第八話 城を奪う夜
『大いなる野望』
第一部・第八話「城を奪う夜」
夜明け前。
井伊谷城を覆っていた炎が、ようやく小さくなっていた。
空には黒煙が漂っている。
城下には、佐久間軍。
城内には、裏切った兵。
そして本丸には。
井伊谷盛定と織部信綱。
二人だけだった。
「殿」
信綱が静かに言った。
「もう一度だけ聞きます」
盛定は黙っていた。
「父を死なせた命令を出したのは、本当に殿ですか?」
長い沈黙。
やがて。
盛定は答えた。
「そうだ」
信綱の拳が震えた。
「なぜ?」
「宗重を生かしておけば、奴らが動く」
「奴ら?」
「二十年前の密約を結んだ者たちだ」
盛定は苦しそうに息を吐いた。
「宗重は、その密約を知っていた」
「だから殺した?」
「違う」
盛定は首を振った。
「宗重を死んだことにした」
信綱は眉を寄せた。
「……死んだことに?」
「奴らにそう思わせるためだ」
「では父は?」
「生きていた」
信綱の目が見開かれた。
「どこに?」
盛定は答えなかった。
その時。
外から声が響いた。
「殿!」
柴崎左近だった。
「佐久間軍が本丸へ向かっています!」
信綱は刀を抜いた。
「話は後だ」
盛定が言う。
「信綱」
「はい」
「お前は、私を裏切るのか?」
信綱はしばらく黙った。
そして。
「はい」
盛定の目が細くなる。
「そうか」
「ですが」
信綱は刀を収めた。
「殺すとは言っていません」
盛定が初めて笑った。
「それでいい」
◇
本丸の外。
佐久間軍が迫っていた。
先頭には黒崎玄蕃。
その隣に佐久間景勝。
「玄蕃」
「はい」
「今度こそ、盛定の首を取る」
「……」
「どうした?」
「信綱が動きません」
「何?」
玄蕃は城を見上げた。
「兵が少なすぎる」
景勝が笑う。
「兵が少ないからこそ、我々が勝てる」
「違います」
玄蕃は首を振った。
「城を守る気がない」
「では、何をしている?」
玄蕃はしばらく考えた。
「待っている」
「何を?」
「我々が城へ入るのを」
景勝の顔から笑みが消えた。
「……罠か」
「おそらく」
◇
佐久間軍が城門へ到達した。
「開け!」
兵が叫ぶ。
しかし。
門は開かない。
「破れ!」
丸太が門へ叩きつけられる。
一度。
二度。
三度。
やがて。
門が崩れた。
「突入!」
佐久間兵が一斉に城内へ入る。
その瞬間。
鐘が鳴った。
ゴーン。
一つ。
ゴーン。
二つ。
ゴーン。
三つ。
玄蕃が馬を止めた。
「……何の鐘だ?」
兵が答える。
「分かりません!」
「城内の誰かに合図を送っている」
玄蕃は周囲を見回した。
しかし。
何も起こらない。
「進め!」
景勝が命じる。
兵たちは本丸へ向かった。
その背後で。
城門が閉じた。
「何!」
兵が振り返る。
門の上に。
柴崎左近が立っていた。
「悪いな」
左近が笑った。
「ここから先は、帰り道がない」
◇
「玄蕃殿!」
兵が叫ぶ。
「城門を奪われました!」
玄蕃は目を閉じた。
「……やられた」
「何がです?」
「最初から、我々は城を奪いに来たのではない」
「では?」
「城を奪わせられた」
玄蕃は馬から降りた。
「信綱は、我々に城内へ入らせた」
景勝が怒鳴る。
「馬鹿な!」
「城門を開けたのも」
「……」
「我々を中へ誘導したのも」
玄蕃は本丸を見た。
「すべて奴の策です」
景勝が刀を抜く。
「ならば、信綱を殺せ!」
「それが狙いでしょう」
「何?」
「我々が信綱を殺せば、誰が得をする?」
景勝は黙った。
玄蕃が言った。
「井伊谷家を滅ぼしたい者です」
◇
本丸。
信綱は盛定と向かい合っていた。
「佐久間軍が入りました」
「そうか」
「これで、城は一度空になります」
盛定が尋ねる。
「お前は何をする?」
「城を取ります」
「私から?」
「いいえ」
信綱は答えた。
「佐久間から」
盛定の目が細くなる。
「この城は井伊谷家のものだ」
「今夜までは」
信綱は静かに言った。
「今夜からは、俺のものです」
盛定は何も言わなかった。
やがて。
自分の腰から刀を外した。
そして。
信綱へ差し出した。
「これを持て」
信綱は受け取らない。
「何です?」
「井伊谷家の家宝だ」
「受け取れません」
「なぜ?」
「俺はもう家臣ではない」
盛定は笑った。
「だからこそ渡す」
信綱は刀を受け取った。
その瞬間。
城内から叫び声が上がった。
「火を放て!」
信綱が振り返る。
「始まったか」
◇
城の四方。
一斉に火が上がった。
だが。
城を燃やすためではない。
煙だった。
大量の湿った藁を燃やしている。
城内が白煙に包まれる。
視界が消える。
佐久間兵が混乱する。
「敵はどこだ!」
「分からん!」
「味方を斬るな!」
その混乱の中。
井伊谷の兵たちが動いた。
信綱が事前に選んでいた兵だけだった。
「今だ!」
兵たちは佐久間兵の武器を奪う。
倒す。
縛る。
殺さない。
「殺すな!」
信綱が叫ぶ。
「武器だけ取れ!」
左近が驚く。
「なぜ殺さない?」
「殺せば敵になる」
信綱は答えた。
「生かせば、明日から俺の兵になる」
左近は絶句した。
「お前……」
「何だ?」
「本当に変わったな」
信綱は答えなかった。
ただ。
煙の向こうへ進んだ。
◇
玄蕃は、煙の中で一人になっていた。
兵の声が聞こえる。
だが。
誰が敵で誰が味方なのか分からない。
「信綱!」
玄蕃が叫んだ。
返事はない。
「いるのだろう?」
静寂。
「私を誘い込んだのは、お前だ」
その時。
背後から声がした。
「よく分かりましたね」
玄蕃が振り返る。
信綱だった。
「……やはりお前か」
「はい」
「私を殺すか?」
「いいえ」
「なぜ?」
「あなたを盗みに来た」
玄蕃は笑った。
「まだ言うか」
「何度でも言います」
「私は佐久間家の軍師だ」
「知っています」
「景虎様に忠義がある」
「それも知っています」
「ならば、なぜ私が来ると思う?」
信綱は答えた。
「あなたは、もう佐久間家のために戦っていない」
玄蕃の目が変わった。
「何を根拠に?」
「今日のあなたは、兵を殺さなかった」
「……」
「城を落とすなら、火を放てばよかった」
「だが私は、そうしなかった」
「なぜです?」
玄蕃は答えなかった。
信綱は続けた。
「あなたは人を駒として扱う」
「お前もだ」
「だから分かる」
信綱は玄蕃を見つめた。
「あなたは、景勝を信用していない」
玄蕃の手が刀へ伸びる。
「そこまでだ」
信綱も刀を抜く。
二人は向かい合った。
煙の中。
音のない時間。
先に動いたのは玄蕃だった。
速い。
信綱が刀を受ける。
二度。
三度。
信綱の手が痺れる。
「……強い」
「軍師だからといって、刀が使えないと思うな」
玄蕃が斬り込む。
信綱は下がる。
しかし。
その瞬間。
玄蕃の足元へ、縄が飛んだ。
「!」
玄蕃が倒れる。
信綱の背後から左近が現れた。
「悪いな」
玄蕃が睨む。
「卑怯だぞ」
左近は笑った。
「戦だ」
信綱は玄蕃へ手を差し出した。
「黒崎玄蕃」
「……」
「俺の軍師になれ」
玄蕃はその手を見つめた。
そして。
「断る」
即答だった。
信綱は笑った。
「では、三日考えてください」
「なぜ三日?」
「三日後には、佐久間家がなくなるかもしれない」
玄蕃の顔が変わる。
「何?」
信綱は答えなかった。
◇
夜明け。
井伊谷城。
城門には、新しい旗が掲げられていた。
井伊谷家の旗ではない。
佐久間家の旗でもない。
白地に黒い鳥。
信綱自身が決めた旗だった。
柴崎左近が旗を見上げる。
「これで、本当にいいのか?」
「いい」
「井伊谷家の家臣たちはどうする?」
「残る者は残す」
「殿は?」
信綱は本丸を見る。
そこには盛定がいた。
だが。
すでに城主の衣を脱いでいる。
「殿は?」
信綱は答えなかった。
盛定自身が現れた。
「私は隠居する」
「殿」
「もう、私の時代ではない」
盛定は信綱を見た。
「この城を頼む」
信綱は頭を下げた。
「……承知しました」
盛定は去っていった。
その背中を見ながら。
信綱は呟いた。
「父上」
◇
その頃。
佐久間城。
佐久間景虎は報告を聞いていた。
「井伊谷城を失った?」
「はい」
「誰に?」
伝令は震えながら答えた。
「織部信綱に」
景虎は立ち上がった。
「……たった一晩で?」
「はい」
景虎はしばらく黙っていた。
そして。
笑った。
「面白い」
家臣たちが顔を見合わせる。
「殿?」
「織部信綱」
景虎は遠くの山を見た。
「やはり、あの男はただ者ではない」
だが。
その隣にいた景勝は、笑っていなかった。
「父上」
「何だ?」
「玄蕃がいません」
景虎の表情が変わる。
「何?」
「井伊谷城に残っています」
景勝は静かに言った。
「信綱に捕らえられました」
◇
同じ頃。
井伊谷城の一室。
黒崎玄蕃は、一人で座っていた。
縄は解かれている。
刀も返されていた。
監視もない。
その前に信綱が茶を置く。
「飲みますか?」
玄蕃は茶を見る。
「毒は?」
「入れていません」
「信用できるか?」
「できないでしょう」
信綱は笑った。
「だから面白い」
玄蕃は茶を飲んだ。
「一つ聞こう」
「何です?」
「なぜ私を殺さなかった?」
信綱は答えた。
「あなたが必要だからです」
「それだけか?」
「いいえ」
信綱は窓の外を見た。
「あなたなら、俺が見えていない敵を見つけられる」
玄蕃は黙った。
信綱は続けた。
「俺は城を取った」
「……」
「次は、城を守らなければならない」
「そして、その次は?」
信綱は遠くの山々を見た。
「城を増やす」
玄蕃の目が細くなる。
「その次は?」
「領地を増やす」
「その次は?」
信綱は笑った。
「国を取る」
玄蕃は茶を置いた。
「……本気なのだな」
「最初から」
その瞬間。
部屋の外から兵が走ってきた。
「織部様!」
「何だ?」
「捕らえた佐久間兵の中に、妙な男がおります!」
「妙な男?」
「自分は佐久間の兵ではないと言っています」
信綱は立ち上がった。
「誰だ?」
兵は答えた。
「御影道玄という者を知っている、と」
信綱の顔が変わった。
「……連れてこい」
扉が開く。
そこに現れた男は。
佐久間の兵装を着ていた。
だが。
その顔を見た瞬間。
信綱は息を呑んだ。
男は笑った。
「久しぶりだな」
「……父上?」
信綱の声が震えた。
男は。
織部宗重だった。
第一部・第八話 了




