第二章 第一話 消えた集落
お読みいただきありがとうございます。
第二章からは、一つの章を複数の話に分け、一話あたり三千字ほどを目安に掲載していくことにしました。
圭の日々や出会いを、これからも楽しんでいただけたら嬉しいです。
煮込みの火を弱めようと薪を引いたとき、戸の向こうで足音がした。
圭は顔を上げ、鍋の蓋を少しずらした。ギギなら、こちらが声をかけるより先に入ってくる。だが、足音は入口の前で止まり、そのまま動かなかった。
『開いてるぞ』
声をかけると、ようやく戸が押された。
ギギはいつもの大きな袋を背負っていた。肩紐を外して床へ下ろすと、炉の前まで来ず、入口に近い椅子へ腰を下ろした。
『今日は何を持ってきた』
『少しな』
『飯はもうすぐできる。そこに椀があるから――』
『ケイ』
呼ばれて振り返った。
ギギは膝に両肘をつき、圭を見ていた。
『お前が前にいた、オークの集落。潰されてたぞ』
圭は木杓子を持ったまま動きを止めた。
鍋の底から泡が浮かび、煮汁の表面で弾けた。
『……いつだ』
『分からん。昨日通ったときには、もう誰もいなかった』
『誰も、って』
『生きてる奴は、見つからなかった』
ギギは一度、床の袋へ視線を落とした。
『小屋が焼けてた。矢も残ってたし、たぶん人間の仕業だろうな』
『そうか……』
それ以上、言葉が出なかった。
圭は鍋へ目を戻し、止めていた手を動かした。煮えた根菜が木杓子に押され、簡単に崩れた。
あの集落に、戻りたいと思ったことはなかった。
食事を邪魔されずに済むようになり、本を蹴られる心配もなくなった。この小屋を直している間も、集落を出たことを後悔はしなかった。
『お前、人間と一緒に暮らしたいんだろ』
ギギの声に、圭は顔を上げた。
『あの耳の長いのに、話してたよな。人間の街で、飯を食わせる場所を作るとか』
『店だ』
『それだ』
ギギは短く頷いた。
『だが、現実はこれだ』
圭は何も答えなかった。
ギギも、答えを待たずに続けた。
『あいつはお前の作った飯を食った。礼も言った。だが、ほかの人間まで同じとは限らんぞ』
濡れた手を拭うように、圭は木杓子の柄を握り直した。
セリスも、最初は怯えていた。
近づくだけで身体を強張らせ、水差しにさえ手を伸ばさなかった。最後には笑ってくれたが、そうなるまでには何度も食事を運び、言葉を探さなければならなかった。
討伐に来る騎士が、そんな時間をくれるとは思えない。
『あいつら、人間を襲ってたからな』
圭が言うと、ギギは黙ってこちらを見た。
『集落の連中だ。俺も、それは知ってる』
初めて差し出された食事を、今も忘れられなかった。荷物の中から鍋を拾ったとき、その持ち主がどうなったのかも、考えずにはいられなかった。
人間が集落を討った理由は分かる。
けれど、今の自分を見つけたときにも、同じ剣が向けられるのだろう。
ギギは椅子から立ち、窓の外を確かめた。
『とりあえず、ここは離れた方がいい』
『ここまで来るか』
『来るかもしれん。逃げた奴がいないか、周りを探すことはある』
圭は戸口へ目を向けた。
直した戸も、積み上げた炉も、ここへ来てから少しずつ整えたものだった。雨漏りをしなくなった屋根の下で、ようやく安心して眠れるようになった。
『来てからじゃ、荷物はまとめられんぞ』
ギギが静かに言った。
圭はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
『分かった。準備しよう』
*
持っていくものは、それほど多くないはずだった。
鍋と小刀、塩の壺。残った穀物と粉、それから本。
ところが、棚から一つずつ下ろしてみると、床が思いのほか狭くなった。拾ったときは使い道も分からなかった壺や、ギギから受け取った布が、いつの間にか暮らしの道具になっていた。
圭は大きな布を広げ、その真ん中へ本を重ねた。
最初に手に入れた草の本は、何度も開いたせいで綴じ目が緩んでいた。頁が抜けないよう別の布で包み、子供向けの薄い本と一緒に束ねる。
壁の板も外そうとして、手が止まった。
文字の練習と、食材の覚え書きが並んでいる。その中には、セリスに直してもらったものもあった。
傷と、傷跡。
違いを説明するとき、彼女は圭の腕を指し、分かったかと顔をのぞき込んだ。
『それも持っていくのか』
背後でギギが尋ねた。
『……全部は無理だな』
かさばる板を見比べ、圭は食材の記録を選んだ。ほかのものは一枚ずつ眺めてから、炉の脇へまとめた。
ギギは何も言わず、自分の袋を開いて荷物の隙間を作っていた。
『行く当てはあるのか』
『沢を下って、東へ回ったところなら、小屋が残ってたはずだ。昔、狩りに使ってたようなやつがな』
『人間は』
『今は住んどらん。少なくとも、俺が見たときはな』
ここからは少し歩く、とギギは付け足した。
圭は頷き、積み上げた荷物を見た。鍋の中では、まだ煮込みが温かいままだった。
『その前に、飯にしよう』
ギギが顔を上げた。
『持って歩くわけにもいかないからな』
『それは困る』
いつもの調子に少し戻った声を聞き、圭は棚に残していた椀を二つ取った。
食事は、静かだった。
ギギはいつものようにおかわりを求め、圭は残りを多めによそってやった。鍋が空になると、中を洗い、炉のそばで乾かした。
その夜、圭は荷物に囲まれて横になった。
翌朝になっても決心が変わらないよう、戸の近くへ背負い袋を置いておいた。
*
出発前に、もう一度だけ小屋を掃いた。
床の隅に溜まった木屑を集め、食卓を拭く。乾いた椀を重ねて布で包んでいると、外からギギの声がした。
『そろそろ行くぞ』
『ああ』
返事をしたものの、すぐには外へ出られなかった。
寝台へ目をやった。
セリスが使っていた布は、洗って畳んであった。歩けるようになったばかりのころ、彼女は寝台の縁に座り、杖を持って何度も立ち上がる練習をしていた。
また来てもいいか。
いい、と答えたのは自分だった。
圭は荷物を持ち上げ、戸口へ向かった。
『ギギ』
『何だ』
『セリスが、また来るかもしれない』
ギギは圭を見上げ、それから小屋を見た。
『そうだな』
『俺がいなかったら……』
言いかけて、圭は口を閉じた。
集落が焼かれたことを、彼女も知るかもしれない。その近くにある小屋が空になっていたら、どう思うだろう。
ギギは肩紐を引き上げた。
『俺も、時々はこっちを通る。会えたら伝えとく』
『……頼む』
『生きとるって言っときゃいいな』
圭は頷いた。
ギギが先に歩き出すのを見送り、圭は戸を閉めた。自分で取りつけた戸は、最後のところで少し引っ掛かった。持ち上げるようにして押すと、いつもの音を立てて収まった。
直しておけばよかったと思ったが、荷物を下ろすことはしなかった。
*
東へ向かう道は、普段使っていた山道よりも細かった。
ギギは迷わず木々の間を抜けていったが、背の高い圭は何度も枝を避けなければならなかった。背負った荷物の中で、鍋が壺に当たって鈍く鳴る。
途中、沢のそばで昼食を取った。
残していたパンを半分に割って渡すと、ギギは座るなりかじりついた。圭も口へ運んだが、少し乾いたパンは、昨日より噛み応えがあった。
『次の小屋にも、炉はあるのか』
『あったと思う』
『使えるといいんだが』
『駄目ならつくればいいだろ。お前、前にもやってたじゃないか』
圭はパンを飲み込んでから、頷いた。
確かに、前にもやった。
鍋も小刀も、本も持ってきた。塩は少ないが残っているし、粉の袋もある。
水が使えて、雨をしのげるなら、また火は起こせる。
日が傾く前に、ギギが歩調を落とした。
『あれだ』
木々の向こうに、低い屋根が見えた。
近づいてみると、戸の下半分には蔓が絡み、入口に枯れ葉が溜まっていた。ギギが覚えていたとおり、今は誰も使っていないらしい。
圭は荷物を下ろし、蔓を外して戸を引いた。
中には埃の匂いが籠もっていたが、屋根に大きな穴はなかった。壁際には石造りの炉があり、積もった灰の上を、小さな虫が横切っていった。
『どうだ』
ギギが後ろから顔を出した。
圭は炉を確かめ、床へ置かれた古い腰掛けを起こした。少しぐらついたが、脚を直せば使えそうだった。
『……悪くない』
『じゃあ、俺は水を見てくる。下に流れてたはずだ』
『頼む』
足音が遠ざかると、圭は戸を開け放ち、棚の上の埃を払った。
布包みをほどき、鍋と小刀を置く。その横に本を並べると、見知らぬ小屋の中に、ようやく見慣れたものができた。
まずは掃除をして、炉を確かめよう。
ギギが戻るころには、夕飯の支度を始めていたかった。
お読みいただき、ありがとうございました。
章をいくつかの話に分けながら、圭の暮らしや出会いを少しずつ描いていきます。
引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。
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