最期の誕生日ー
知らせを聞いたベルとミリィが病院に駆けつけると、廊下のベンチには項垂れて座るマークスの姿だけがあった。
石造りの壁に取り付けられた魔導ランプが、淡い光を揺らしながら廊下を照らしている。その光だけが、やけに静かだった。
マークスが二人の足音に気付き、ゆっくりと顔を上げた。その表情を見た瞬間、ベルとミリィの血の気が引く。
「…マリーナさんの容態は..?」
一拍の沈黙。
マークスは言葉を選ぶようにして、ただ小さく首を左右に振った。
それだけだった。
「そんな…っ」
ミリィが両手で口元を押さえる。
ベルが一歩踏み出し、マークスの肩を掴む。力が入りすぎて、指先がわずかに震えていた。
「…嘘、でしょ?」
返答はない。
夕方の薄暗い廊下に、ランプの光が、三人の影をゆっくりと揺らしていた。
「...安心してくれ。。警部はまだ...生きてる」
その言葉に、ベルとミリィの肩から一気に力が抜ける。張り詰めていた呼吸が、ようやくほどけるように落ちた。
「だけど...あんなのは...」
言葉の続きは、うまく形にならない。
ベルとミリィは一瞬だけ視線を交わし、無言で頷く。
そしてそのまま、廊下を駆け出す。
「ま、待て!見ない方が...!」
制止の声が背後から飛ぶが、それより早くベルが扉に手をかける。
重い病室の扉が開く。
中には、医師と思われる初老の男と看護師が二人。慌ただしく魔導処置の残滓を片付けている。
そして、その奥。
白い布の上に横たわるマリーナの姿があった。
医師と看護師が二人を止めようと一歩踏み出すが、ベルとミリィはその制止を振り切るように進む。
ベッドの前にたどり着いた瞬間、二人の足が止まる。
次の瞬間、その場に崩れ落ちた。
ベッドに横たわるマリーナは全身を包帯に巻かれ、あらゆる場所から血が滲んでいた。包帯の隙間から覗く顔は酷く腫れ上がり、原形を留めるのがやっとの状態だった。
「…君、気持ちはわかるが、出て行ってくれないか。ようやく呼吸が落ち着いたとこなんだ」
ベルはその場にへたり込んだまま、視線だけがマリーナから離れない。
「先生…彼女は…」
医師はため息を吐く。
「両手と両足の複雑骨折、他にも全身の骨折、打撲。内臓に大きな損傷はないが…とにかく酷いあり様だよ。おまけに両手の甲も大きく裂けている。体力も消耗しすぎて回復魔術も受け付けない。せめてもう少し体力があれば....」
ミリィが息を呑む。
「そんな…マリーナ、さん」
「…命は、命には問題ないんですよね?」
一瞬の沈黙
「わからない。こうも全身にダメージがあると、ショック死するケースもあるから」
ベルの目に涙が滲む。
「…どうして…こんなことに…」
背後から低い声が落ちる。項垂れていたマークスが顔を上げる。
「奴だよ。あの…殺って女。目撃者がいたんだ…」
空気が止まる。
ベルはゆっくりと振り返った。
「私の…せいだ…」
ベルの瞳から涙があふれ、頬を伝って床へ落ちていく。
ミリィはすでに抑えきれず、肩を震わせながら声を上げて泣いていた。
「違う…そうじゃないよ」
項垂れていたマークスが顔を上げる。声は掠れている。
「違わないっ!わた…私がマリーナさんに相談しなければ…」
言葉が途切れ、感情が崩れる。
ベルはその場に両手を着き、床に縋るようにして泣いた。
その時、ざわりとベルの身体が揺れた。空気が一瞬だけ歪み、感情の圧がそのまま質量を持つように場へ滲み出す。
それを察したミリィが慌てて声を上げる。
「すみません!みなさん…部屋を出てください!」
医師と看護師、それにマークスが驚いたまま動けずにいるのを、ミリィが強引に手を引き、押し、部屋の外へと追い出していく。
最後に後ろ手で扉が閉まった。
静寂。
その中に残ったベルは、両手を床についたまま、しばらく動かなかった。
肩がわずかに震えている。それは悲しみではなく、抑え込まれた怒りの揺れだった。
「夜に…なったんですね」
ゆっくりと顔を上げる。
「あぁ…どうやらそうみてぇだ」
その声は普段の彼に比べても、低く、重い。噛み殺した感情がそのまま声帯を重くしているだけだった。
その音に、ミリィの肩が小さく跳ねる。
ベルがゆっくりと立ち上がり、ベッドに横たわるマリーナを見下ろす。
「なんで…こんなことになったんだ…」
ミリィが言葉を探すように唇を開きかける。
「…そ、それは…」
ベルは小さく首を振る。
「いい。言わなくてもなんとなくわかってる」
その一言で、ミリィは口を閉じた。
病室の空気がさらに重く沈む。
ベルはそっと身をかがめると、壊れ物に触れるような手つきで、包帯だらけのマリーナの頬に触れた。わずかに熱の残る感触が指先に伝わる。
「すまねぇ…やっぱ昨日、俺が行くべきだった」
ミリィがベルの背中を見つめながら、声を絞り出す。
「そんな風に…言わないでください。それは戦ったマリーナさんに…失礼です」
その言葉に、ベルは振り返らないまま短く息を吐く。
「そうだな…悪ぃ。ミリィ…マリーナ」
静かな謝罪が落ちた、その瞬間だった。
マリーナの唇がわずかに震える。
包帯の隙間から覗く腫れ上がった瞳が、かすかに揺れながらゆっくりと開いた。
「マリーナ..、さん!」
ミリィは溢れる涙を隠すこともなく、両手で口元を覆ったままその場に立ち尽くす。
ベルもその様子に、ほんのわずかに表情を緩める。
「マリーナ…」
ベッドの上で、焦点の合わない瞳がかすかに揺れた。ゆっくりと動き、ベルの姿を捉えて止まる。
「…ベル…」
「いい、しゃべるな」
ベルはすぐに言葉を重ねる。
だがマリーナは止まらない。掠れた呼吸の合間から、途切れ途切れに声を紡ぐ。
「すま…ない。負けて..しまっ」
「いいから、大丈夫だから。今は自分の心配をしろ」
ベルの声は静かだが、確かな重さを持っていた。
「ミリィ…鏡を…持って、いるか?」
かすれた声が、途切れ途切れに病室へ落ちる。
ミリィは一瞬動きを止め、それでもすぐにリュックを探り、手鏡を取り出した。
「私の顔を…見せてくれ、ないか…」
その言葉に、ミリィの手が止まる。視線がベルへと向けられる。
ベルは小さく頷き、手を差し出した。
ミリィは震える指で手鏡を渡す。
ベルはそれを受け取り、ゆっくりとマリーナの前へと向けた。
鏡の中に、自分の姿が映る。
腫れ上がり、包帯に覆われた顔。
その瞬間、マリーナの目がわずかに大きく開いた。
だがすぐに、震えるように細く閉じられる。
マリーナがベル達から顔をそらす。
そして、かすれ切った声が落ちる。
「…お願いだ…もう帰って、くれ..」
ベルが手鏡をミリィに返し、無言でマリーナを見つめる。
ミリィはそれを受け取る手を震わせたまま、視線を落とした。
「…こんな顔…お前にだけは、見られたく…ない」
その声は、腫れ上がった喉の奥から絞り出すように震えていた。
ベルは短く息を吐く。
「悪い…前みたいにすぐ治してやれたらよかったんだが…俺の能力は、基本的に俺以外には効果がない。前回はなんとかなったが…同じやつには2度は使えない」
ミリィが俯く。
マリーナは小さく首を横に振った。
「いい…それに頼っていたわけじゃ…ない」
途切れ途切れの呼吸の中で、言葉を続ける。
「だけど…こんな顔じゃ…もうお前の前に立てない…」
マリーナの声が強く震える。
ベルが大きく息を吐く。
「マリーナ、こっちを見ろ」
だがマリーナは動かない。呼吸だけが浅く乱れている。
「俺を見ろ」
強い言葉に、ゆっくりと顔がこちらへ向けられる。
視線が交差する。
ベルは一歩近づき、両手でマリーナの頬を包み込むように触れた。包帯越しに伝わる熱を確かめるように、わずかに指先が沈む。
そして――
躊躇いなく、その腫れ上がった唇に自分の唇を重ねた。
「…あっ!!」
ミリィが思わず素っ頓狂な声を上げ、慌てて顔を背ける。
唇を合わせた瞬間、マリーナの目が大きく見開かれる。
痛みすら忘れたかのように。
やがて、そのままゆっくりと瞳が閉じられる。閉じた瞳の端から、静かに涙が伝っていく。
ベルはしばらくそのままでいたが、やがて静かに身を起こした。
ミリィは顔を真っ赤にしたまま、両手で目を塞いでいる。
マリーナがゆっくりと瞳を開く。
その視線の先にあったのは、ベルの笑顔だった。
ベルはまっすぐにマリーナを見つめる。指先はまだ頬に触れたまま、そっと支えるように。
「誕生日おめでとう、マリーナ。愛してるぜ」
その言葉に、マリーナの瞳が再び大きく開かれる。
呼吸が止まったように固まり、次の瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。
震える唇が何かを言おうと動くが、声にはならない。
ただ、その瞳だけが、はっきりと応えていた。
マリーナの唇がかすかに震える。腫れ上がったままの口元から、途切れ途切れに声が零れる。
「あぁ…うれしい…なんてしあわせなんだ…」
その言葉に、ミリィが息を呑む。
マリーナの瞳がゆっくりと閉じられる。まるで安らぎに沈むように。
「こんなに幸せな誕生日は…これが最期だろう…」
かすかな息とともに、その言葉が落ちた。




