MURASAME折れるー
リューナが小さく首を振る。
「いつもの主人様ならもっと……そんなにあの女がいいんですの?」
その声音に、ほんのわずかな棘。
嫉妬の色が滲む。
ベルは視線を逸らしたまま、ぶっきらぼうに返す。
「…そんなんじゃねぇよ」
リューナの瞳が、すっと細くなる。
「あぁ、そうですか」
温度のない返事。
そのまま視線を落とし、地に押し潰されている殺を見下ろす。
「そういうわけですから……話になりませんので、ここまでになさい」
淡々とした宣告。
だが――
殺の唇が、なおも動く。
「私は…弱くない…私は…MURASAMEの…」
掠れた声。
それでも、折れない芯だけが残っている。
リューナは一つ、ため息を吐いた。
そして――
何の躊躇もなく、手を伸ばす。
重圧に縫い付けられたままの殺の手元へ。
その指が、刀の柄に触れる。
次の瞬間。
まるで最初からそこにあるべきもののように、
――妖刀が殺の手から離れた。
途端に、殺の全身から力が抜け落ちる。
紅く輝いていた瞳から光が消え、ゆっくりと閉じていく。
同時に――
両腕が、霧のように消える。
空になった袖だけが、力なく地面へと沈んだ。
「あっああぁああああぁっっっ…」
喉を引き裂くような悲鳴。
妖刀の加護を失った身体は、あまりにも脆い。
逃れる術もなく――
重圧が、そのまま叩きつける。
骨が軋む。
全身が悲鳴を上げる。
動けない。
抗えない。
ただ、押し潰されていく。
その様を、リューナは無言で見下ろしていた。
地に押し潰されながらも、殺が声を絞り出す。
「か…返せ…それは…私の…」
リューナは手にした妖刀を、つまらなそうに見下ろす。
興味がない、と言わんばかりに。
次の瞬間――
両手で柄と刀身を掴み、そのまま力を込める。
ぎしり、と。
金属が悲鳴を上げるような音が響く。
殺の顔が歪む。
「待て…待ちなさい。なにを…何をしている…?」
焦りと恐怖が混じる声。
リューナは眉をわずかに顰める。
さらに力を込める。
だが――
「…折れませんわね…」
わずかに不満げに呟いた。
了解です。最初から整えます。
⸻
殺が歯を食いしばる。
「当たり前です…全てを斬り裂く妖刀が折れるわけ…」
その言葉を――圧が遮る。
空気が沈む。
リューナの放つ竜気が、一段階上がる。
頭の角が、ゆっくりと大きく伸びる。
赤と青の、その瞳の中の瞳孔が、縦に裂ける。
そして――
両腕。
肘から先が、別の“質”へと変わる。
そこを覆うのは、七色に輝く真珠のような鱗。
滑らかで、やわらかく光を返しながらも、
そこにあるのは明確な“絶対性”。
人のものではない。
竜の腕。
「本気出しますわ」
唇の端から、鋭い牙が覗く。
静かな宣言。
ベルが横から呟く。
「お前だってムキになってるじゃねぇか」
だが、リューナは応えない。
ただ、妖刀を両手で掴み直す。
鱗に覆われた指が、刃と柄を確かに捉える。
ぎしり、と。
金属が軋む音が、空気に響く。
さらに力を込める。
空間そのものが歪むような圧。
リューナの縦に裂けた瞳が細まり――
「……折れなさい」
低く、静かに告げる。
リューナの顔つきが、はっきりと険しくなる。
余裕は消えていた。
その額に、じわりと汗が浮かぶ。
「…折れ、ろぉ…」
低く、押し出すような声。
竜と化した両腕に、さらに力が込められる。
全身から、竜気が噴き出す。
空気が震え、重く沈む。
ぎしり――
金属の軋む音が、次第に強くなる。
刃が、わずかに歪む。
「や…やめ..やめなさい…やめてぇぇぇぇっ!」
地に押し潰されたまま、殺が叫ぶ。
必死の、懇願。
だが――
その声を待っていたかのように。
限界が、訪れる。
バキンッ――!!
甲高く、決定的な音。
妖刀が、折れる。
二つに断たれた刃が、空中で一瞬だけ静止し――
やがて、力なく落ちた。
リューナが、大きく息を吐く。
張り詰めていた力が、ふっと抜ける。
そして――
にこやかに、微笑んだ。
「…やりましたわ」
どこか満足げに。
その手に握っていた、折れた妖刀から指を離す。
二つに断たれた刃が、そのまま重力に従い――
乾いた音を立てて、地面に落ちる。
カラン、と。
静かな終わりの音。
地に押し潰されたまま、殺の喉が震える。
声にならない声。
ただ、壊れた何かだけが、そこにあった。
リューナが、ふっと表情を緩める。
「もういいですわ」
その一言とともに――
変化していた身体が、逆再生のように戻っていく。
伸びていた角が縮み、
縦に裂けていた瞳が元に戻る。
七色に輝く真珠のような鱗も、静かに消え、
白い腕へと戻っていく。
同時に――
殺にかけられていた重圧が、ふっと消える。
まるで最初から何もなかったかのように。
「……っ、は……っ……!」
解放された瞬間、殺の身体がわずかに跳ねる。
押し潰されていた反動で、呼吸が荒くなる。
肺に空気を取り戻すように、何度も息を吸う。
やがて――
少しずつ、呼吸が整っていく。
それでも、その身体はまだ震えていた。
地に伏したまま、殺の指がわずかに動く。
力はほとんど残っていない。
それでも――
身体を引きずる。
這うように、少しずつ。
砕けた石畳の上を、血と汗を滲ませながら進む。
視線の先にあるのは――
折れた大刀。
やがて、その元へと辿り着く。
震える首を伸ばし、
柄へと顔を寄せる。
そして――
歯を食いしばるように、咥える。
その姿を、リューナが見下ろす。
一瞬だけ、目を細める。
「…まだやる気ですの?」
地に伏したまま、殺の声が絞り出される。
「私は…御刀…この命の尽きぬ限り…使命は全うする…」
掠れながらも、芯だけは折れていない。
その瞬間――
閉じていた瞳が、再び開く。
紅が宿る。
同時に、肩口から――
両腕が、新たに生える。
何度でも。
最初からそこにあったかのように。
口に咥えていた折れた大刀の柄を、手で掴む。
震える指が、それでも離さない。
そして――
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
身体を持ち上げる。
膝が浮き、腰が上がり、
やがて――立つ。
折れた刃を手にしたまま。
その姿を、リューナが静かに見つめていた。
殺が折れた刃を片手で握り、構える。
刃は半ばから失われている。
それでも――その瞳は、まだ折れていない。
真っ直ぐに前を見据えたまま。
その様子を見たリューナが、ふっと息を吐き――ベルへと向き直る。
「これだけの意地を見せているのです。応えて差し上げてはいかが?」
静かな提案。
試すようでもあり、任せるようでもある。
ずっと座って見ていたベルが、ゆっくりと立ち上がる。
「そうだな…その根性は、尊敬に値する」
短く、だが確かな言葉。
リューナは小さく頷くと、
ベルへ、そして殺へと、丁寧に一礼する。
その仕草の後――
軽く握った拳の甲で、コツンと空間を叩く。
まるで扉をノックするように。
すると――
その一点から、ひびが走る。
空間に、亀裂が入る。
静かに、しかし確かに“開く”。
「それでは、ごきげんよう」
微笑みを残し、
そのまま身体を滑り込ませるように――
割れた隙間の中へと消える。
やがて亀裂は閉じ、
何事もなかったかのように、夜だけが残った。
夜が、静かに張り詰める。
再び――ベルと殺が対峙する。
ベルが一歩、前に出る。
「あんたのことは許せはしないが…その志は尊敬に値する」
低く、はっきりとした声。
だが――
殺は応えない。
ただ、手にした折れた刀を握り直す。
その仕草だけで、意思は十分に伝わる。
ベルは肩を回し、息を吐く。
「連戦の上に、刀も折れて、死に体ってとこだと思うけど」
そこで一度、言葉を区切る。
両手を軽く開く。
「実際、俺も最初の戦闘でほとんど体力使っちまってる。散々斬られまくったしな」
自嘲気味に笑い――
すぐに、その表情を消す。
「だから、手加減する余裕はねぇ!本気でいかせてもらう」
空気が変わる。
それは姫神のそれとは違う。
もっと生々しい、“人間の本気”。
殺の瞳が、わずかに細まる。
「もとより、望むところ」
短い返答。
互いに、もう言葉はいらない。
次に動いた瞬間――
それが、決着になる。
殺が、わずかに息を整える。
折れた刀を構えたまま、静かに口を開く。
「戦いの前に、ひとつ、聞かせてください」
ベルは言葉を返さず、ただ視線で促す。
殺が続ける。
「あなたは…なんのために戦うのですか?」
一瞬の間。
ベルは肩の力を抜いたまま、答える。
「この戦いなら、あんたに散々痛めつけられた、マリーナのために」
その名に、殺の瞳がわずかに揺れる。
やがて、静かに目を伏せる。
「それに関しては…あなたを誘い出すためとはいえ、申し訳ないとは思います」
短い謝罪。
だが、すぐに顔を上げる。
瞳は、揺れていない。
「ですが今、聞いたのは、なんのために魔王達と戦うのか、ということです」
問いは、変わらない。
その奥にある“本質”を求めるように。
ベルは一瞬だけ黙り込む。
夜の風が、二人の間を抜けた。




