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第一章 山奥の食卓

お読みいただきありがとうございます。

料理人がオークに生まれ変わり、異世界でもう一度、自分の店を目指す物語です。


作中では、人語の会話を「」、魔物の言葉による会話を『』で表記しています。

 開店祝いの花が届いたら、入口のどちら側に置こうか。


 真島圭(まじま けい)は店先で足を止め、そんなことを考えながら腕時計に目を落とした。午前四時十二分。開店までは、まだ八時間近くある。下準備をするにしても早すぎる時間だったが、家にいたところで落ち着かなかっただろう。


 ガラス越しにのぞく店内には、六席のカウンターと、二人掛けのテーブルが三つ並んでいた。椅子も冷蔵庫も中古で、壁は休日を使って自分で塗ったものだ。厨房の通路に至っては、一人が横を向かなければ、もう一人は通れない。


 それでも、眺めていると自然に口元が緩んだ。


 地元の調理師専門学校を卒業し、恩師の紹介で東京の三ツ星レストランに勤め始めてから、十数年が経っていた。ろくに調理を任せてもらえない時期も、ようやく作らせてもらった皿を客へ出す直前に下げられた日もあった。辞めようと思った回数など覚えていないが、そのたびに、いつか自分の店を持つのだと言い聞かせて踏みとどまった。


 その店に、今日、初めて客を迎える。


「よし」


 圭は小さく気合を入れると、店の前に停めた軽トラックへ戻った。野菜の入った段ボールを抱え、その上にトマトの小箱を載せる。入口まで一度に運ぶつもりだったが、持ち直した拍子に小箱の縁が腕に引っ掛かった。


「あっ」


 こぼれたトマトが歩道で跳ね、車道へ転がっていく。圭は反射的に後を追い、拾おうと腰をかがめた。


 クラクションが鳴った。


 顔を上げたときには、白い車体が目の前に迫っていた。


     *


 口の中に何か刺さっている。


 意識が戻って最初に感じたのは、そんな違和感だった。舌を動かすと、左右に硬いものが触れる。歯にしては太く、頬の内側を押し広げるように外へ突き出していた。


 圭は顔に手をやったが、触れた鼻の形がおかしかった。頬も顎も、知っているものとは違う。確かめようと動かした指まで妙に太く、寝ぼけているのかと目を開けた。


 頭上を覆っていたのは、木々の枝だった。


 葉の隙間から白い空が見え、背中には湿った土の冷たさが伝わってくる。病院ではない。それどころか、すぐそばには細い木の根が地面から張り出していた。


 顔に当てていた手を、目の前へ持ってくる。


 灰色がかった緑色の、大きな手だった。指は太く、爪は人間のものよりもずっと厚い。


『……は?』


 自分の喉から出た低い声に驚き、慌てて身体を起こした。腕も腹も重く、手をついた地面が思っていたより遠い。身につけているものまで違うことに気づき、胸元へ手をやった。


 そのとき、水音が聞こえた。


 すぐ近くを小川が流れていた。圭は四つん這いのまま近づき、岸辺の石に手を置いて、水面をのぞき込んだ。


 豚に似た鼻と、口の両端から突き出した牙が見えた。太い首の左右には大きな肩が張り出し、その上に載った顔が、こちらを見つめている。


 圭が口を開くと、水の中の化け物も口を開いた。


 頬に触れれば、向こうも同じ場所に触れる。


『何だよ、これ……』


 思わず漏れた言葉の響きさえ、どこかおかしかった。


 何度顔を拭っても、水面に映る姿は変わらなかった。


     *


 オークという名前を知ったのは、その日の夕方だった。


 森で出会った同じ姿の連中に連れられ、圭は木と枝で組まれた小屋の並ぶ集落へ入った。小屋の間には獣の皮が干され、地面には大小の骨が散らばっていたが、案内してきたオークは気にも留めず、誰かを呼ぶように声を張り上げた。


 その言葉が、圭には分かった。


 日本語ではない。聞いたこともない音の連なりなのに、意味だけが自然に頭へ入ってくる。どこから来たのかと聞かれ、分からないと答えようとしたら、自分の口からも同じ言葉が出た。


 先ほどから自分が発していた声も、この言葉だったのだ。


 どうして話せるのか。ここはどこなのか。そもそも、自分は本当に生きているのか。


 尋ねたいことはいくつもあったが、それを考える余裕はすぐになくなった。


 一人のオークが、食い物を差し出してきたからだった。


 圭はそれを見つめ、動けなくなった。何なのか理解したくなかったが、見覚えのある形が、目を逸らすことを許してくれなかった。


 胃が大きく縮み、膝が折れた。


 何も入っていないはずの腹から、酸っぱいものが込み上げる。地面に手をついて吐くと、頭上で笑い声が起きた。


 その日、圭は何も食べなかった。


 翌日も、食事を差し出す手を押し返した。


 けれど、三日目になると、空腹で立っているのもつらくなった。この身体は、人間だったころとは比べものにならないほど食い物を欲しがった。


 人間は食えない。獣なら食べられるはずだったが、ほかのオークのように生肉を噛み千切ることには、どうしても抵抗があった。


 火と、刃物が要る。


 そう考えて集落を歩き回るうち、圭は外れに積まれた荷物を見つけた。裂けた袋や壊れた車輪に混じり、食器や布が無造作に捨てられている。襲った商人たちから奪い、使い道がないと判断されたものらしかった。


 荷を探る手が、見覚えのある柄に触れた。


 引き抜くと、小刀だった。刃はところどころ欠けていたものの、まだ使えそうだった。そばには片方の取っ手が曲がった鉄鍋も転がっていて、圭はそれを抱えると沢へ向かった。


 鍋も小刀も、泥が落ちてからさらに何度も洗った。


 獲物を手に入れるのは、拍子抜けするほど簡単だった。茂みから飛び出した兎に似た獣を、反射的に伸ばした手で捕まえてしまったのだ。掌の中で暴れる獣を見下ろし、圭は自分の腕の速さに戸惑った。


 それよりも、火を起こす方がよほど難しかった。


 乾いた枝を集め、ようやく火種を作り、消えそうになるたびに息を吹き込んだ。肉を焼けるようになったころには、すっかり日が傾いていた。


 脂が炙られる匂いに、腹が鳴った。


 圭は待ちきれずに小さな切れ端を口へ入れたが、噛んだ途端に眉をひそめた。


『……硬え』


 見た目は兎に似ていたが、皮を剥ぐと脂が厚くついていた。その様子から豚肉に近い味を想像していたものの、実際には匂いが強く、何度噛んでも筋が口に残る。


 どうにか飲み込んでから、残った肉を手に取った。繊維が太く、あちこちに硬い筋が通っている。


 翌日は繊維を断つように薄く切り、その次は骨ごと鍋へ入れて長く煮込んだ。表面に浮いた脂をすくい、商人の荷物から見つけていた塩を、ほんの少しだけ加えてみる。


 肉を口へ運ぶと、今度は歯で噛み切れた。


 圭は鍋の前に座り、ゆっくり息を吐いた。


 なぜオークになったのかも、この森がどこにあるのかも、まだ何一つ分からない。


 それでも、明日の肉はもう少しましにできそうだった。


     *


 火を使って料理をする圭を、ほかのオークたちは嫌った。


 生では食えない弱い奴だと笑われ、人間の道具を使うなと鍋を蹴られたこともあった。食べられるとわかった草を採って帰れば、肉も獲れなくなったのかと鼻を鳴らされた。


 最初のうちは、圭も作ったものを勧めていた。だが、誰も手をつけようとせず、差し出した椀を払われてからは、一人で食べるようになった。


 だから、その声がしたときも、またからかわれるのだと思った。


『それ、食えるのか』


 振り返ると、小柄なゴブリンが立っていた。身体に不釣り合いな大きな袋を背負い、片方の耳の先が欠けている。


『食える』


『変な匂いがする』


『嫌なら食うな』


『嫌とは言っとらん』


 ゴブリンは鍋の周りを歩き、左右から中をのぞき込んだ。湯気が顔にかかると鼻をしかめたが、立ち去る様子はなかった。


『肉か』


『ああ』


『何で水に入れる』


『柔らかくなる』


『ふうん』


 どうやら、ただ興味があるらしい。


 圭は木椀に肉をひと切れよそい、差し出した。ゴブリンは受け取ると、匂いを嗅いでから舌先で煮汁に触れ、慎重に肉を口へ入れた。


 耳がぴくりと動いた。


 圭は鍋をかき混ぜるふりをしながら、その口元を見ていた。吐き出されるだろうかと待っていると、ゴブリンは肉を飲み込み、椀の中を確かめた。


『……妙な食い物だな』


『そうか』


『もう一つくれ』


 当然のように差し出された椀を、圭は少しの間見つめた。それから鍋へ手を戻し、今度は大きめの肉を取ってやった。


 食事の後、名前を尋ねられた。


『ケイだ』


『ケイというのか。俺はギギだ』


 ギギはあちこちを旅し、拾ったものや手に入れたものを交換しながら暮らしているという。圭の料理が気に入ったらしく、それからは時々、集落へ顔を出すようになった。


 蓋のない壺や錆びた匙、ときには小さな袋に入った塩も持ってきた。食事と交換だと言い張るので、圭も遠慮なく受け取っていた。


 ある日、その荷物に本が混じっていた。


 圭はすぐに手を伸ばした。表紙が半分ちぎれ、頁の端には黒い染みが広がっていたが、文字は残っている。


 開いてみて、手が止まった。


 何一つ、読めなかった。


『お前、人間の言葉は分かるか』


『少しな』


『これ、何て書いてある』


『知らん』


『言葉は分かるんだろ』


『音はな。その模様は知らん』


 ギギは本には関心がないらしく、鍋の中身ばかり気にしていた。


 圭は頁をめくり、草の挿絵を見つけた。葉と根を分けた図や、小さな実を切った図が載っている。その横に並んだ文字を追っていくと、同じ形が何度か現れた。


 何かの名前かもしれない。


 本を開いたまま地面へ置き、拾った枝で文字を写し始めると、ギギが横からのぞき込んだ。


『何しとる』


『覚える』


『そんな模様をか』


『ああ』


 ギギには理解できないようだった。それでも次に来たときには、物の絵と大きな文字が並んだ、薄い本を持ってきた。


 子供に文字を教える本らしかった。


 圭は何度も頁をめくり、顔を上げた。


『……助かる』


『じゃあ、肉を増やせ』


 素直に礼を言わせる気はないらしい。圭はつい口元を緩めながら、ギギの椀に肉を追加してやった。


     *


 集落を離れたのは、冬が来る前だった。


 食事を邪魔されず、手に入れた本を濡らさずに済む場所を探して山を歩き、古い小屋を見つけた。屋根には穴が開き、戸も外れていたが、壁と柱はまだ使えそうだった。


 圭は丸太や枝を運び、少しずつ小屋を直した。太い木を一人で持ち上げられるのには助けられたものの、細かな作業は苦手で、拾った釘を何本も曲げてしまった。


 屋根を塞ぎ、戸を取りつけ、石を積んで炉を作った。


 初めて雨をしのいで眠れた夜は、濡れる心配をしなくていいというだけで妙に嬉しかった。


 ギギは、新しい住まいにもやって来た。


 圭は食事を作り、持ってきてもらった本を読んだ。ギギが知っている言葉は何度も発音してもらったが、意味を推測できても読み方の分からないものは多かった。


同じ植物の絵を別の本で探し、その横にある文字を比べる。今まで食べた中に毒草もあった。オークやゴブリンには効果がなかったようだが今後気をつけるようにした。


 食材についても、失敗を重ねながら覚えていった。


 玉ねぎに似た球根は、炒めても甘くならず、辛みが残った。一方、ギギがよく齧っている硬い実は、砕いて煮ると豆に似た香りがし、汁にとろみがついた。


 知っているものに似ているからといって、同じ使い方ができるわけではなかった。


 特に手を焼いたのは、パンだった。


 小麦に似た穀物を挽いても、水を加えた生地はぶつぶつと切れた。別の粉を混ぜ、水分を変え、膨らむまで待つ時間や焼く位置も調整したが、黒く焦げた塊や、石のようなものが出来上がった。


『今日は何だ』


『パン』


『昨日もそう言ってたな』


『昨日もパンだ』


 ギギは焼き上がった塊を爪で叩き、感心したように頷いた。


『パンという食べ物は石みたいな固い食い物なんだな』


『…』


 それでも、失敗したものを食べながら次を試した。


 柔らかいパンが焼けたのは、暖かくなってからだった。割った中から白い湯気が立ち、指で軽く押した生地が、ゆっくりと元へ戻った。


 ギギは受け取った半分を黙って食べた。何か言うかと待っていると、残りの半分にも手を伸ばしてきた。


 圭は、その手を止めなかった。


     *


 その日、圭は香りのよい草を採るため、山の斜面を歩いていた。


 茂みの向こうから低い唸り声が聞こえ、足を止めた。枝の隙間をのぞくと、猪型の魔物が木の根元に向かって地面を掻いている。


 その鼻先に、銀色の鎧が見えた。


 人が倒れていた。


 圭が声を出すより早く、魔物が頭を下げた。太い脚が土を蹴るのを見て、背負っていた籠を投げつける。


 籠が横面に当たり、摘んだ草が散った。


 魔物は進路を変え、こちらを向いた。


 圭は落ちていた太い枝を掴んだ。突進に合わせて横へ身を引くと、牙がすぐ脇を通り過ぎる。その首へ枝を振り下ろした瞬間、両腕に重い衝撃が伝わった。


 魔物が地面へ倒れ込んだ。


 圭は枝を握ったまま、しばらく息を整えていた。自分に向かってきた牙の大きさを思い返すと、遅れて脚が震えた。


『……危ねえな、もう』


 動かなくなった魔物から離れ、木の根元へ膝をついた。


 倒れていたのは、若いエルフだった。血のついた髪の間から尖った耳がのぞき、鎧には大きな亀裂が入っている。脚も痛めているらしく、不自然な向きで投げ出されていた。


『おい。聞こえるか』


 返事はなかったが、胸はかすかに動いていた。


 圭は身体に掛かっていた枝を取り除き、傷の様子を確かめた。ここへ置いてはいけない。小屋までの道を思い浮かべ、どうすればなるべく揺らさず運べるかを考えた。


     *


 目を覚ましたセリスは、まず天井の梁を見た。


 煤で黒ずんだ太い木が、頭上を横切っていた。自分たちが宿営していた場所ではない。身体を起こして確かめようとした途端、脚に鋭い痛みが走った。


「っ……!」


 息を呑むと、炉の前で何かが動いた。


 大きな背中が振り返り、灰緑色の顔がこちらを向いた。口の両端には牙が突き出し、太い腕の先には鍋が握られている。


 セリスの身体が強張った。


 オークだった。


 教練で何度も聞かされた名前が、頭の中を駆け巡った。単独で遭遇したら距離を取れ。新人だけで仕掛けるな。あの腕で殴られれば、盾ごと骨を折られる。


 そして———人を食う。


 腰へ手を伸ばしたが、剣がなかった。


 オークが立ち上がる。セリスは寝台の奥へ逃れようとして、壁に肩をぶつけた。脚が痛み、身体を支えることさえできない。


「来るな!」


 オークの足が止まった。


 セリスは手探りで近くの木杯を掴み、胸の前へ構えた。こんなものでは身を守れないと分かっていても、手放せなかった。


 オークは杯へ視線を落とし、ゆっくりと鍋を下ろした。


「……ミズ」


 大きな指が卓上を指した。


「ミズ。のむ」


 セリスは、その口元を見た。


 言葉を話した。


 聞き間違いかと思ったが、オークは水差しを指し、もう一度同じ音を口にした。


 それでも彼女が動かずにいると、別の杯へ水を注ぎ、自分で飲んでみせた。それから水差しを寝台のそばへ置き、少しずつ離れていく。


「だい、じょうぶ」


 言葉はひどくたどたどしかった。


 戸が開き、その巨体が外へ消えてからも、セリスは水差しに手を伸ばせなかった。


     *


 圭は小屋の外へ腰を下ろし、両手で顔を覆った。


 まるで駄目だった。


 本なら、少しは読める。知っている単語も増えたはずなのに、相手を前にすると口から出てこない。ようやく思い出しても、舌がうまく動かず、自分の発音が正しいかどうかさえ怪しかった。


 助けたいだけだ。人間は食べない。怪我が治るまで、ここにいればいい。


 伝えたいのは、それだけだった。


 戸の向こうで、かすかに器の触れる音がした。


 圭は顔を上げて耳を澄ませた。続いて、水を飲むような音が聞こえた。ようやく少し、肩の力が抜けた。


 夕方には、柔らかく煮た野菜のスープを運んだ。


 今度は先に戸を叩き、間を置いてから中へ入った。それでもエルフが身構えたので、戸口の近くで足を止め、持っている椀を見せた。


「たべる」


 相手の視線が、椀へ移った。


 圭は自分の分をひと口飲んでから、別の椀を寝台の脇へ置いた。長くそばにいない方がいいだろうと思い、そのまま外へ出た。


 後で戻ると、スープは少し減っていた。


 手当ても、何かする前には相手の顔を確かめた。


 本で調べた薬草を使うときは、該当する頁と実物を並べて見せた。エルフが頷けば使い、分からないという顔をすれば無理はしなかった。


 脚を固定する木も、痛むところに当たらないよう何度か削り直した。触れたときに息を詰められると、圭は手を止め、場所を指して確かめた。


 数日経つころには、食事を持って入っても、寝台の奥へ逃げられることはなくなった。


 肉を出した日だけは、匙が止まった。


 圭は椀を見つめる目に気づき、ようやく思い当たった。


「ケモノ」


 伝わったかどうか分からず、慌てて本を取りに行った。獣の挿絵がある頁を開き、椀と交互に指してみせる。


「これ」


 エルフは絵を見た後、圭の顔へ目を向けた。


「……人は?」


 短い言葉だった。


 圭は首を振った。


「たべない。おれ、ヒト、たべない」


 今度だけは、目を逸らさずに伝えた。


 エルフはしばらく圭を見つめていたが、やがて匙を持ち直し、肉を口へ運んだ。噛んで飲み込むのを見届け、圭は静かに本を閉じた。


 その日の椀を片づけようとしたとき、彼女が自分を指した。


「セリス」


 圭が首をかしげると、もう一度、ゆっくりと繰り返した。


「セリス。私の名前だ」


 名前を教えてくれているのだと分かり、圭も胸に手を当てた。


「ケイ」


「ケイ?」


 圭が頷くと、彼女はその音を確かめるように、もう一度口にした。


     *


 ギギが来たのは、セリスが目覚めて十日ほど経ってからだった。


 戸を開けた姿勢のまま、ぴたりと動かなくなった。寝台のエルフを見て、炉の前の圭を見てから、もう一度エルフへ顔を戻す。


『……拾ったのか』


『ああ』


『妙なものを拾うな』


『お前に言われたくない』


 セリスは聞き慣れない言葉のやり取りを、不安そうに見ていた。


 ギギは彼女へ近づきかけ、その身体が強張ったのを見ると足を止めた。少し考えるように鼻を掻いてから、口を開く。


「おまえ、ケガ、したか」


「……ああ」


「まだ、いたいか」


「少し」


 ギギは脚の添え木を見て頷いた。


「メシ、たべろ。いっぱい」


 それだけ伝えると、さっさと炉の方へ向き直った。


『で、俺の分は?』


『ない』


『今から増やせ』


 鍋をのぞこうとするギギを、圭は腕で遮った。ギギが反対側へ回れば、そちらにも身体を寄せる。


 そのやり取りを見ていたセリスの口元が、少しだけ緩んだ。


 その昼、圭は浅い木皿を三つ用意した。


 作ったのは、米に似た穀物を煮た料理だった。ギギが以前持ってきたもので、同じように炊こうとすると芯が残り、そのくせ外側は崩れてしまう。


 何度か試した末、炒めてから煮汁を少しずつ足し、火の入り具合を確かめながら煮るようになった。今日はそこへ刻んだ茸と鳥の肉を加え、手に入った硬いチーズも少し削って混ぜた。


 リゾットのつもりだった。


 圭が皿を渡すと、セリスは湯気に顔を近づけてから、匙ですくった。ひと口食べ、そのまま皿へ視線を落とす。


 圭は自分の分に手をつけず、その反応を待った。


「……これは、何という料理だ?」


 料理の名を尋ねられたのだと、少し遅れて分かった。


「リ……」


 頭の中にはあるのに、舌が思うように動かない。


「リドット」


「リドット?」


「コメ、つかう、リョウリ」


「コメ?」


 圭は皿の中の粒を指した。


「これ。にてる。……おれ、しってるコメ、ちがう」


 説明になっているか、自分でも分からなかった。それでもセリスは頷き、もうひと口食べた。


「おいしい」


 その言葉は、はっきり分かった。


 思わず口元が緩むと、セリスの肩がわずかに跳ねた。圭はすぐに口を閉じた。牙が見えたのだろう。


 少し気まずくなって目を落とすと、横から空の皿が寄せられた。


『俺にも笑っていいぞ。増やしてくれるなら』


『食うのが早いんだよ』


 圭は呆れながら皿を受け取った。ギギは待ちきれない様子で、鍋と圭の顔を交互に見ている。


 セリスが小さく笑った。


 圭はもう一皿よそってから、彼女にも尋ねた。


「まだ、たべる?」


「……少し、もらおうかな」


 彼女も皿を差し出した。


     *


 それから、小屋で交わす言葉が増えていった。


 セリスは圭が使う道具を指し、名前を教えた。分からない顔をすれば、ゆっくり繰り返したり、別の言い方に変えたりしてくれた。


 圭も本を持ってきて、覚えた文字の読み方を尋ねるようになった。


「これは、傷ではなくて、傷跡だ」


「キズ、アト」


「そう。もう治った後のもの」


 腕に残った古い傷を指すと、セリスが頷いた。圭は板に書いていた覚え書きを削り、正しい文字へ直した。


 隣からのぞき込んでいた彼女が、壁へ目を向ける。


「字は、随分練習しているんだな」


 圭は何度か言葉を確かめ、頷いた。


「ホン、よみたい」


「何の本を?」


「タベモノ。クサ。……もっと」


 壁には文字を練習した板のほか、食材の絵や、何度も書き直した記録が並んでいた。


 セリスは寝台にいる間も、圭がそれらを見て考え込んでいるのを眺めていた。鍋をのぞき、味を確かめ、本を開いてから、また何かを書き足す。


 話に聞いていたオークの暮らしとは、何もかも違っていた。


 セリス自身のことも、少しずつ聞いた。


 彼女はまだ新人の騎士で、山の北側に現れた大型魔物を討伐するため、一隊に加わっていたという。戦いの最中、振り回された尾に盾ごと弾き飛ばされ、そのまま崖へ落ちたのだった。


 途中の枝に引っ掛かったおかげで命は助かったものの、脚を痛めて歩けなくなった。仲間のもとへ戻ろうと這って進んでいるうちに、あの猪型の魔物に見つかったらしい。


 圭は分からない言葉を聞き返しながら、その話を聞いた。すべてを理解できたわけではなかったが、彼女が悔しがっていることだけは分かった。


「情けないだろう」


 ある日の食事中、セリスが脚を見下ろして言った。


「皆が戦っているのに、私は食べて、寝ているだけだ」


 圭は言葉の意味を頭の中で並べ直してから、彼女の椀を指した。


「いま、なおす。シゴト」


「……治すのが、仕事?」


 頷いて、もう一度伝えた。


「たべる。ねる。なおす」


 セリスの口元が、わずかに緩んだ。


「楽な任務だな」


 圭はまだ半分残っている椀を、もう一度指した。


 彼女は小さく息を漏らし、匙を持ち直した。


「分かった。任務を続ける」


 その日も、椀は空になった。


     *


 脚の腫れが引き、少しずつ身体を起こせるようになると、圭は杖を作り始めた。


 太めの枝を拾い、寝台からでも手の届くところで節を削った。小刀は圭の手には小さく、強く握ると柄が指に食い込む。力を入れすぎれば深く削れ、慎重にやればなかなか進まなかった。


「それは?」


 寝台から見ていたセリスに尋ねられ、圭は枝を床につき、歩く真似をした。


「杖か」


「ツエ」


 教えられた音を繰り返すと、彼女が頷いた。


 長さを確かめるため、壁につかまって立ってもらった。だが、痛む脚をかばって身体を起こした途端、セリスが顔をしかめた。


 圭は手を出しかけ、触れる前に止めた。


 彼女は差し出された腕を見つめた後、そっと手を置いた。少しずつ体重が預けられてくる間、圭は動かず、立ち上がるのを待った。


 支えられたセリスは、息を整えながら杖に手を伸ばした。


 杖は、その後も何度か削り直した。


 出来上がっても節はいくつも残り、途中で少し曲がっていた。とても見栄えのいいものではなかったが、手で握る部分だけは滑らかで、ささくれ一つ残っていなかった。


 セリスはそれを使い、寝台から食卓へ、食卓から戸口へと、少しずつ歩く距離を延ばしていった。


     *


 雨の夜だった。


 二人で食事を終え、圭が皿を片づけていると、背中へ声が掛かった。


「ずっと、ここにいるのか」


 振り返ると、セリスは卓に手を置いてこちらを見ていた。


「ここ?」


「この小屋で。これからも」


 圭は窓へ目を向けた。外は暗く、雨粒がガラスを伝っている。この場所で暮らすようになってから、ずいぶん長い時間が経っていた。


「……わからない」


「ほかに、行きたい場所があるのか?」


 答えようとして、ためらった。


 持っていた皿を置き、布で手を拭く。もう濡れていないのに、指の間まで何度も拭ってしまった。


「マチ」


「街?」


 頷き、食卓と炉を順に指した。


「ミセ、したい。つくる。ヒト、くる。たべる」


「料理の店を、開きたい?」


 ようやく言いたかった形になった気がして、圭は彼女へ顔を戻した。


「そう。リョウリの、ミセ」


 口にしてから、自分の手を見下ろした。


 包丁を握っていた手とは違う。分厚い爪があり、指は太く、何も持っていなくても人を怯えさせる。


「でも、おれ、オーク」


 セリスはすぐには答えなかった。


 この姿のまま街の門へ行けば、たちまち騎士が集まるだろう。言葉を話す前に矢を射かけられても、おかしくなかった。


 自分だって、最初に剣が手元にあれば抜いていた。


 沈黙の意味を察したのか、圭が困ったように少し笑った。


「むずかしい」


「できる」


 圭が顔を上げた。


 セリスは、自分の空いた皿に目を落とした。肉も野菜も残っておらず、煮汁までパンで拭って食べていた。


「絶対に、できる」


 圭は何も言わなかった。


 セリスは彼に伝わるよう、ゆっくりと話した。


「私は、お前が怖かった」


「……うん」


「水も、最初は飲めなかった。料理を出されても、何をされるのかと考えた」


 圭は黙って頷いた。


「でも今は、明日の朝、何を作ってくれるのか楽しみにしている」


 屋根を打つ雨音が、二人の間を埋めた。


「私だけでは、ないはずだ」


 圭は彼女を見ていた。聞いた言葉を一つずつ確かめるように、しばらく黙った後、低い声で尋ねた。


「できる、おもうか」


「思う」


 迷わず頷くと、圭は視線を落とした。


 布の端を、太い指でいじっている。何か言いかけた口が閉じ、また少しだけ開いたが、結局言葉にはならなかった。


 代わりに、卓上の籠へ手が伸びた。


 中には、明日のためのパンが二つ残っていた。


「……たべる?」


 セリスは笑った。


「一つずつにしよう」


     *


 セリスが鎧を身につけたのは、杖で外を歩けるようになってから、さらにしばらく経った朝だった。


 割れた部分は直せなかったが、泥や血は落としてあった。圭は留め具を確かめ、傷んだ紐を結び直してから、少し離れて彼女の姿を見た。


 セリスが腰へ剣を吊るそうとして、ふと手を止めた。


「なぜ、これを隠さなかった?」


 圭は剣を見た。


「おまえの、もの」


「私が、お前を斬ったかもしれない」


 剣は初めから、寝台の足元に立て掛けられていた。目覚めた直後には見つけられなかったが、落ち着いて周りを見れば、すぐに分かる場所だった。


 圭は少し考え、寝台を指した。


「こわい、だろ」


 セリスが顔を上げると、彼は続けた。


「なにも、ない。……こわい」


 セリスはすぐには返事ができなかった。


 知らない場所で目覚め、身体も動かせず、身を守るものまで取り上げられていたら、もっと怖かっただろう。


 圭はそれを考えて、武器をそばへ置いていたのだ。


 彼女が黙っていると、圭は棚から布包みを取ってきた。中には、焼いた肉と野菜を挟んだパンが入っていた。


「ヒル。たべる」


 セリスは両手で受け取った。


「ありがとう」


 戸を開けると、朝の光が差し込んだ。木の根に座っていたギギが立ち上がり、退屈そうに袋を背負った。街道の見える場所まで、案内を頼んであった。


『遅いぞ』


『待たせたな』


『食い物は?』


『お前はさっき食っただろ』


 ギギはセリスの持つ包みを見た。圭に首を振られると、露骨に顔をしかめる。


 二人の言葉は分からなくても、何を話しているのかは想像がついた。セリスは笑い、不格好な杖を地面についた。


 ギギが彼女へ向き直った。


「おれ、ミチ、しってる。ゆっくり、いく」


「よろしく頼む」


 ギギは頷き、先に歩き出した。


 セリスも何歩か進んでから振り返った。圭は戸口に立ったまま、こちらを見ていた。


「また来てもいいか」


「いい」


 すぐに返事があった。


「今度は、怪我をせずに来る」


「それ、いい」


 セリスは杖を握り直し、もう一つ伝えておこうと思った。


「店のことも、少し調べてみる」


 圭の目が動いた。


「すぐに何かできるとは約束できない。でも、何か方法があるかもしれない」


 彼は言葉の意味を確かめるように、しばらくセリスを見ていた。それから、ゆっくり頭を下げた。


「……ありがとう」


 少し先でギギが待っていたので、セリスは再び歩き出した。木々の間へ入る手前で、もう一度だけ足を止める。


「次は、もっと話そう」


 圭が大きな手を上げた。


「ベンキョウ、する」


 セリスも手を振り返し、今度こそ森の道へ歩いていった。


     *


 二人の姿が見えなくなってからも、圭はしばらく戸口に立っていた。


 鳥の声と、風に擦れる葉の音が聞こえた。小屋の中から誰かに呼ばれることはなく、遠くの沢の音が、いつもよりはっきり耳に届いた。


 中へ戻ると、食卓に椀が二つ残っていた。


 片方ずつ洗って伏せ、卓を拭いた。寝台のそばに落ちていた木屑も拾い集めたが、それが済むと、手が止まった。


 圭は棚から本を取り、セリスに教わった頁を開いた。


 店。料理。客。


 文字を指でなぞり、一つずつ声に出した。まだ舌がもつれたので、覚えた発音を思い出しながら、何度か繰り返した。


 窓から入った風に、頁の端が揺れた。


 圭は本を閉じ、粉の壺を引き寄せた。


 明日のパンを、仕込む時間だった。

第一話をお読みいただき、ありがとうございました。


圭の料理と、そこから生まれる出会いを、これから少しずつ描いていきます。

また次のお話にも、お付き合いいただけたら嬉しいです。

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