シスター・ミーファー
頭を押さえながら、ベルはゆっくりと後ろを振り返る。
「ね……シスター・ミーファ!? なんでここに!?」
その言葉に、目の前の少女の表情がぴくりと動いた。
両手を腰に当てたまま、鋭い視線でベルを見下ろす。
「あん? シスター・ミーファだ!?」
睨みがさらに強くなる。
「昔みてぇに姉ちゃんと呼べばいいじゃねぇか!」
次の瞬間、ベルのこめかみに抉るようなコークスクリューパンチが叩き込まれた。
「ぐはっ」
耐えきれず、ベルはそのまま尻餅をつく。
「ベルさん!?」
ミリィが慌てて駆け寄ろうとする。
「なっ……!?」
マリーナも一歩踏み出しかけ、目の前の光景に息を呑んだ。
しかし、その場に漂うただならぬ気配に、二人とも動きを止める。
部屋の空気が一気に張り詰めた。
ミーファは一歩前に出ると、大きく胸を張り、ベルを睨みつけた。
「てめぇ何ごちゃちごちゃとわがまま言って、警部さんを困らせてんだ!?」
さらに視線を周囲へと向け、鼻で笑う。
「大体なんだこりゃ、まーた女はべらせやがってよぉ!そーゆーとこ変わんねぇなぁ!ガキのころからよ」
ミリィがびくっと肩を震わせる。
「ち、違いますっ……!」
思わず反論しかけるが、その勢いに押されて言葉が続かない。
マリーナも一瞬だけ眉をひそめるが、すぐに口を閉じる。
目の前の少女がただ者ではないことを、本能的に理解していた。
一方で、尻餅をついたままのベルは、頭を押さえながら顔をしかめる。
その視線には、わずかな恐れと――諦めにも似た色が浮かんでいた。
ベルは頭を押さえたまま、恐る恐る口を開く。
「シ、シスター……」
ミーファの眉がぴくりと動く。
「ああん?」
ベルは一瞬だけ言葉を詰まらせ、視線を逸らした後、小さく言い直した。
「……姉ちゃん……なんでここに?」
そのやり取りを見ていたマリーナが、静かに口を開く。
「それは、大陸警察支部にベルを訪ねていらしたので、私がここまでお連れした……さっきまでこんな人じゃなかったが……」
ミーファはその言葉を聞くや否や、すっとマリーナの方へ向き直る。
そして、丁寧に一礼した。
「マリーナ警部様、ここまでお連れいただきまして、本当にありがとうございました」
先ほどまでの威圧感は消え、そこにあるのはシスター然とした穏やかな笑み。
あまりにも自然で、あまりにも完璧な切り替え。
そのギャップに――
逆に、全員が戦慄した。
ミーファは姿勢を正し、改めて静かに口を開く。
「申し遅れました。私、ジット村の名もなき小さな教会でシスターをしております。ミーファ・レンレンと申します。こちらのベル坊…ベルとは同じ教会の孤児院で育った、幼馴染の様なものです」
丁寧で柔らかな声音。先ほどまでの荒々しさは影も形もない。
まるで別人のような振る舞いに、室内の空気がわずかにざわつく。
ミリィはきょとんとした表情でミーファとベルを見比べ、パティは無言のまま静かに観察している。
そしてベルだけが、どこか居心地悪そうに視線を逸らしていた。
ベルは顔をしかめたまま、ぶっきらぼうに口を開く。
「何しに来たんだよ、ぶはっ」
言い終わるより早く、ミーファの前蹴りが一直線に突き刺さる。
鈍い音とともに、ベルの顔面が跳ね上がった。
「何しに来たじゃねぇだろうがよ! こっちはベルからの連絡を聞いて、心配してきてやったんだろうがよ!」
そのまま踏み込み、容赦なく怒鳴りつける。
ベルは顔を押さえながら、ぐらりと体を揺らした。
室内に、痛烈な一撃の余韻とミーファの怒気だけが色濃く残る。
ミーファはふっと息を整えると、何事もなかったかのように軽く手を振った。
「あ、この場合のベルは、こいつじゃない方です」
ミリィとマリーナが、すぐにこくこくと頷く。
その反応の速さが、かえってこの場の異常さを際立たせる。
一方でパティはわずかに目を細めたまま、状況を咀嚼しきれずにいる様子だった。
視線だけが静かにミーファとベルの間を行き来している。
理解が追いついていないのは明らかだった。
ミーファはふっと息をつき、にこりと笑みを浮かべる。
「それにしてもー」
その笑顔がベルへ向いた瞬間――
すっと、表情が険しくなった。
「指輪盗られたからってピーピーピーピー騒ぎやがってよぉ。てめぇはほんとガキの頃と変わんねぇな!」
「ちっちぇ頃もおもちゃ盗られて『姉ちゃん、取り返してくれよ〜!』てよく泣きついて来てたもんだ」
「ミーファ!それは――ぐはっ」
言いかけたベルの言葉を遮るように、ミーファの正拳突きが胸にめり込む。
鈍い音が響き、ベルの体がくの字に折れた。
ミーファはそのまま見下ろし、短く言い放つ。
「姉ちゃん、だろ?」
ベルはしばし沈黙した後、観念したように呟く。
「……はい、姉ちゃん……」
そのやり取りを見ていたパティが、わずかに目を見開く。
「なんだか……すごいものを見ている気がするのですが」
ミリィが小さく頷く。
「わかる……わかるよパティ」
一方で――
マリーナは頬を染め、口元を手で押さえていた。
「ベル……お姉様に頭が上がらないとは……やだ、かわいい」
パティはその様子を横目で見やり、わずかに首をかしげる。
「お一人だけ、どうにも反応が違う気がするのですが……」
「わかる……わかるよパティ」
ベルは顔を上げ、食い下がるように言い返す。
「でもシ……姉ちゃん、あの指輪は俺にとっては家族も同じなんだ!」
途中で睨まれ、慌てて言い直す。
ミーファは鼻で笑い、腕を組んだ。
「そんなもんあたしもよぉーく知ってらぁ。でもよ、盗られちまったもんはしゃーねぇだろうがよ? いつまでグジグジやってんだ」
ベルの表情が強張る。
「諦めろって言うのか!? それはいくら姉ちゃんでも……ぼぐっ」
言い切る前に、再び踵落としが脳天を捉えた。
「馬鹿野郎! 男が大事なもん盗られて諦めるなんて情けねぇこと、あたしは許さねぇよ!?」
その一言に、部屋の空気がわずかに止まる。
「……どういうことだよ?」
ベルが頭を押さえながら問い返す。
ミーファは当然のように言い放つ。
「取り返すに決まってんだろうが。ただ、焦るな。落ち着け。冷静になれ」
一拍置いて、くるりと周囲へ向き直る。
「せっかく皆様にご協力いただけるって言ってくれてるんだ……ねぇ? そうですよね?」
先ほどまでとは打って変わり、柔らかなシスターの微笑み。
突然の切り替えに、全員が一瞬言葉を失う。
そして再びベルへと向き直ると、声音が低くなる。
「だったらてめぇも焦ってねぇで、てめぇができることをやりやがれ」
ベルは食い下がる。
「だから今すぐ……」
ミーファの目が鋭く細められた。
「ちげぇだろ!? みんなで協力してやろうってんなら、ちゃんとやれ! 勝手なことすんな!」
さらにじろりとマリーナへ視線を向ける。
「大体てめぇ……なんだ? この警部さんにも手ェ出してんのか? いちゃいちゃしやがってよ」
その言葉に、マリーナの表情がぴくりと動いた。
「お姉様? 『も』とは? 『も』についてお詳しく」
ミーファは一度咳払いをし、すっと表情を和らげる。
「こいつ……失礼。この子は昔からそうなのです。目を離すとすぐ、女の子に手を出そうとしてしまって……本当に困っていたものです」
穏やかな声音と丁寧な言葉遣い。しかし、その内容にベルの眉がぴくりと動く。
「……誤解するような言い方すんな。俺から近づいたことはねぇよ」
ミーファはすぐさまジト目で睨みつける。
「てめぇは声かけられたら、すぐにほいほいついていくだろうがよ」
「そりゃ、お菓子くれるとか飯くれるって言われたら、ついてくだろ?」
ベルは悪びれもなく言い返す。
そのやり取りに、場の空気がわずかに緩んだ。
ミーファは腕を組み、呆れたようにため息をつく。
「こいつは本当、昔から悪ガキで、いろんないたずらするわ、女の子のスカートはめくるわ、胸は揉むわで...」
「喜んでる奴もいたんだからいいだろ?」
「その喜んでねぇ方々に謝り倒したのはあたしだってんだよ!」
ミリィが小さく頷きながら呟く。
「やっぱり……おっぱいは好きなんですね」
と、ミリィとマリーナがそれぞれ、自分の胸元を見る。
ミーファは軽く肩をすくめる。
「シスター・アリスが生きてた頃は、よくベルを捕まえて叱ってくれてたもんだ」
一瞬だけ、懐かしむように目を細める。
「シスター・アリスが亡くなってからは、いたずらしたり誰かに迷惑かけるたびに、あたしがとっ捕まえてシメてきたから」
ベルは顔をしかめ、小さくぼやく。
「……シメてってゆうか、ほぼ半殺しだったけどな……」
その言葉に、ミーファの眉がぴくりと動いた。
室内に、どこか懐かしくも騒がしい空気が広がっていく。
ミーファはくるりと皆の方へ向き直り、姿勢を正した。
「ですので皆さま、彼が皆様にご迷惑をお掛けした際には、ぜひ私にお声がけください。よろしくお願いします」
丁寧に一礼するその姿は、どこからどう見ても模範的なシスターそのものだった。
つい先ほどまでのやり取りを思い返し、ミリィはわずかに戸惑いながらも小さく頷く。
パティは静かに目を細め、その変わり身の早さを観察していた。
そしてベルは――
どこか遠い目をして、そっと視線を逸らしていた。
ミーファはぐいっとベルの方へ顔を向け、鋭く言い放つ。
「てことだから、わかってんだろうな!? ちゃんと警部さんの言うこと聞いて、みんなで一緒にちゃんとやれ! わかったな!?」
ベルは一瞬だけ視線を逸らし、渋々といった様子で答える。
「……わかった」
その瞬間――
ミーファのコークスクリューパンチが、ベルの左頬を正確に撃ち抜いた。
「がっ……!」
衝撃に顔を歪めるベルを、ミーファはじろりと睨みつける。
「てめぇ、何不貞腐れてんだ。あぁん?」
ベルは肩を落とし、小さく呟いた。
「……ごめん……姉ちゃん」
そのやり取りを見ていたミリィが、ぽつりとこぼす。
「なんだか……ベルさん子供みたいですね……」
マリーナは頬をほんのり染めながら、目を細める。
「あぁ……なんかこう、キュンとくるな……」
パティも静かに頷いた。
「なんだか少し、私もわかる様な気がしてきました」
騒がしいはずの部屋の中で、不思議とまとまり始めた空気が静かに流れていた。
パティが静かにミーファを見つめ、ぽつりと呟く。
「ベル様を制御できる人間がいたのですね」
ミリィも小さく頷き、感心したように続ける。
「魔王殺しなベルさんを制御……ある意味すごい」
マリーナは腕を組み、少し考えるように視線を落とした後、ゆっくりと口を開く。
「各組織や各国が知ったら、彼女を狙いそうだな」
その言葉に、場の空気がわずかに引き締まる。
冗談では済まされない現実味を帯びた指摘だった。




