リューナの理不尽ー
ベルの声が、静かに落ちる。
「…リューナ。次はお前だ」
指輪が震える。
淡い光が脈打つように強まり――
ベルの目の前の空間に、亀裂が走る。
音もなく、しかし確かに“割れた”。
そこから、まず両手が現れる。
縁を掴むようにして、ゆっくりと外へ。
続いて足。
ヒールの先が空間の縁を越え、現実へと踏み出す。
次に頭。
ピンクの髪が揺れ、二対の角が覗く。
そして――最後に全身が抜け出る。
裂けた空間が、背後で静かに閉じる。
何事もなかったかのように。
リューナは軽く裾を払う。
黒のドレスのフリルが、わずかに揺れた。
赤と青の瞳が、ゆっくりと前を向く。
その視線の先に、殺がいる。
姿を現したリューナが、その場で大きく欠伸をする。
口元を隠すこともなく、気だるげに。
そのまま背伸び。
小さな身体がしなやかに伸び、背中の翼がわずかに揺れる。
黒のフリルドレスがふわりと浮き、すぐに落ち着く。
一息ついてから、ゆっくりとベルへ視線を向ける。
「…ごきげんよう。主人様」
ベルがわずかに目を細める。
「…お前は不機嫌そうだな」
リューナが、ふっと鼻で笑う。
「主人様の命を狙う不届者がいると聞いては、不機嫌にもなりますわ」
その声には、露骨な苛立ちと見下しが混じっている。
殺がリューナへ視線を送る。
「また…妙なものが…」
ベルはその視線の先を一瞥し、淡々と言う。
「たぶん、お前にとってはこいつは相性最悪だ」
リューナが、意地悪く口元を歪める。
何も言わずとも、その意味は伝わる。
殺が奥歯を噛み締める。
空気が、わずかに張り詰める。
ベルが言い放つ。
「理不尽さに、絶望しろ」
その言葉を受け、殺が動く。
大刀を振り上げ、大上段へ。
呼吸が一瞬だけ止まる。
そして――
「妖刀・MURASAMEー解放」
その言葉と同時に――
刀身が、深い紅に染まる。
ただ光るのではない。
“内側から滲み出るような光”。
同時に、殺の両眼が開く。
紅く、鋭く。
それまでとは明らかに違う圧が宿る。
次の瞬間。
両腕に力が満ちる。
失われていたはずの感覚が、最初からそこにあったかのように戻る。
そして――
刀から溢れ出した妖気が、殺の全身を包み込む。
揺らめく紅の奔流。
それは炎のようでいて、炎ではない。
空気が震え、屋根が軋む。
空を裂き、海を割り、大地を砕くと謳われる刃。
その本質はただ一つ。
――“全てを斬る”。
解放された力が、殺の身体能力を押し上げる。
速度、力、感覚。
すべてが跳ね上がる。
存在そのものが、一段階上へと引き上げられる。
殺がゆっくりと顔を上げる。
その紅の瞳が、真っ直ぐに前を射抜く。
その先には――
リューナがいる。
リューナの背後で、塔が静かに傾ぐ。
次の瞬間、斜めに断ち切られ、そのまま崩れ落ちる。
遅れて――さらに遠く。
丘が裂け、山が断たれ、崩壊が連鎖していく光景が視界の奥で広がる。
一閃の“結果”だけが、世界に残っていた。
そして――
そのすべてより、遥か手前。
最も近くにいたリューナの目が、見開かれている。
驚愕。
ほんの一瞬だけ、表情に隙が生まれる。
その身体もまた、無傷ではない。
袈裟懸けに、ドレスが裂けている。
黒の布地が、すっと開き、そこから白い肌が覗く。
だが――
それだけ。
致命には届かない。
リューナが、裂けたドレスの前を両手で押さえる。
先ほどまでの余裕は消えていた。
肩が小さく震えている。
「……っ」
わずかに息を呑む音。
頬がほんのりと紅を帯びる。
視線が一瞬だけ逸れる。
「驚きましたわ。…まさかわたくしの服を斬る、とは…」
声は抑えているが、完全には隠しきれていない。
高飛車な調子の奥に、はっきりとした動揺――そして羞恥。
その様子に、今度は殺の方が息を呑む。
「馬鹿な…全てを斬るMURASAMEの斬撃が…服だけ…」
理解が追いつかない。
リューナはドレスを押さえたまま、ゆっくりと視線を戻す。
その瞳には、先ほどとは違う色が混じっていた。
「……誇りなさい」
わずかに眉を寄せながらも、言葉を紡ぐ。
「わたくしは完全に防ぐつもりでしたのに……お見事ですわ」
悔しさと、確かな評価。
そして何より――
ほんの少しだけ乱された“余裕”が、そこにあった。
殺が歯を食いしばる。
裂けた結果も、通らなかった現実も、すべて飲み込んだ上で――
再び、大刀を構える。
「おのれ…面妖な!」
次の瞬間、踏み込む。
先ほどと同じく、常識を置き去りにする速度で距離を詰める。
振るわれる刃。
だが――
リューナが、わずかに片手を振る。
仕草は、あまりにも軽い。
「潰れなさい」
その一言。
瞬間。
見えない“重さ”が、落ちる。
殺の身体が、その場で叩きつけられる。
踏み込んだ勢いのまま、地面に沈む。
石畳が砕け、足元が陥没する。
「――っ!」
身体が持ち上がらない。
腕も、脚も、意思に反して地面へと引き込まれる。
まるで大地そのものに掴まれているように。
刃は振り切れないまま、途中で止まっていた。
リューナが、わずかに眉を顰める。
「…耐える、とは」
予想外を見た目。
次の瞬間、その右手がゆっくりと下がる。
それだけで――
“重さ”が、もう一段落ちる。
殺の身体が、さらに地面へ押し付けられる。
石畳が軋み、砕け、沈む。
「――っ!」
声にならない音が漏れる。
背骨が軋む。
肺が押し潰され、呼吸が奪われる。
腕も、脚も、完全に地に貼り付いた。
指一本すら、動かせない。
まるで世界そのものに押し潰されているように。
それでも――
殺の瞳だけは、死んでいなかった。
重圧に押し潰されながらも、殺の唇が動く。
「おのれ…おのれぇ…」
地に縫い付けられたまま、それでもその紅の瞳は上を向く。
真っ直ぐに――リューナを睨みつける。
リューナはその視線を受け、わずかに目を細めた。
「弱い者いじめは趣味ではございませんが…今回は貴女が悪いですわ」
声音は冷静。
だが、その奥にあるものは明確だ。
「主人様を本気で怒らせてしまわれて…」
一度、大きく息を吐く。
わずかに肩が上下する。
そして、視線がさらに冷える。
見下ろす。
完全に上から。
「反省なさい」
その言葉と共に、重力はそのまま維持される。
逃げ場はない。
抗う余地もない。
ただ――押し潰される現実だけが、そこにあった。
リューナが、わずかに首を傾ける。
その視線は依然として冷たいまま。
「貴女は強いですわ。魔王でも….確かに倒せるでしょう。核は壊せないまでも。負けることはないでしょう」
事実を述べる声音。
評価はしている。
だが――そこで終わりではない。
「けれど…神格を持った我々には遠く及びません」
静かに、はっきりと線を引く。
絶対に越えられない境界。
地に押し潰されたまま、殺の喉から声が漏れる。
「おのれ…ぇ…」
それでも、瞳は死なない。
リューナは一度だけ視線を外し、頬に手を当てる。
小さく、ため息。
「今の主人様は、あの女の事で相当ご立腹だから…すべての姫神をもって貴女の心を折るつもりらしいのですが…」
どこか呆れたような響き。
そして再び、殺を見下ろす。
「ここまでになさい」
声がわずかに柔らぐ。
完全な冷酷ではない。
「心から謝罪すれば、それを受け入れない方でもありませんわ」
それは命令ではなく、提案だった。
ベルが吐き捨てる。
「謝ったって許さねぇよ」
その一言に、リューナが振り向いた。
間髪入れず、叩きつける。
「いい加減になさい!」
空気が張り詰める。
「今夜の主人様は….意地が悪すぎますわ」
幼い外見に似合わぬ鋭さ。
ベルは憮然と顔をしかめる。
「だってよ、そいつがマリーナにしたことは…」
言いかけた言葉を、リューナが遮る。
「許せないお気持ちは分かりますわ。わかりますけれども…」
一歩も引かない声音。
だが、その瞳には責めるだけではない色がある。
「あなたまで同じ様な真似をする事はないでしょう」
まっすぐに告げる。
悲しみの滲む視線で。
ベルの口がわずかに止まる。
「それでも…」
絞り出すような声。
リューナはわずかに目を伏せ、そして再び見上げる。
「…主人様らしくない」
短く、しかし重い一言。
「こんな弱い者いじめの様な真似をして...情けない...」
その言葉は、叱責であり――同時に、失望でもあった。




