ベル、強襲ー
塔の頂、石造りの縁に二つの影。
高所を抜ける風が強く吹き上げ、衣と中身のない袖を大きくはためかせる。
その中に、微動だにせず立つ殺の姿。
隣では白狛が静かに座し、同じ方角――少し離れた病院を見下ろしている。
閉じられた瞼のまま、殺は“聴いて”いる。
空気の流れ。人の気配。焦り。治癒の術式が微かに震える感覚。
そこに集まる、濃い感情の揺れ。
「……あえてとどめを刺さず、病院に搬送されるようにしましたが…さて、上手く掛かってくれるでしょうか」
言葉は静かに風に溶ける。
白狛は何も応えない。ただ尾を揺らし、同じく下を見据えている。
塔の上には、動きがない。
ただ、“来ること”を前提にした静寂だけが、そこにあった。
「あの少女達…ベル様とミリィ様は来ているようですが…魔王殺しは果たして…」
閉じられた瞼の奥で、気配だけを辿る。
街のざわめきの中に混じる、あの二人の気配はすでに捉えている。
だが――肝心の存在は、まだ現れない。
そのまま、思考は別の方へと移る。
「マリーナ..様」
あの警部の姿が、記憶の底に浮かぶ。
わずかに、表情が曇る。
あの人には、申し訳ないことをしてしまった。
仕方ないとはいえ、無駄な戦いを行ってしまった。
本来であれば、あの場で終わらせるべきだった。
あの怪我では、とても助からないだろう。
そういう風に、仕込んだのだから。
「すぐにとどめを刺して差し上げられたらよかった…」
そうすれば、無駄に苦しませることもなかった。
ほんの僅かに、息が落ちる。
「…可哀想な事をしてしまいました」
鎮痛な面持ちのまま、その言葉は風に溶けて消えた。
白狛が小さく鼻を鳴らす。
その気配に、殺はわずかに顔を向けた。
「ありがとう…慰めてくれるのね。でも…これが私の御役目だから」
静かに言い聞かせるような声音。
命令通りに殺す。
邪魔するものも殺す。
ただ殺す。
それだけ。
御刀とは、そういう御役目なのだから。
殺が小さくため息を吐いた。
その瞬間――
背後の空気が、沈んだ。
殺と白狛が同時に背後を振り返る。
そこに――鬼がいた。
額には、左右で長さの違う歪な角が二本、ねじれるように突き出ている。
全身は膨張し、張り詰めたように歪んでいた。均衡を欠いたその肉体は、それでもなお一つの塊として成立している。
黒光りする金属のような肌。
その上を、真っ赤な血管が隙間なく這い回る。
開いた手足の先、指は異様に長く、歪に伸びた爪が鈍く光を返す。
目は裂けたように見開かれ、真紅に燃えている。
そして――
その異形の中で、ただ一つ、異様なほど整った銀髪だけが背中から足元まで流れ落ちていた。
鬼が、大きく右手を振り上げる。
迷いも、躊躇もない。
そのまま――振り下ろす。
咄嗟に白狛が殺の前へと飛び出す。
振り下ろされる鬼の右腕に、正面からぶつかる。
次の瞬間、白狛の身体が弾かれた。
抵抗すら許されず、そのまま塔の縁を越えて落ちていく。
わずかに視線が動く。
その一瞬。
殺の反応が、遅れた。
眼前に迫る、巨大な拳。
避けるには、もう間に合わない。
殺は片足を上げる。
正面から、受け止める。
鈍い衝突音。
だが――
勢いは殺しきれない。
受けたまま、圧がそのまま押し込まれる。
足元の石が悲鳴を上げ、崩れる。
塔の屋根が、耐えきれずに砕けた。
咄嗟に身体を捻り、圧の中心から抜け出す。
砕けた屋根の縁を蹴り、殺は一気に距離を取った。
崩落の余韻が塔を震わせる。
視線が、わずかに下へ落ちる。
落下した白狛。
気にかかる。
だが――
今は目の前だ。
気配を探る。
だが、捉えられない。
「あんなにおおきな気配を見失うなんてー!?」
その瞬間。
背後の影が、揺れた。
殺の身体が即座に反応する。
振り返る。
その“影”の内側から――
ぬるりと、鬼が現れる。
空間ではない。
影そのものを通って、這い出るように。
「影の中を…移動しているの?」
振り下ろされる腕。
殺はそれを蹴り上げ、軌道を逸らす。
その反動をそのまま利用し、後方へ跳躍。
着地。
距離を取る。
呼吸を整えながら、気配をなぞるように観察する。
鬼。
――鬼?
「これが…魔王殺し?人間では、ない?」
違和感が、積み重なる。
魔王殺しは、人間のはずだ。
人間だからこそ、魔王を倒したという事実に、世界は驚愕し、恐れた。
理解できないからだ。
人は、理解を越えた存在を恐れる。
そう――
この御刀のように。
殺が声を張り上げる。
「白狛ーーーーーっ!」
呼び声に応えるように、背後に気配が立つ。
振り向かずとも分かる。
白狛が戻ってきていた。
その身体は、ところどころ傷と汚れにまみれている。塔から落ち、這い上がってきたのが見て取れた。
荒い息を一つ、吐く。
だが、退く気配はない。
殺は静かに身を屈める。
白狛の背に積まれた荷へと顔を寄せる。
次の瞬間――
口で大刀の柄を咥え、そのまま一気に引き抜いた。
重い金属音が、風を裂いた。
次の瞬間――
閉じられていた瞳が、静かに開く。
紅。
奥底から灯るように、妖しく輝く。
同時に、空のままだった袖が膨らむ。
内側から何かが満ちるように、布が持ち上がる。
やがて、袖口から白磁のような両腕が滑り出た。
無機質なほどに滑らかな肌。
その腕が、口に咥えていた大刀を掴む。
金属が鳴る。
柄を握り締めるその瞬間、空気が変わった。
静から動へ。
受けから殺へ。
殺の全身から溢れ出る気配が、明確に質を変える。
先ほどまでの“待つ者”ではない。
斬るための存在へと、切り替わった。
殺が大刀を両手で正眼に構え、鬼と対峙する。
塔の上に、張り詰めた静寂が落ちる。
「スメラギが御刀ー殺。参る!」
一歩。
ゆっくりと、踏み出す。
無駄のない足運び。だが、その一歩ごとに空気が軋む。
対する鬼が、再び両手を振り上げる。
影が膨れ上がる。
次の瞬間――
二つの影が、交差した。
鬼の振るう両腕を、殺の大刀が正面から受け止める。
鈍い衝突音。
だが止めたままでは終わらない。
流す。
受けた力をそのまま斜めに逃がし、返す刃が閃く。
鬼は身を捻り、その斬撃を紙一重で避ける。
直後、振り抜かれた腕が死角から迫る。
殺は踏み込みを止めず、軸をずらす。
かすめるように回避し、そのまま足を軸に身体を回転させる。
再び刃。
だが鬼もまた止まらない。
腕を引き、もう片方で打ち込む。
影がぶつかる。
散る。
再び交わる。
塔の上で、二つの影が激しくぶつかり合う。
斬撃と打撃が連続し、風と音が遅れて追いつく。
一瞬ごとに位置が変わる。
一拍ごとに攻守が入れ替わる。
拮抗。
崩れない。
ただ、圧だけが増していく。
そのまま、攻防は激しさを増し続けた。
鬼が地面を強く蹴る。
その瞬間、足元の影が膨れ上がった。
次の瞬間――
無数の黒い腕が、影の中から一斉に伸びる。
絡みつくように、掴み潰すように、四方から迫る。
殺は踏み込みを止めない。
振り払う。
薙ぐ。
伸びる腕を次々と斬り裂き、そのまま一直線に鬼へと踏み込む。
大刀が振り上げられる。
だが、鬼はその斬撃をわずかに身体を傾けて避ける。
そのまま、大きく口を開いた。
空気が、歪む。
口腔の奥で圧が凝縮されていく。
黒い、歪んだ塊。
質量を持った“何か”が形を成す。
そして――放たれた。
重力を伴う衝撃波。
空間ごと押し潰す奔流が、一直線に殺へと襲いかかる。
殺は退かない。
踏み込みをそのまま刃へと乗せる。
振り下ろす。
斬る。
黒い奔流が、真っ二つに裂けた。
左右へと弾けた重力が、塔の屋根を抉り、破壊する。
轟音と共に、石と瓦礫が吹き飛んだ。




