ベルの矜持ー
再生を完了した鬼の身体が、再びゆっくりと立ち上がる。
大刀を構え直す殺。
だが、その視線の先で異変が起きる。
鬼の身体が、崩れ始めた。
再生したはずの肉が、内側から裂けるように落ちていく。
爪が、音もなく抜け落ちる。
角が、根本から崩れて地へと落ちた。
再生と崩壊が同時に進む、矛盾した現象。
「…限界?」
やがて崩れ落ちた鬼の身体が、内側からさらに裂け広がる。
肉がほどけるように崩れ、背中が大きく開いた。
そこから現れたのは――
黒い血にまみれた、人の影。
殺の視線が止まる。
「これは…人間、か」
その影は、全身から黒い血を滴らせながらも、崩れ落ちることなくそこに立っていた。
赤い瞳が、はっきりと光を宿す。
短い銀髪が、月光を受けて冷たく輝く。
ただの“残骸”ではない。
そこにいるのは、確かに“人”だった。
銀髪の少年が両手で顔についた黒い血を拭いながら、口を開く。
「…カレンの力だけで…やれっと思ったんだけどなぁ…」
小さく、独り言のように漏れる声。
殺の視線が、さらに鋭くなる。
「…お前は…?」
その問いに、少年はまっすぐ赤い瞳を向け返す。
視線がぶつかる。
揺れない。
「俺が、お前の探してた『魔王殺し』ベル・ジットだ」
一瞬、風が止まったような静寂。
「…お前が…」
殺は低く呟き、両手に持った大刀を静かに構え直す。
刃が、月光を受けて紅く光った。
殺が低く名乗る。
「南大陸が一国
スメラギの御刀、殺。勅命により、『魔王殺し』お命頂戴仕る」
踏み出す。
その一歩が、空気を裂くほどの圧を伴って地を蹴った瞬間――
ベルの声が重なる。
「カタナ、出てこい。お前の出番だ」
瞬間、指輪が震えた。
鈍い振動が一拍遅れて空間に広がり、次の瞬間には眩い光が溢れ出す。
それは形を持たないはずの光でありながら、確かに“意志”を持って浮かび上がっていた。
空間に薄い亀裂のような光紋が走り、その中心から白銀の輝きが滲み出した。
それは形を持つ前から、すでに“在るもの”としての圧を放っている。
やがて光は収束し、人の輪郭を結ぶ。
銀の髪は絹糸のように滑らかに流れ、光を受けるたびに星屑のような煌めきを返す。
結い上げられたポニーテールは一本の意志のように整い、揺れすらも計算された美として空間に溶ける。
銀の瞳が開く。
その視線だけで、周囲の空気がわずかに“整列”する。
白を基調とした制服は単なる衣装ではない。
幾重にも重ねられた意匠と紋様が、薄く神聖な幾何学を描き、光を受けて静かに発光する。
軽鎧は装飾でありながら機能そのものでもあり、存在の輪郭を補強するように身体へ馴染んでいた。
その姿は“少女”というより、剣そのものが人の形を借りて顕現したかのような完成度を持つ。
小柄でありながら、そこに軽さはない。
むしろ、空間が彼女の重さに応じて沈むような錯覚すら生む。
顕現が完全に収束したその瞬間、銀の瞳がまっすぐに一点を捉える。
「主!」
声は明るい。
しかし、その響きの奥には刃のように研ぎ澄まされた“規律”があった。
駆け出した殺が足を止めることなく、その少女のような存在を視界に捉える。
「…次から次へとー」
迷いはない。
そのまま剣を横凪に振るう。
空間ごと削ぎ落とすような一閃。
だが――
「止めろ!カタナ!」
ベルの声が割り込む。
その瞬間、カタナの銀の瞳がわずかに揺れた。
背後から迫る斬撃に対し、彼女は振り向きもしない。
ただ、片手を軽く上げる。
人差し指と中指。
二本だけで。
殺の大刀を――挟んだ。
金属が軋む音が一瞬だけ響き、すぐに消える。
「…そんな..」
殺の声がわずかに漏れる。
押す。
引く。
角度を変える。
力を込める。
だが、刀はそこから一切動かない。
まるで世界そのものに固定されているかのように。
カタナは、微動だにしていなかった。
カタナはベルへと顔を向けたまま、あっさりと問いかける。
「主ー、これ、どうしたらいい?」
即座に返る声。
「へし折れ」
「おっけ」
軽い返事。
そのままカタナは、ゆっくりと殺へ向き直る。
殺の大刀は、なおも彼女の指に挟まれたまま動かない。
その距離を、さらに詰める。
一歩。
そしてもう一歩。
鼻先が触れそうなほどの距離まで近づき、まるで戦闘の最中とは思えないほど自然に、顔を寄せる。
「ごめんねー…ほんとはぜひ打ち合いたいところなんだけど…」
小声。
柔らかい声音。
だが、その奥には刃の静けさがある。
「主、なんかすっごく怒ってるみたいだから、早めに終わらせて帰るね?」
銀の瞳が、まっすぐ殺を見上げたまま微笑む。
その距離で、世界だけが異様に静かだった。
と、右手で刃を摘んだままのカタナが、左手を静かに振り上げる。
一切の予備動作がない。
そして――振り下ろす。
その刹那。
殺の身体がその場で大きく回転した。
力で外すのではなく、軸ごと“流す”。
カタナに挟まれていた大刀が、その勢いのまま引き抜かれる。
金属音が遅れて鳴る。
抜き切った瞬間、殺はその流れを殺さない。
そのまま突きへ転じる。
カタナの顔面へ一直線。
だが――
カタナはそれを見ている。
余裕すら崩さず、わずかに首を傾けるだけで回避した。
風が一線、頬を撫でる。
次の瞬間にはもう、そこにいない。
殺は即座に踏み込み直し、間合いを切り直す。
一度。
二度。
そして三度。
距離を取る。
呼吸を整える間もなく、視線だけが交差したまま、再び対峙が成立する。
カタナは軽く息を吐きながら肩をすくめる。
「あちゃー…完全に油断してたー」
苦笑を浮かべたまま、ベルへと振り返る。
「ごめんごめーん、主!次は気をつけー…」
いつもの調子で言いかけた、その瞬間。
カタナの銀の瞳が固まる。
空気が、変わっていた。
ベルの気配。
怒りというより、もっと静かで重い圧。
それに触れた瞬間、彼女の表情から余裕が消えた。
「……あ」
狼狽。
一拍遅れて、理解する。
これは“いつもの怒り方”ではない。
カタナの喉がひくりと動く。
「ご…ごめん!ほんとにごめんなさい…もう2度と油断しないから…ゆ、ゆるして…」
声が上ずる。
言葉が崩れる。
さっきまでの神格めいた余裕は消え、ただの少女の必死な懇願だけが残る。
半泣きのまま、必死に視線を合わせようとするその姿は、戦場の空気からはひどく浮いていた。
それでも、彼女は逃げなかった。
ベルが大きくため息をつく。
重く張り詰めていた空気が、わずかに揺れた。
その変化だけで、カタナの肩がびくりと跳ねる。
次の瞬間、堪えていたものが崩れるように、瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
止めようとしても止まらない。
「ご、ごめ……」
言葉にならない声が漏れる。
だが――
ベルは視線を逸らさず、低く言った。
「…悪ぃ。カタナに怒ってるわけじゃねぇんだ」
その一言で、カタナの動きが止まる。
涙を溜めたまま、ゆっくりと顔を上げる。
上目遣いに、必死にベルを見る。
ベルは続ける。
「…俺は今夜はもともと、あいつに怒りを持ってるだけだ。だからお前達が気にすんな」
その言葉に、カタナの呼吸が少しずつ落ち着いていく。
まだ涙は止まらないが、さっきまでの“恐怖”ではなく、“安堵”の色が混じり始めていた。
ベルが静かに息を吐く。
「とは言っても…気にして当然だから、先に謝っとくぜ。悪ぃな」
その言葉に、カタナは慌てて涙を拭う。
「あ、主の怒りはあたしたちの怒りでもあるから!いいよ!そのままぶつけて!」
勢いのまま、姫神中最速のカタナの、その最薄な自分の胸を軽く叩く。
「どんな責め苦も受け止めるから!どんと来い!」
その必死さに、場の空気が少しだけ緩む。
ベルはわずかに肩の力を抜き、口元を歪めた。
「責め苦って....言い方」
苦笑。
それでも確かに、口角が上がる。
その変化を見た瞬間、カタナの表情から緊張が一気に抜け落ちた。
胸の奥に溜まっていた息を、ようやく吐き出すように。
まだ涙は残っているが、それはもう恐怖ではなかった。
ベルの視線は、再び前へと戻る。
戦場の中心へ。




