殺との出会いー
二人が店を出て大通りへ出ると、街の空気がわずかにざわついていた。
いつもの喧騒とは違う、何かに反応するような騒がしさが遠くから広がってくる。
ベルは足を止め、耳を澄ますように視線を上げた。
「なんだろう……?」
ミリィも周囲を見回しながら、小さく眉をひそめる。
「随分と騒がしいですね」
通りの向こう側、人々が何かを指さしながら距離を取っているのが見える。
ざわめきは、少しずつこちらへと近づいてきていた。
やがて、人垣をかき分けるようにして、その“何か”が姿を現した。
ベルもミリィも、同時に目を見開く。
「な……なに、あれ?」
「……ま、魔獣?でも……街中でそんなはずは……」
遠くから近づいてくるそれは、まだ全体像がはっきりしない。
ただ、人の流れを無理やり割るように進んでくる異質な存在に、周囲の空気だけがざわついていた。
人垣の向こうが、ざわめきを増した。
押し分けるようにして現れたのは、大きな白い獣だった。その背に、静かに座る影がある。
少女は白い着物に赤い帯を締めていた。草履も赤い。布は余計な装飾のない簡素な仕立てだが、その純白は街の空気の中で異様なほど際立っている。帯に差された懐刀だけが、唯一の硬質な存在としてそこにあった。
黒髪は長く、前髪は真っ直ぐに揃っている。切れ長の瞳は閉じられたまま動かず、紅のアイシャドウだけが静かにその存在を主張している。両腕は肩口から失われているが、その姿勢には一切の揺らぎがない。
白獣の歩みは重く、しかし滑らかだった。地面を踏む音だけが、通りに規則正しく響いていく。
白狛は一歩ごとに確かな重さで地面を踏みしめる。だがその歩みには威圧よりも、制御された静けさがある。
その背に乗る殺は、視線を下げたまま周囲を見ようとしない。ただ、通りを進むことだけに意識を置いているようだった。
周囲の人間は言葉を失ったまま、無意識に道を開けていく。それは恐怖というより、「認識してはいけないもの」を避ける本能に近い。
白獣がベルとミリィの前まで来ると、ゆっくりと足を止めた。
馬よりもはるかに大きな白い獣に見下ろされ、ベルとミリィは思わず息を詰めた。
その圧に一瞬固まっていると、獣の背に座る少女が静かに声を落とす。
「もし、そこの人……お二人?」
呼びかけは丁寧だったが、どこか距離感があった。
ベルとミリィはそこで初めて気づく。彼女の視線は、こちらを“見ていない”。
閉じられた瞳。紅の化粧だけがその顔に静かな存在感を与えている。
ミリィが小さく息を呑む。
「……目が……」
少女はわずかに首を傾ける。
「申し訳ありません。白狛!ダメ、避けなさい」
その声と同時に、少女は白い獣の背にある立髪を掴み、軽く引いた。
白狛は低く喉を鳴らしながら、ほんの一歩だけ姿勢を崩すように動く。
しかしその動きは従属というより、長年の意思疎通による“合意”に近かった。
「こ……これ、犬?」
ベルが思わず口にすると、ミリィも続くように目を丸くする。
「え……こんな大きな犬、います?」
二人は恐る恐る白狛の顔を見上げていた。近くで見ると、その存在感はさらに圧倒的だが、どこか獣というより“意思を持った静かな生き物”のようでもある。
そんな様子に気づいた背の少女が、少しだけ柔らかい声を落とす。
「……触ってみますか?」
ベルとミリィは顔を見合わせると、おそるおそる白狛へと手を伸ばした。顎の下、毛並みの柔らかそうな部分にそっと触れる。
「うわ……思ったより柔らかい」
「……ほんとですね……それにしても、おっきぃ」
白狛は目を細め、ゆっくりと息を吐くようにして身を預ける。明らかに気持ちよさそうな反応だった。
その空気の変化を、背の少女は静かに感じ取ると、わずかに口元を緩めた。
するりと、少女は白狛の背から滑るように地面へと降り立った。
足音はほとんどなく、その動きだけがやけに自然だった。
そしてベルとミリィの方へ、静かに歩み寄る。
「この子は白狛と言います。初見でこの子を怖がらなかったのは、あなた達が初めてです」
その言葉に、ベルは少しだけ肩をすくめる。
「こ、怖いは怖いんだけど……でも」
ミリィも続くように頷いた。
「……はい。なんだか可愛いが優ってしまって……」
少女はそこで、ほんのわずかに表情を和らげる。
「そうですか」
その声には、どこか安堵にも似た響きがあった。
白狛の背の上から、静かな声が落ちる。
「……可愛いなんて。よかったね、白狛」
その言葉に応えるように、白狛は小さく喉を鳴らした。
殺は静かに一歩引き、丁寧に頭を下げた。
「ご挨拶が遅れました。私は『殺』と申します。よろしくお願いします」
その言葉に合わせるように、ミリィが白狛からそっと手を離す。
「ミリィ……です」
続いてベルも、明るい声で一歩前に出た。
「ベルです。よろしくね!」
そう言って右手を差し出す。
そこでベルは一瞬、はっとする。相手の目が見えていないことを思い出し、殺の手を掴もうと、慌てて袖口へと手を伸ばし、
「え?」
ベルの手は、袖口の中を探るように伸びたまま止まっていた。
しかしそこには、掴むべきものが何もない。
ただ布の感触だけが、指先をすり抜ける。
一瞬の空白。
「え?」
ミリィも、状況を理解しきれないまま固まっていた。
その空気の中で、殺は少し困ったように息を吐き、小さく笑う。
「ごめんなさい……私、両目が見えないだけでなく、両手もないんです」
言い終えたあと、わずかに気まずそうに視線を伏せる。
その言葉に、ベルとミリィは同時に動きを止めた。
理解が追いついた沈黙だけが、数秒間その場を支配する。
殺はそれを感じ取りながら、さらに少しだけ苦笑を深めた。
「とりあえず、どこか入らない?」
ベルが気を取り直すように言うと、ミリィは少しだけ戸惑った表情を見せた。
「で……でも……」
視線が自然と白狛へと向かう。あまりに大きな白い獣は、そこにいるだけで周囲の空気を変えていた。
殺は小さく息を吐くように言う。
「そうなんです。この子がいると、どこのお店にも入れなくて……」
ベルは納得したように頷く。
「あー……」
白狛は何も気にしていない様子で、その場に静かに立っていた。
そんなわけで三人と一匹は、川沿いのカフェのテラス席に落ち着いていた。ここはペット同伴可の店で、白狛の存在にも店員は驚きつつも受け入れてくれている。
テラスの中央に伏せる白狛。その上に、殺が静かに腰を下ろしていた。揺れもなく、まるで最初からそこが定位置だったかのように収まっている。
3人が各々テーブルに着いている。
三人の前には、それぞれのドリンクが並んでいた。氷の音と川の流れだけが、ゆるやかに混ざっている。
ベルがカップを軽く持ち上げながら、何気なく尋ねた。
「それじゃ、殺って南大陸から来たの?」
「はい。そうなんです」
殺は穏やかに答える。
ミリィは興味深そうに身を乗り出した。
「聞いたことはありますが……南大陸の方とお会いするのは初めてです。本で読んだ通り、着物?なんですね」
その言葉に、殺は小さく微笑んだ。何かを否定するでも誇るでもない、ただ静かな肯定だけがそこにあった。
ベルはカップを持ち上げたまま、軽い調子で続けた。
「それでー?中央へは何をしに?観光?」
殺は一拍だけ置いて、静かに答える。
「それが、もしご存知なら教えていただきたいのですが、魔王殺しと呼ばれる方のこと——」
その瞬間、空気が止まった。
ベルの手がぴたりと止まり、カップの縁がかすかに揺れる。
ミリィも同じように動きを失い、視線だけが殺へと向いたまま固まった。
川の音だけが、やけに遠く感じられる沈黙が落ちる。




