拘束されたイヌイが息を吹き返し、わずかに口を動かす。
誰もが油断した、その一瞬。
口の奥から、細い何かが弾けるように飛び出した。
含み針。
空気を裂く鋭い音。
反応が遅れたベルが、その気配に気づいて振り向く。
咄嗟に目を閉じる。
身体が動くよりも早く、死角からの一撃が迫っていた。
次に感じたのは、鋭い殺気ではなく――影だった。
そっと目を開ける。
そこに立っていたのは、再生を終えたマークスだった。
荒い呼吸を繰り返しながらも、倒れずに立っている。彼はベルの前に割り込むように立ち、手にした警棒を差し出すように構えていた。
その表面には、さきほどの含み針が数本、深く突き刺さったままだった。
「……っ」
短い息。
次の瞬間、マークスは躊躇なく地を蹴る。
狙いは一点――イヌイ。
拘束されたイヌイに対し、一気に距離を詰めた。
振り上げられる警棒。
躊躇も、ためらいもない一撃。
「――!」
乾いた衝撃音が響き、警棒がイヌイのこめかみを正確に打ち抜いた。
その瞬間、イヌイの身体から力が抜ける。
白目を剥いたまま、完全に崩れ落ち、拘束具に支えられながらも動きを止めた。
戦場の空気が、一段階だけ静かになる。
マークスはその場で息を整えながら、短く吐き捨てた。
「警察、なめんな!」
マークスは荒い呼吸を整えながら、ゆっくりとベルの方へ振り返った。
そして、軽く笑ってVサインを送る。
「……終わったな」
その軽口に、ベルも思わず安心したように口元を緩める。
そして同じように、Vサインを返そうとして――
次の瞬間、目が見開かれた。
「マ……マークスさん!前、前ぇ!」
声が裏返り、顔が一気に真っ赤になるベルは、反射的に両手で顔を覆った。
戦場の緊張が一瞬で別方向に吹き飛ぶ。
言われたマークスは、きょとんとしたまま自分の身体を見下ろした。
そこでようやく気づく。
変身の反動で制服は跡形もなく消え去っており、そこには何も“守るもの”が残っていなかった。
一瞬の沈黙。
「……あ」
短く漏れた声と同時に、マークスは即座に前を押さえた。
さっきまでの威勢はどこへやら、ただの人間の焦りだけがそこにあった。
マークスは慌てて前を押さえたまま、半ば言い訳のように声を上げる。
「ち、違うんだよ!ベルちゃん!わかるよね!?」
その一歩が、妙に必死だった。
だがベルは即座に顔を背ける。
「ちょっと、近付いてこないで!」
両手で顔を覆いながら、全力で距離を取るように背を向けた。
「いやだ……もう……」
戦闘後の安堵が、完全に別の意味で崩壊している。
そのとき。
白狛が動いた。
低く唸り声を上げながら、ベルの前へと一歩踏み出す。
完全に“遮る”形で立ち塞がり、マークスを真正面から睨む。
マークスは一瞬固まる。
「ちょ、お前のご主人様はベルちゃんじゃないだろ!」
白狛の唸りはさらに低くなる。
一触即発の空気が戻りかけたその場に、ベルの叫びが割り込んだ。
「もぉー、いいから早く服を着て!」
声が裏返り気味なのが、余計に必死さを強調していた。
KAGEの全員が拘束され、護送隊へと引き渡されたのは、すでに戦闘の喧騒が遠ざかり始めた頃だった。
規律正しい警察隊の動きだけが残り、現場は「戦場」から「処理現場」へと変わっていく。
ベルたちはその流れの中で、静かに病院へと戻されていった。
治療は最低限ではあるが必要なものだけが施され、負傷や疲労が一つずつ処理されていく。
マークスは簡単な処置を終えると、本部への報告があるとだけ告げて病院を後にした。
その背中はすでに、先ほどまでの混乱を引きずっていない。
白狛は裏口へと連れて行かれ、落ち着かせるように繋がれている。
ようやく、全てが収束した。
喧騒も、緊張も、戦闘の気配も、少しずつ剥がれていく。
ベルが病室の窓の外を見たとき、空はすでに夜に変わっていた。
静かな暗さが、今日の長い一日を包み込んでいる。
ようやく訪れた、ただの夜だった。
黒髪の少女の姿がゆっくりとほどけていく。
呼吸が落ち着くのと同時に、輪郭が変わり、髪は銀へと変色し、体つきもわずかに引き締まる。
そこに立っていたのは、銀髪の少年のベルだった。
窓の外には、すでに夜の街が広がっている。
静かな光だけが遠くに点在し、今日という一日の終わりを示していた。
ベルはその光をしばらく見つめたまま、ぽつりと呟く。
「やっと終わったよ……マリーナ」
返事はない。
それでも、その一言だけが、ようやく訪れた静けさの中に落ちていった。




