第二話 おじさんの手
新しい小屋へ移って五日目に、ようやく食卓が使えるようになった。
転がっていた板を二つの木箱へ渡しただけなので、端に体重をかければ傾く。椅子代わりの腰掛けも、座り方によってはぐらついた。それでも、地面へ皿を置いて食べるよりはよかった。
圭は板の表面を拭き、窓のそばへ置いた本を手に取った。開いた頁の間から、移動中に挟まったらしい小さな葉が落ちた。
ギギは昨日から姿を見せていなかった。
近くの街道を見てくると言っていたので、何か拾い物でも探しているのだろう。次に来たら、卵が手に入る場所を教えてもらった礼に、少しましな昼飯を出してやろうと思っていた。
小屋から沢へ下る途中、低い茂みに巣を作る鳥がいた。卵は鶏のものより少し小さかったが、茹でてみると黄身の味が濃かった。
昨日焼いたパンも、まだ柔らかい。
久しぶりに、卵を挟んで食べるのもいいかもしれない。
圭は本を閉じ、水を汲むための壺を持って外へ出た。
*
声がしたのは、沢から戻る途中だった。
初めは鳥の鳴き声かと思ったが、足を止めて耳を澄ますと、木々の間からか細い言葉が聞こえた。何を言っているのかまでは分からないものの、誰かを呼んでいるようだった。
圭は壺を下ろし、声のする方へ歩いた。
倒れた木のそばに、女の子が座っていた。
膝を抱え、片手で細い枝を握っている。服の裾は泥で汚れ、靴の上から覗く足首には擦り傷があった。
圭が近づくと、少女はびくりと顔を上げた。
「……だれ?」
その声に、圭も足を止めた。
近くに大人がいるのではと周囲を見回したが、それらしい姿はない。耳を澄ませても、ほかに足音は聞こえなかった。
声をかけるべきか迷っていると、少女がもう一度尋ねた。
「そこに、いるの?」
「いる」
人語を探し、短く答えた。
少女の顔が声の方へ向いた。だが、セリスが初めて圭を見たときのような反応はなかった。目を見開くことも、後ずさることもない。
「ひとり?」
「……ひとり」
「おじさん?」
圭は少し戸惑い、それから頷きかけた。少女の視線が動かないことに気づき、声に出し直す。
「そう」
少女は握っていた枝を胸元へ引き寄せた。
「私、道が分からなくなっちゃって」
そこで言葉を切り、乾いた唇を舐めた。
「お水、ある?」
圭は頷き、また声に出すのを忘れたと気づいた。
「ある。まってる」
壺を取りに戻り、小屋まで走って椀も持ってきた。少女は同じ場所に座ったままだったが、足音が近づくと、ほっとしたように肩を下げた。
圭は少し離れて膝をつき、椀へ水を注いだ。
「ミズ。ここ」
差し出しても、少女の手は伸びてこなかった。
代わりに、空いている方の手をそっと前へ出し、何かを探すように動かした。その指が椀の横を通り過ぎるのを見て、圭はようやく気づいた。
「……みえない、か」
「うん」
少女は手を引っ込めかけた。
「だから、持たせてくれる?」
圭は椀をいったん地面へ置いた。
「テ、さわる」
返事を待ってから手を添え、椀の縁へ導いた。少女は両手で包むように持ち、ゆっくり口をつけた。
圭はその様子を黙って見ていた。
飲み終えて椀を膝へ下ろしたとき、腹の鳴る音がした。少女は慌てて片手を腹に当て、小さく頭を下げた。
「……ありがとう。もう大丈夫」
圭は泥のついた靴を見た。それから、まだ半分ほど残っている水へ目を移した。
「メシ、ある」
少女が顔を上げた。
「食べて、いいの?」
「いい」
答えると、膝の上の椀が少し傾いた。圭は手を出しかけたが、少女は自分で持ち直した。
*
小屋までは、普段ならすぐの距離だった。
だが、少女は足元を枝で確かめながら、少しずつ進んだ。圭が先を歩くと足音を追おうとして急ぐので、隣へ戻って歩調を落とした。
「テ、かす」
少女が探るように伸ばした手を受け止めると、小さな指が圭の人差し指を握った。
「おじさん、手、おっきいね」
圭は自分の手を見下ろした。
灰緑色の皮膚も、厚い爪も、少女には見えていない。彼女は握りやすい場所を探して指を動かすと、そのまま隣へ並んだ。
「ゆっくり、いく」
「うん」
途中には、木の根が道へ張り出していた。
圭はいつもなら跨いでしまう場所で止まり、言葉を探した。
「した。キの、ネ。ある」
少女は枝を伸ばし、根の位置を確かめた。
「これ?」
「そう。それ」
慎重に足を上げるのを待ち、圭も一緒に進んだ。
小屋へ着くころには、少女の息が少し上がっていた。圭は入口の段差を伝え、腰掛けまで案内すると、まず座面に触れてもらった。
「ここ。すわる」
腰を下ろしたのを確かめ、膝をぶつけそうな食卓の角を少し遠ざけた。
*
火を起こし、卵を鍋へ入れると、少女が音のする方へ顔を向けた。
「何、作るの?」
「パン。タマゴ、はさむ」
「卵?」
声が少しだけ明るくなった。
茹で上がるまでの間に、圭はパンを切った。片手でも食べやすい大きさにしようとして、途中で持ち直す。少女の手は、セリスよりずっと小さかった。
卵を冷まして殻を剥き、ギギに分けてもらった油と酢で、少量のマヨネーズも用意した。細かく潰した卵に混ぜ、塩で味を調えていると、背中へ不安そうな声が掛かった。
「おじさん?」
「いる」
「……うん」
返事を聞くと、少女は膝の上で手を重ねた。
圭は少し迷ってから、今していることを口にした。
「いま、タマゴ、つぶす」
「潰すの?」
「そう。パン、いれる」
言葉にしながら作るのは、思っていたより難しかった。それでも、黙っているよりはいいらしい。少女は卵を混ぜる音へ耳を傾け、ときどき小さく頷いていた。
出来上がったサンドイッチを皿へ載せ、食卓に置いた。
「できた」
少女の手を皿の縁へ案内し、パンのある場所を伝える。彼女は指先で大きさを確かめてから、両手で持ち上げた。
口元まで運び、少しだけかじる。
そのまま動かなくなった。
圭は自分の分を置いた。
酸っぱすぎただろうか。卵の匂いが苦手なのかもしれない。
「……まずい、か」
少女は慌てて首を振った。
口の中のものを飲み込み、もう一度パンへ触れる。
「柔らかい」
指で挟む力を緩め、それから今度は大きく口を開けた。
頬が膨らんだ。
二口、三口とパンが小さくなり、具がこぼれかけると、少女は皿の上へ手を戻した。指についた卵まで大事そうに口へ運ぶ。
「おいしい」
ようやくそう言って、またかじった。
圭は腰掛けへ座った。自分のサンドイッチにも口をつけたが、味を確かめる前に、向かいへ目が行ってしまった。
*
皿が空になってからも、少女はしばらく両手を膝へ戻さなかった。
皿の縁を指でなぞり、ためらいがちに尋ねる。
「これ、全部、食べてよかった?」
「いい」
「おじさんの分は?」
圭は自分の皿を見た。
「ある。おれも、たべる」
「そっか」
少女はようやく手を引き、口元を拭った。その指にも小さな擦り傷があることに、圭は気づいた。
「どこ、から。きた」
少女の手が止まった。
圭が待っていると、少しして返事があった。
「村。村のおじさんと来たの」
迎えが来るのだろうかと思ったが、少女は続けて言った。
「ここで待っててって。迎えに来るから、動いちゃ駄目だって」
圭は窓へ目を向けた。
少女が座っていたのは、道もない森の中だった。
「いつ」
「……昨日」
彼女は膝の上で指を組み直した。
「でも、誰も来なくて。水の音がしたから、少しだけ歩いたの。戻ろうとしたけど、分からなくなっちゃった」
圭は何か言おうとして、言葉を探した。
迷子だと言って、村へ送り届ければいい話ではなかった。
大人と一緒に来た子が、水も食べ物も持たされず、一晩、森へ残されていた。
「私、ここにいるって分かるかな」
少女が尋ねた。
圭は答えられなかった。
迎えは来ると、簡単に言ってはいけない気がした。それでも今、待っていても来ないのだと告げることもできなかった。
椀へ水を足し、彼女の手元へ置いた。
「きょう、ここ、いる」
「……ここにいていいの?」
「いい」
「おじさん、困らない?」
圭は首を振り、それからゆっくり答えた。
「こまらない」
少女は椀を両手で包んだまま、黙っていた。
圭も、それ以上は尋ねなかった。
*
少し休ませようと寝台へ案内すると、少女は横になって間もなく眠った。
薄い布を肩まで掛け、圭はそっと離れた。持っていた枝は、目を覚ましたときに探せるよう、寝台のすぐ脇へ置いておいた。
食卓へ戻ると、二枚の皿が並んでいた。
重ねかけたところで、片方に残った小さなパンくずが目に入った。
全部、食べてよかったのか。
そう聞いた声を思い出し、皿を持つ指に力が入った。
外では風が吹き、入口の蔓を揺らしていた。森のどこかに迎えの人間がいるなら、今ごろ子供の名を呼んで探しているはずだった。
圭はしばらく耳を澄ませたが、聞こえたのは葉の擦れる音だけだった。
寝台へ目を戻すと、少女は両手を胸元へ寄せて眠っていた。食べ終えたときよりも幼く見えた。
夕飯は、温かいものにしよう。
圭は皿を洗い、棚から鍋を下ろした。柔らかく煮える野菜を選び、小刀を手に取った。
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