昔の話は恥ずかしいー
マリーナは腕を組み、納得したように頷く。
「なるほど……彼はそんな子供だったのですか……」
ミーファはにこやかに続ける。
「そうなんです。小さい頃はよく一緒にお風呂に入ったり寝ていたものですが、私が成長して距離を取るようになりまして。それが寂しかったのか……よくお風呂を覗いたり、夜中に布団に入り込んできたりして、本当に甘えん坊で」
ベルは顔をしかめ、ぼそっと呟く。
「……覗くほどのもん持ってぇだろ」
ミーファのこめかみがぴくりと動く。
「誰が貧乳だ……あん?」
そのままベルの顔を掴み、アイアンクローを決める。
「いででででで!」
容赦なく締め上げられ、ベルが情けない声を上げる。
ミリィがぽかんとしながら呟く。
「……ベルさんて……」
パティは静かに口元に手を当てた。
「だんだん面白く感じてまいりました」
場の空気はすっかり和みつつも、どこか緊張の抜けない奇妙なバランスを保っていた。
マリーナは一歩身を乗り出し、目を輝かせる。
「お姉様、もっと彼の子供の頃の話を聞かせてください」
ミーファは一瞬だけ目を細め、じっとマリーナを観察する。
「先程から見る限り……マリーナ警部様ももしや……?」
マリーナは迷いなく頷いた。
「はい。将来を共にと考えております」
その答えに、ミーファは小さく息をつき、どこか納得したように笑みを浮かべる。
「どうしてか、昔からよく異性に好かれるんですよ。2人とも。ベルは可愛いからわかるとして」
その言葉に、場の視線が自然とベルへと集まった。
当の本人は、どこか居心地悪そうに視線を逸らしていた。
「おぉぃ、もういいだろ、昔の話は――むぐっ」
言いかけたベルの肩に、ミーファのつま先がぐさりと刺さる。
「おい、ベル坊。てめぇも偉くなったなぁ」
低く圧のある声。
ベルは肩を押さえながら、顔をしかめる。
マリーナはその様子を見て、頬を緩めた。
「まぁ、ベル坊なんて……かわいい」
ミリィも思わず口元を押さえる。
「……坊(笑)」
「その呼び方はやめ――ぐわっ」
言い終える前に、ミーファの拳がベルの頭に落ちた。
鈍い音が響き、ベルはその場で頭を押さえてうずくまる。
ミーファは何事もなかったかのように腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。
部屋には、どこか和やかな空気と、ベルへの遠慮のない制裁だけが残っていた。
マリーナは身を乗り出し、興味津々といった様子で問いかける。
「お姉様、ベル坊は――好きな子とかいたんですか?」
ミーファは一瞬だけ遠くを見るように目を細め、少しだけ間を置いてから答えた。
「あぁそれは……初恋とは違うかもしれませんし、本人は否定するでしょうけど、きっと……シスター・アリスだったんじゃないかと」
その名前が出た瞬間、場の空気がわずかに変わる。
ミリィが静かに口を開いた。
「どんな方、だったんですか?」
シスター・アリスの名前が出た瞬間――
それまで黙っていたベルが、ふいに動いた。
ゆっくりと立ち上がり、誰とも目を合わせないまま扉へ向かう。
その手がドアノブにかかったところで、短く言い残した。
「ちょっと何か食べてくる」
振り返ることもなく、そのまま部屋を出ていく。
残された空間に、わずかな沈黙が落ちた。
ベルの背中を静かに見送っていたミーファは、やがてゆっくりと振り返る。
少しだけ表情を和らげ、穏やかな声で語り始めた。
「シスター・アリスは私達の母であり、先生でもありました。みんな大好きだったんですよ。とても素晴らしいシスターでした」
その言葉には、懐かしさと敬愛が滲んでいた。
部屋の空気が、先ほどまでとは違う静けさに包まれていく。
パティは静かに一歩踏み出し、控えめに問いかける。
「先程、ベル様の初恋と……おいくつくらいの方なのですか?」
ミーファは少しだけ考えるように視線を上げ、やがて答えた。
「正確にはわかりませんが……私が13歳でベル坊が10歳の時……おそらく20代後半くらいだったんじゃないかと。笑顔の素敵な、とてもはっきりした性格の方でした」
ミリィが目を見開き、
「憧れのお姉さん...ということなんですかね」
その言葉に、自然と全員の脳裏に一人の女性の姿が思い描かれる。
優しく、そして芯の強い――そんな人物像だった。
ミーファは少し照れたように視線を逸らし、柔らかく続ける。
「私も子供の頃はやんちゃ……いえ、恥ずかしながらお転婆なところがあって、ベル坊達と一緒に、よく叱られたものです」
ミリィ、パティ、マリーナの三人が、同時にわずかに目を細める。
(やんちゃ……)
その一言だけで、先ほどの光景が脳裏に蘇っていた。
ミーファはそんな反応に気づくことなく、懐かしむように微笑む。
「一言では言い表せない人でしたが、シスターの中のシスターだと、誰からともなく言われてましたね。強く優しく厳しい、でも世の中に悪人などいないと、本気で信じているような、そんな人でした」
その言葉は静かに、しかし確かな重みを持って部屋に広がっていった。
ミーファはどこか懐かしむように、さらりと続けた。
「ベル坊や私もよく、シスターの下着を村の若者に売ってお小遣いへ交換した事が発覚して木に吊るされたり……」
三人の目が一斉に点になる。
しかしミーファは気にした様子もなく話を続ける。
「シスターの着替えが見える特別な場所を教えてドロップキックをいただいたり……」
ミリィが思わず聞き返す。
「ド……?」
想像が追いつかないまま、言葉だけが宙に浮いた。
ミーファは小さく肩をすくめる。
「ええ、見事に吹き飛ばされましたね」
どこか誇らしげですらある口調だった。
場の空気が、一瞬だけ完全に止まった。
パティはわずかに間を置き、慎重に口を開く。
「その……ジット村とは、何かの隠れ里とか、なのでしょうか?」
ミーファはきょとんとした表情を浮かべる。
「いいえ? どこにでもある小さな村ですよ。村人が50名ほどの」
あまりにもあっさりとした返答。
ミリィは思わず苦笑しながら呟いた。
「そんな普通は……ないんじゃないかなと……」
三人の中で、ジット村の“普通”の定義が静かに崩れていった。
(まぁ……魔王殺しを輩出しちゃう村だし)
誰ともなく、そう思っていた。
マリーナが静かに口を開く。
「そのシスター・アリス様が、彼の初恋とか……」
ミーファは少しだけ首を横に振る。
「初恋とは、少し違うのかもしれませんが……私たちは結局、親がいませんので。特にそれまでの記憶のないベル達にとって、自分達を見つけて保護してくれたシスター・アリスは、かけがえのない存在だったのでしょう。勿論それは、私達にとっても同じことですが」
ミリィが静かに呟く。
「本当に素敵な人、だったんですね」
ミーファは小さく頷き、優しく微笑んだ。
「母として、人として、女性として……ベル達はシスター・アリスが大好きだったんです」
そして、その笑みがほんのわずかに揺らぐ。
「だから……彼女が亡くなった時は本当に……」
言葉が、そこで途切れた。
部屋の中に、静かな余韻だけが残った。
ミーファは一度息を整え、ゆっくりと顔を上げた。
「この話はここまでにしましょう。ただ一つだけ言えることは――」
少しだけ視線を落とし、言葉を選ぶように続ける。
「今のベル達の意思や性格は、シスター・アリスの影響が大きいのは間違いありません。私達はそれを『アリスの意思』として、心の指標にしているんです」
静かな言葉だったが、その重みは確かに伝わる。
そして、ふっと柔らかく微笑んだ。
「もっとも――私の中のアリス、ベル坊の中のアリス、ベルの中のアリス、みんなそれぞれ、違うみたいなんですけどね」
その言葉には、どこか優しい可笑しさと、深い想いが滲んでいた。
ミーファはふと思い出したように、視線を巡らせる。
「そういえば……初めてお会いした時に感じたのですが、どことなく……あなたの雰囲気はシスター・アリスに似ている、そんな気がしました」
そう言ってミーファが視線を送った――
ミリィに。
ミリィは一瞬、目を見開いたまま固まる。
その隣で、マリーナがぐっと唇を噛みしめた。
こらえるように力を込めたその唇から、じわりと血が滲む。
何かを押し殺すように、視線だけが静かに揺れていた。
マリーナの表情はそのままに――
内心だけが、大きく揺れていた。
(まさか……想定外の相手が、とんだ伏兵であったとか……)
わずかに視線を落とす。
(戦況予測と情報は戦場において鉄則。いつの間にか……私も緩んでいたものだ)
静かに息を整え、再び顔を上げる。
その瞳には、先ほどまでとは違う光が宿っていた。
傷心のまま、マリーナは部屋を後にした。
足元がおぼつかないまま廊下を進み、そのまま宿の階段を降りる。
一歩一歩、どこか現実感のない足取りだった。
一階へと辿り着くと、そこにはベルの姿があった。
テーブルに料理は並んでいる。だが――
ベルはそれに手をつけることなく、ただぼんやりと座っていた。
どこか、心ここにあらずといった様子で。
マリーナはよろけるように近付き、声をかける。
「食べないのか?」
ベルは顔を上げる。
「なんか、疲れてないか?」
「なんでもない。気にするな」
そう言って、ベルの向かいの席に腰を下ろす。
ベルは少しだけ間を置いてから口を開いた。
「シスターアリスの話、聞いてたのか?」
「あぁ……色々と」
「そっかぁ……」
短い沈黙。
マリーナは静かに問いかける。
「お前にとって、彼女がどんな存在だったか、聞いても?」
ベルは目を閉じる。
少しだけ考えるようにしてから、ぽつりと答えた。
「そうだなぁ……よく怒られて、よく殴られて……おっかない記憶しかないなぁ……」
そう言いながら――
その顔には、どこか穏やかな笑みが浮かんでいた。
マリーナもそれを見て、小さく息をつく。
「大切な、人なのだな」
「そんなんじゃねぇよ。でも――」
ベルは視線を落とし、続ける。
「もう1人のベルは、シスターのことが大好きだったみてぇだけどな」
その言葉に、マリーナの表情がわずかに緩む。
「あーなんか、似てるかもな」
「? なんの話だ?」
ベルは軽く肩をすくめた。
「いやー、マリーナって、シスターとちょっと雰囲気同じかもなーてな」
その一言で――
マリーナの思考が一瞬止まる。
机の下で、ぎゅっと両手を握りしめる。
そして――小さく、誰にも見えないところでガッツポーズ。
マリーナは何とか平静を装いながら、言葉を選ぶ。
「それは……要するに――」
ほんのわずかに声が震える。
「ベルの初恋の相手は私、ということだろうか?」
ベルはきょとんとした顔で首をかしげた。
「……? なんの話だ?」




