幕間
幕間 報告できなかったこと
街の門が見えたとき、セリスはようやく足を止めた。
城壁の上には見慣れた旗が翻り、門の前には荷馬車の列ができていた。御者の怒鳴り声に、商人たちの話し声が重なる。その騒がしさを聞いているうちに、戻ってきたのだという実感が湧いてきた。
案内してくれたゴブリンは、街道が見えたところで森へ引き返していた。
別れ際に何か言っていたが、言葉は分からなかった。ただ、こちらの布包みを指していたので、最後まで食べ物のことを気にしていたのかもしれない。
セリスは小さく笑い、杖をつき直した。
門番に声をかけられたのは、それからすぐだった。
「……セリスか?」
こちらを見た騎士が目を見開き、持っていた槍を脇へ寄せた。
「お前、生きていたのか!」
その大声に、周囲の視線が集まる。セリスは気恥ずかしさを覚えながらも、頷いた。
「ただいま、戻りました」
*
団長室へ通されるまで、さほど時間はかからなかった。
扉の向こうから返事を聞き、セリスは杖をついて中へ入った。机に向かっていた団長は、彼女の姿を見るなり立ち上がった。
「セリス」
「帰還の報告に参りました」
姿勢を正そうとして、脚に痛みが走った。わずかに身体が傾くと、団長は眉を寄せ、近くの椅子を示した。
「座れ。報告はそのままでいい」
「ですが――」
「命令だ」
セリスは礼を言い、椅子へ腰を下ろした。
団長は机を回って近づき、彼女の顔と鎧を見た。割れた箇所へ目を留めた後、深く息を吐く。
「よく戻った」
その声を聞いて、セリスは膝の上で手を握った。
「ご心配をおかけしました」
「捜索は続けた。だが、あの谷は足場が悪い。雨で沢も増水していた。これ以上は捜索隊にまで犠牲が出ると判断した」
「……はい」
「お前の剣でも見つかればと思っていたところだ」
団長はそう言ってから、彼女の腰へ視線を落とした。
「本人が持って帰ってくるとはな」
セリスは何と答えていいか分からず、頭を下げた。
その剣を拾い、寝台のそばに置いてくれた手を思い出していた。
「何があった。順に話せ」
セリスは討伐中の出来事から説明した。
魔物の尾に盾ごと弾かれたこと。崖の途中で枝に引っ掛かり、どうにか即死を免れたこと。仲間のところへ戻ろうとしたが、脚が動かなかったこと。
話しているうちに、頬が熱くなった。
「周囲を見ていませんでした。魔物の正面ばかりに気を取られて、退路の確認を怠りました」
「それは戻ってから教官と話せ。今は、その先だ」
「……はい。谷を下っていたところで、別の魔物に襲われました。猪に似た魔物です」
団長の表情が険しくなった。
「よく逃れたな」
「助けてもらいました」
そこで、セリスは言葉を切った。
団長が先を促すように顔を見る。
「付近に住んでいる者が、私を見つけてくれました。歩けるようになるまで、手当ても」
「その者の名は?」
「ケイ、と」
「そうか。その者には礼をせねばならんな」
セリスは顔を上げた。
今なら話せるかもしれないと思った。
恐ろしい姿をしているが、人を襲わないこと。薬草の本を何度も確かめながら看病してくれたこと。人間の言葉を覚えようと、壁に文字を書きつけていたこと。
「あの、団長。その者について、お伝えしたいことが――」
「うむ。その前に一つ、確認したい」
団長は机へ戻り、広げられていた地図へ手を置いた。
「山にいた間、ほかに魔物は見かけなかったか。特に、オークだ」
セリスの指が止まった。
「……オーク、ですか」
「ああ。近くに集落があるという情報が入った。街道で襲われた商人の証言と、斥候の報告が一致している」
団長の指が、地図の一点を叩いた。
セリスは地図を見た。自分が落ちた谷との位置関係を追おうとしたが、山道のほとんどを意識のないまま運ばれた彼女には、あの小屋の場所も正確には分からなかった。
「近々、討伐隊を出す予定だ。あの辺りを商人が通れなくなれば、街にも影響が出る」
「討伐……」
「放置はできん。魔物は、こちらが待っていても大人しくなるわけではないからな」
団長は椅子へ戻り、セリスを見た。
「お前も身をもって知っただろう。一度動けなくなれば、連中は容赦なく襲ってくる」
猪型の魔物の牙が、脳裏をよぎった。
あのときは、もう死ぬのだと思った。
そして、その牙を自分から遠ざけてくれたのも、魔物だった。
「ですが……」
「何だ」
セリスは唇を開いた。
人を襲わないオークもいます。
たったそれだけの言葉が、喉に引っ掛かった。
団長の机の上には、街道の被害をまとめたらしい書類が重ねられていた。目に入った紙の端には、商会の名と、帰還した人数が記されている。
「……もし、人を襲わない個体がいたとしても、討つのですか」
団長は、少し不思議そうな顔をした。
「今、襲っていないだけだ」
間を置かずに返ってきた答えだった。
「近くに村があり、道を使う者がいる。襲われてからでは遅い。危険な魔物を討つのは、我々の仕事だ」
セリスは俯いた。
自分も、そう教わってきた。
山へ向かったときも、そのつもりで剣を握っていた。
「恐ろしい思いをしたな」
団長の声が、少し和らいだ。
「だが、しばらくは休め。まず医務室で脚を診せろ。討伐のことは、我々に任せておけばいい」
「……はい」
「それで、助けてくれた者の話だったな。何を伝えたかった?」
セリスは顔を上げた。
団長は返事を待っていた。
ここで話せば、礼をするために、その者を探すだろう。どこに住んでいるのかと、もっと詳しく聞かれるかもしれない。
オークだと知った後も、同じように礼をすると言ってくれるだろうか。
膝の横に立て掛けた杖へ、指が触れた。
滑らかになるまで削られた握りの部分を、そっと撫でた。
「……後日、改めてお話しします」
団長は頷いた。
「分かった。今は休め。無事に戻ったことを、皆にも知らせてやれ」
*
廊下へ出ると、窓から訓練場が見えた。
木剣の打ち合う音に、教官の声が重なっていた。何度も聞いてきたはずの音なのに、今日は少し遠く感じられた。
セリスは扉から数歩離れたところで立ち止まり、杖を見下ろした。
節が残り、途中で曲がった、不格好な杖だった。
これを作るため、あの大きな手が小刀を握っていた。自分が寝返りを打つたびに顔を上げ、痛むのかと気にしてくれた。
次は、もっと話そう。
そう約束して帰ってきたばかりだった。
セリスは団長室を振り返ったが、もう一度扉を叩くことはできなかった。
握る手に力を込め、医務室へ向かって歩き出す。
廊下には、杖の先が床を叩く音が、ゆっくりと続いていた。




