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大いなる野望 敵の城を買いました。~30石の武士が商人と軍師を味方につけ、謀略で大名になるまで~  作者: 松本 俊介


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第七話 主君の首

『大いなる野望』


第一部・第七話「主君の首」


火の粉が夜空へ舞い上がっていた。


井伊谷城。


その天守から、黒煙が噴き上がっている。


「門が開いている!」


城下から駆け戻った織部信綱は、城門を見て立ち止まった。


おかしい。


城門を守るはずの兵がいない。


いや。


正確には、兵はいる。


だが、その兵たちは誰一人として信綱を見ようとしなかった。


「左近!」


信綱が叫ぶ。


返事がない。


代わりに、城内から一人の兵が走ってきた。


「織部様!」


「何があった?」


「裏切りです!」


「誰が?」


兵は息を切らしながら答えた。


「……分かりません」


信綱の目が細くなる。


「分からない?」


「複数の者が一斉に動きました。兵糧庫が燃え、東門が開けられ、殿の居所にも賊が入りました」


「左近は?」


「柴崎様は本丸へ向かわれました」


信綱は刀を抜いた。


「お葉」


「ここにいる」


「帰れ」


「嫌」


「これは井伊谷家の内乱だ。佐久間の人間がいる場所じゃない」


お葉は信綱を睨んだ。


「今の私は佐久間家の人間じゃない」


「では何だ?」


お葉は答えなかった。


信綱も聞き返さなかった。


「行くぞ」


二人は燃える城へ駆け込んだ。


◇


城内は混乱していた。


兵が兵を斬っている。


味方のはずの者が、別の味方を殺している。


誰が敵なのか。


誰が味方なのか。


もはや誰にも分からない。


信綱は走りながら周囲を見た。


「妙だ」


「何が?」


お葉が尋ねる。


「死者が少ない」


「……え?」


「本気で城を奪うなら、もっと殺す」


信綱は燃える兵糧庫を見た。


「火をつけているだけだ」


「では、目的は?」


「兵糧でも城でもない」


信綱の足が止まった。


「殿だ」


二人は本丸へ向かった。


◇


本丸の廊下。


柴崎左近が、三人の男と斬り合っていた。


「左近!」


信綱が叫ぶ。


「信綱か!」


左近は一人を斬り倒した。


「遅いぞ!」


「敵は?」


「分からん!」


「なら、俺が決める!」


信綱は周囲を見回した。


「全員、殿の居所へ向かっている!」


左近が目を見開く。


「何?」


「こいつらの目的は、城ではない」


信綱は刀を構えた。


「主君の首だ」


◇


井伊谷盛定は、奥の間で血を流していた。


肩に刀傷。


額からも血が流れている。


それでも座ったまま、目の前の男を睨んでいた。


「なぜだ」


男は答えなかった。


「なぜ、私を殺す?」


「殿だからです」


「誰の命令だ?」


男は刀を構えた。


「それは、死んでからお考えください」


その瞬間。


障子が吹き飛んだ。


信綱が飛び込んできた。


「そこまでだ!」


男が振り向く。


「織部……」


「殿から離れろ」


「貴様も死ね!」


男が斬りかかる。


信綱は一歩下がった。


そして。


相手の刀を受け流した。


男が体勢を崩す。


その脇腹へ。


信綱の刀が入った。


男が倒れる。


信綱は刀を拭い、盛定へ駆け寄った。


「殿!」


「信綱……」


「動けますか?」


「私はいい」


盛定は信綱の腕を掴んだ。


「城を出ろ」


「何?」


「今すぐだ」


「なぜです?」


盛定は苦しそうに言った。


「私が死ねば、井伊谷家は終わる」


「ならば守ります」


「違う」


盛定は首を振った。


「私が死ねば、お前は自由になる」


信綱の表情が変わる。


「……何を言っている?」


「お前は、もう分かっているのだろう」


盛定は血に濡れた手で、信綱の胸を押した。


「この家は、お前の器では小さすぎる」


沈黙。


「殿」


「お前は、この城を欲しがっている」


信綱は答えなかった。


「違うか?」


「……違いません」


盛定は笑った。


「ならば、私を守る必要はない」


「なぜ?」


「私がいる限り、お前は井伊谷家の家臣だからだ」


その言葉が、信綱の胸に突き刺さった。


◇


外から怒号が聞こえる。


「本丸を取れ!」


「殿を殺せ!」


「門を閉じろ!」


左近が部屋へ入ってきた。


「信綱!」


「どうした?」


「東門が破られた!」


「敵は?」


「佐久間の旗が見えた!」


信綱の目が鋭くなる。


「……佐久間だと?」


左近が頷く。


「兵数は?」


「五百以上」


信綱は地図を広げた。


井伊谷城の兵は三百。


しかも内乱で分断されている。


まともに戦えば勝てない。


だが。


信綱は地図を見つめた。


「……違う」


「何が?」


「佐久間は攻めてきていない」


左近が首を傾げる。


「どういうことだ?」


「本当に城を攻めるなら、兵を分けない」


信綱は城門を指した。


「東門から五百」


次に。


「西側にはほとんどいない」


「だから?」


「逃げ道を残している」


左近が目を見開いた。


「……殿を逃がすため?」


信綱は盛定を見た。


盛定は黙っていた。


信綱の頭の中で、何かがつながった。


景虎との会談。


玄蕃。


お葉。


三つの家紋。


父・宗重。


そして今夜の襲撃。


「誰かが、殿を殺そうとしている」


信綱は呟いた。


「そして誰かが、殿を逃がそうとしている」


左近が言った。


「誰と誰だ?」


信綱は答えた。


「分からない」


◇


その頃。


佐久間軍の先頭に、黒崎玄蕃がいた。


隣には佐久間景勝。


「玄蕃」


「はい」


「井伊谷を落とせ」


「承知しております」


「盛定の首を取れば、父上は満足する」


玄蕃は黙っていた。


景勝が笑う。


「どうした?」


「一つだけ確認したいことがあります」


「何だ?」


「殿は、本当に盛定の首を望んでいるのですか?」


景勝の笑顔が消えた。


「どういう意味だ?」


「私の知る景虎様なら、敵の首より、その家臣を取り込むことを優先します」


「……」


「まして織部信綱を」


景勝は玄蕃を睨んだ。


「お前は、あの男を買いかぶりすぎている」


「そうでしょうか」


「たかが三十石の男だ」


玄蕃は静かに答えた。


「三十石の男が、五百人の兵より恐ろしいことがあります」


景勝は何も言わなかった。


「どんな時だ?」


「五百人の兵を動かす方法を知っている時です」


◇


井伊谷城。


信綱は盛定の前に座っていた。


「殿」


「何だ」


「一つ、お願いがあります」


「言ってみろ」


「今夜、殿には死んでいただきます」


左近が驚く。


「信綱!」


盛定も目を見開いた。


「何を言っている?」


信綱は冷静だった。


「殿が生きている限り、敵はこの城を攻め続ける」


「だから?」


「ならば、殿が死んだと思わせればいい」


左近が息を呑む。


「……偽の首か」


「そうだ」


信綱は頷いた。


「敵に首を渡す」


盛定が信綱を見る。


「私の偽首を?」


「はい」


「誰が作る?」


信綱は左近を見た。


「左近」


「俺が?」


「お前は殿と体格が近い」


「まさか……」


「殿の着物を着てもらう」


「俺に殿の身代わりをしろというのか!」


「そうだ」


左近は絶句した。


盛定はしばらく黙っていた。


そして。


笑った。


「信綱」


「はい」


「お前は本当に、とんでもない男になったな」


「褒め言葉として受け取ります」


◇


深夜。


城門が開いた。


白旗を掲げた兵が出ていく。


その中央に、一人の男がいた。


井伊谷盛定の衣装。


頭には兜。


遠目には、まさしく城主だった。


「殿だ!」


「井伊谷盛定が逃げるぞ!」


佐久間軍が動く。


矢が飛ぶ。


鉄砲が鳴る。


身代わりの左近が倒れた。


「殿を討ち取ったぞ!」


佐久間兵が叫ぶ。


その瞬間。


玄蕃は馬上から戦場を見つめた。


「……おかしい」


景勝が尋ねる。


「何が?」


「簡単すぎる」


「首を取った」


「違います」


玄蕃は目を細めた。


「織部信綱が、こんな簡単な策を使うはずがない」


景勝が振り返る。


「では、殿はどこだ?」


玄蕃は答えなかった。


その時。


佐久間軍の背後から鐘が鳴った。


一つ。


二つ。


三つ。


玄蕃の顔色が変わる。


「しまった」


「何だ?」


「我々は城へ誘い込まれた」


◇


同じ頃。


井伊谷城。


信綱は盛定を連れて、地下道を歩いていた。


「この道を知っていたのか?」


盛定が尋ねる。


「父から聞きました」


信綱の足が止まった。


「……父が?」


「そうだ」


盛定は答えた。


「宗重は、この地下道を使って何度も城を出入りした」


「何のために?」


盛定は黙った。


「殿」


「……」


「二十年前の密約と関係がありますね?」


盛定は答えなかった。


信綱は振り返った。


「もう逃げられません」


「何がだ?」


「真実からです」


盛定はしばらく黙ったあと。


静かに言った。


「では、話そう」


「何を?」


「お前の父が守ったものを」


その瞬間。


地下道の奥から声がした。


「その必要はない」


信綱と盛定が振り向く。


暗闇の中。


一人の男が立っていた。


御影道玄。


「……お前は」


信綱が刀を抜く。


道玄は笑った。


「織部信綱」


「父を知っているな」


「知っている」


「何をした?」


道玄は答えた。


「お前の父を死なせた」


信綱の目が殺気に染まる。


だが。


道玄は続けた。


「だが、殺したのは私ではない」


「では誰だ!」


道玄は盛定を見た。


そして。


「この男だ」


地下道に沈黙が落ちた。


信綱は盛定を見る。


「……殿?」


盛定は目を閉じた。


「そうだ」


信綱の手から、刀がわずかに下がった。


道玄は静かに言った。


「織部宗重を死なせる命令を出したのは、井伊谷盛定だ」


「なぜ……」


「それを知りたければ」


道玄は闇の奥を指差した。


「お前自身で、この国を奪え」


信綱の顔が険しくなる。


「どういう意味だ?」


道玄は笑った。


「殿様になれ」


「そして」


その目が鋭く光る。


「自分の父を殺した男の首を、自分で取れ」


信綱は盛定を見つめた。


盛定は何も言わない。


ただ。


静かに頭を下げた。


その姿を見て。


信綱の中で、何かが壊れた。


忠義。


恩義。


父への思い。


そして。


これまで信じてきたもの。


すべてが崩れ落ちていく。


その一方。


城外では、黒崎玄蕃が異変に気づいていた。


「景勝様」


「何だ?」


「信綱の狙いが分かりました」


「何だ?」


玄蕃は燃える井伊谷城を見上げた。


「奴は、城を守るつもりではない」


「では?」


「主君を捨てるつもりです」


そして。


玄蕃は初めて、恐怖に近い表情を見せた。


「織部信綱は今夜、家臣をやめる」


「そして……」


炎の向こう。


井伊谷城の本丸で、一人の若者が立っていた。


「殿様になる」


第一部・第七話 了

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