ミリィの苦悩ー
王宮の回廊は、午後の光に満ちていた。
高い天窓から差し込む日差しが白い石床に落ち、ゆっくりと熱を帯びていく。
砂漠の国特有の乾いた明るさが、王宮全体を静かに照らしていた。
ベルはその光の中を歩いていた。
二人目、そして三人目。
それぞれの顔、それぞれの言葉が、まだ頭の奥に残っている。
「受け入れられない」
「外すくらいなら、私という存在が崩れる」
拒絶は感情的ではなかった。
だからこそ、動かしづらい現実として残る。
ベルは小さく息を吐いた。
説得は失敗したわけではない。
そもそも、成立していなかった。
それぞれが“すでに完成している形”の中にいた。
廊下の先に、用意された客室の扉が見える。
王宮が滞在用に準備した部屋。
英雄核保持者との接触拠点として割り当てられた空間だ。
ベルは扉の前で一度だけ立ち止まり、それから手を伸ばした。
重い扉が静かに開く。
中は簡素だった。
砂漠の昼夜差に対応するための厚手の布。
低い寝台。
必要最低限の机と椅子。
装飾はほとんどない。
実用だけが残された部屋だった。
ベルはゆっくりと中へ入り、扉を閉める。
「英雄核……」
ぽつりと声が落ちる。
言葉にしても整理はされない。
むしろ、形にならないまま沈んでいく。
二人目は信仰だった。
三人目は現実だった。
どちらも、簡単に壊せるものではない。
ベルは視線を落とした。
正しさの話ではない。
間違いの話でもない。
ただ、それぞれが“生きてきた結果”だった。
英雄核保持者との面会で残った重さはある。
だが、それよりも優先すべきものがあった。
体調が優れない、と言っていたミリィ。
大事を取って部屋に残してきたが、それでも気がかりは消えていなかった。
扉を開ける。
部屋は静かだった。
午後の光がカーテン越しに柔らかく差し込んでいる。
砂漠の国らしい乾いた明るさが、室内を淡く照らしていた。
その奥のベッド。
布団が小さく膨らんでいる。
ミリィはその中に、頭まで完全に潜り込んでいた。
まるで外の世界を遮断するように、丸くなったまま動かない。
ベルはその姿を見て、わずかに息をつく。
体調不良というより、単に休みたいのかもしれない。
それでも、放っておく気にはならなかった。
ベルは足音を抑えながらベッドの脇へ行き、そのまま腰を下ろした。
布団越しに、小さく声をかける。
「ミリィ?調子はどう?」
返事はない。
しかし、完全な無反応ではない。
布団の奥で、わずかに身じろぎした気配がある。
起きている。
それは間違いない。
だが、言葉は返ってこない。
ベルは少しだけ間を置いて、もう一度視線を向けた。
「……無理して起きなくてもいいけど、具合悪いなら言って」
静かな声だった。
それでも、ミリィは布団の中から出てこない。
呼吸だけが、かすかに布越しに伝わってくる。
午後の光が二人のいる空間だけを、やけに穏やかにしていた。
返事のない沈黙が、ゆっくりと続いていく。
やがて、布団がもぞりと動く。
ゆっくりと頭が出てくる。
顔を赤くしたミリィが、視線を合わせないまま小さく呟いた。
「ベルさん……」
ベルは少し目を瞬かせる。
「……あ、起きた?」
ミリィは布団の端をぎゅっと握りしめたまま、視線を落とす。
「心配かけてごめんなさい……体調が悪いの、嘘なんです」
ベルは一瞬だけ沈黙したあと、責めるでもなく、困るでもなく、ただ静かに微笑んだ。
「……何かあったの?」
ミリィの指が布団の中で小さく動く。
しばらく迷うような間があって、それから、ようやく声が出る。
「……実は昨日の夜……夜のベルさんに……」
ベルは小さく頷く。
「うん」
ミリィはさらに小さくなるように肩をすぼめた。
「……勢いで……キスしちゃって……」
ベルの動きが止まる。
空気だけが一瞬、完全に静止したようになる。
「え……?なんて」
ミリィは慌てて首を横に振ることもできず、ただ顔を真っ赤にしたまま続ける。
「みなさんが……どんどんベルさんにキスしてるの見てたら……なんだか悔しくなって……」
ベルは数秒、言葉を探すように口を開きかけて、閉じる。
「……それで、ミリィも……」
ミリィは小さくこくりと頷いた。
「はい……」
沈黙。
午後の光だけが、変わらず部屋の中に落ちている。
ベルはゆっくりと息を吐いたあと、困ったように、でもどこか優しさを含んだ目でミリィを見た。
しばらく、そのまま何も言わなかった。
ミリィは布団の中で、小さく息を整えた。
言葉を選ぶように、少しずつ口を開く。
「皆さん、お酒に酔ってて……私もうっかり飲んでしまって……ベルさんも酔ってて……でも……」
ベルは軽く息をつき、少し呆れたように肩をすくめる。
「アダラたちね……まったく」
ミリィは小さく頷き、指先で布団をぎゅっと握った。
「でも、私の時は、ベルさんもう酔いが醒めてたみたいで……だから、気まずくて……」
ベルは一瞬考えるように視線を上げ、それからどこか気の抜けた声を漏らす。
「あーなるほどー……でも大丈夫なんじゃない?」
ミリィは少しだけ顔を上げる。
「……そう、なんですか?」
ベルは軽く笑いながら、深く考えずに言葉を続けた。
「だって、ミリィまだ子供だし、あいつも気にしないと思うわよ?」
その瞬間。
ミリィの動きが止まった。
ゆっくりと、信じられないものを見るように顔を上げる。
「……え?」
ベルも同じように、きょとんとした表情で首を傾げる。
「え?」
数秒の沈黙。
午後の光が、やけに穏やかに差し込んでいる。
その静けさの中で、ミリィの眉がわずかに寄った。
「……子供、だから……ですか?」
声は小さいが、さっきよりも少しだけ力があった。
ベルはその変化に気づき、わずかに目を細める。
「えっと……そういう意味じゃなくて……その……」
言葉を探すように視線を泳がせる。
しかし、うまく言葉にならない。
ミリィはその様子をじっと見ていた。
「……私、子供だから……何してもいいってことですか?」
「違う違う、そうじゃなくて」
ベルは慌てて手を振る。
「ただ、その……気にしなくていいっていうか……」
ミリィの視線が、ほんの少しだけ鋭くなる。
普段の気弱さとは違う、静かな感情がそこにあった。
「……私は、気にしてるんです」
その一言は、はっきりとしていた。
ベルは言葉を止める。
ミリィは視線を逸らさず、続ける。
「ベルさんがどう思うかじゃなくて……私が、どうしたか……なので……」
布団を握る手に、少しだけ力がこもる。
「……忘れてほしい、とかじゃなくて……その……」
言葉が途切れる。
顔がまた少し赤くなる。
けれど、さっきのように逃げる様子はなかった。
「……ちゃんと、覚えててほしい……です」
小さな声だった。
それでも、はっきりと届く。
ベルはしばらく何も言えなかった。
ただ、目の前のミリィを見ている。
さっきまで“子供”として処理しようとしていた相手が、少しだけ違って見えた。
軽く流していい話ではないと、遅れて理解する。
「……そっか」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
ミリィは小さく頷く。
部屋の中に、再び静かな時間が落ちる。
午後の光は変わらないのに、空気だけが少しだけ変わっていた。




