第六話 軍師を盗む
『大いなる野望』
第一部・第六話「軍師を盗む」
「黒崎玄蕃を、こちらへ引き抜く」
織部信綱がそう言った瞬間。
柴崎左近は、飲んでいた茶を吹き出した。
「……何を言っている?」
「だから、黒崎玄蕃を引き抜く」
「敵の軍師だぞ」
「知っている」
「佐久間家の中枢だぞ」
「それも知っている」
「なら、どうやって?」
信綱は机の上に広げた地図を指で叩いた。
「殺すより、盗む」
左近は眉をひそめた。
「人間を盗むな」
「人間だから盗める」
信綱は笑った。
「刀や米俵なら、持って逃げれば盗める。だが、人間は違う」
「何が違う?」
「本人に、自分から来てもらう」
左近はしばらく信綱を見つめた。
「……お前、本当に殿様になるつもりか?」
「なる」
即答だった。
「なら、まず軍師が必要だ」
「お前自身が軍師ではないのか?」
「俺は軍師じゃない」
信綱は地図から顔を上げた。
「俺は、軍師を使う人間になる」
左近は何も言えなかった。
◇
その頃。
佐久間城では、黒崎玄蕃が一人で書状を読んでいた。
兵糧。
兵数。
鉄砲。
馬。
周辺諸国の動き。
すべての情報を頭の中で組み合わせる。
そして、一枚の紙に結論を書いた。
「織部信綱は、佐久間家を攻めない」
部屋にいた佐久間景虎が尋ねた。
「では、何をする?」
「我らに戦わせます」
「……何?」
玄蕃は地図を広げた。
「信綱は我らの兵力を直接削るつもりはない。周囲の小領主を動かし、商人を動かし、兵を出す前に佐久間家の足を止めようとしている」
「では、信綱を討てばよい」
「それでは遅い」
玄蕃は首を振った。
「信綱は一人ではありません」
「今井宗兵衛か」
「それだけではない」
玄蕃は地図の上に駒を置いた。
「小田切」
次に。
「井伊谷」
そして。
「さらに、まだ見えていない誰か」
景虎が眉を寄せる。
「誰だ?」
「分かりません」
玄蕃は珍しく言葉を濁した。
「だから恐ろしい」
そのとき。
部屋へ伝令が入ってきた。
「申し上げます!」
「何だ」
「今井宗兵衛が、佐久間家との取引を拒否しました」
景虎が立ち上がる。
「何だと?」
「米、塩、油、鉄。すべてです」
玄蕃は目を閉じた。
「……始まったな」
「何がだ?」
玄蕃は答えた。
「織部信綱が、佐久間家を囲い始めたのです」
◇
三日後。
信綱のもとへ、一通の書状が届いた。
差出人。
黒崎玄蕃。
内容は短かった。
「一度、話したい」
信綱は笑った。
「来たか」
左近が書状を覗き込む。
「罠じゃないのか?」
「罠だろう」
「なら、行くな」
「だから行く」
「なぜだ!」
信綱は書状を折った。
「罠を仕掛ける男は、罠を仕掛けられる男を理解できる」
「……?」
「玄蕃は俺を知りたい」
信綱は立ち上がった。
「俺も玄蕃を知りたい」
◇
二人が会ったのは、国境近くの古い寺だった。
寺には誰もいない。
僧もいない。
信綱が先に着いていた。
しばらくして、玄蕃が一人で入ってくる。
二人は数間の距離を置いて向かい合った。
「織部信綱」
「黒崎玄蕃」
互いに名を呼んだだけだった。
先に笑ったのは信綱だった。
「俺を殺す気ですか?」
「そのつもりなら、ここへ来る必要はない」
「なるほど」
「お前も同じだろう」
「ええ」
玄蕃は信綱を観察した。
若い。
身なりも質素。
だが目だけが異様に冷静だった。
「お前は何を望んでいる?」
「城」
「その先は?」
「領地」
「その先は?」
「家臣」
「その先は?」
信綱は一瞬だけ黙った。
そして。
「国」
玄蕃の目が動いた。
「国?」
「いつかは」
「天下か?」
「さあ」
信綱は笑った。
「天下を取ると言ったら、あなたは笑いますか?」
「笑わない」
「なぜ?」
「私も同じことを考えたことがある」
初めて。
信綱の顔から笑みが消えた。
「……面白い」
玄蕃は続けた。
「だが、お前には足りないものがある」
「何です?」
「軍事力」
「だから、あなたが欲しい」
沈黙。
玄蕃は信綱を睨んだ。
「私を?」
「ええ」
「敵の軍師を、そのまま引き抜くつもりか」
「そうです」
「馬鹿な」
「そうでしょうか」
信綱は懐から一枚の紙を取り出した。
そこには、佐久間家の兵站表が書かれていた。
玄蕃の顔色が変わる。
「……これは?」
「佐久間家の今年の米の消費量」
「どこから手に入れた?」
「商人」
「違う」
玄蕃は紙を見つめる。
「これは佐久間家の内部資料だ」
「そうでしょうね」
「誰が渡した?」
「言えません」
玄蕃の目が鋭くなる。
「お葉か?」
信綱は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
玄蕃は立ち上がった。
「お葉を巻き込んだのか!」
「彼女は自分で動いた」
「同じことだ!」
玄蕃の声が寺に響いた。
信綱は静かに言った。
「あなたは、お葉を心配している」
玄蕃は黙った。
「なぜです?」
「……」
「ただの間者なら、失敗すれば切り捨てるでしょう」
玄蕃は答えない。
信綱は続けた。
「あなたは人を駒として扱う」
「お前もだ」
「ええ」
「なら、なぜお葉だけ違う?」
信綱はしばらく考えた。
「俺にも分からない」
玄蕃が初めて笑った。
「なるほど」
その笑みは、どこか寂しかった。
「そこがお前の弱点だ」
「そうかもしれません」
信綱は紙をしまった。
「だから、あなたが必要なんです」
◇
その夜。
佐久間城。
お葉は玄蕃の部屋へ呼び出された。
「入れ」
「失礼します」
玄蕃は背を向けたままだった。
「信綱と会ったな」
お葉は黙った。
「何を話した?」
「……何も」
「嘘をつくな」
お葉は顔を上げた。
「軍師様も、嘘をついています」
玄蕃が振り返る。
「何?」
「信綱を殺すつもりがないでしょう」
玄蕃は答えなかった。
「あなたは、あの男を試している」
「……」
「私と同じように」
玄蕃の表情が変わった。
「お葉」
「はい」
「お前は、誰のために動いている?」
お葉は答えなかった。
その沈黙を見て、玄蕃はすべてを理解した。
「そうか」
「何がです?」
「もう、お前は佐久間家の間者ではない」
お葉の手が止まった。
「……私は佐久間家のために」
「なら、なぜ信綱を庇った?」
「任務です」
「なぜ命を張った?」
「任務です」
「なぜ今、信綱の名を呼ぶと顔色が変わる?」
お葉は唇を噛んだ。
玄蕃は静かに言った。
「人は、嘘をつく」
そして。
「だが、自分自身には嘘をつけない」
◇
翌朝。
信綱のもとへ、また一通の書状が届いた。
今度は差出人がない。
「黒崎玄蕃を引き抜け」
そこまでは、以前の信綱なら喜んだだろう。
しかし。
その下に書かれていた一文を見て、信綱の表情が変わった。
「ただし、玄蕃を信用するな」
信綱は紙を裏返した。
何もない。
窓の外を見る。
あの木片を置く謎の男。
父・宗重の死。
三つ目の家紋。
御影道玄。
すべてが一本につながっている。
だが。
一つだけ分からない。
なぜ、玄蕃なのか。
◇
その夜。
佐久間景虎の寝所。
景虎は一人の男と話していた。
「玄蕃が怪しい?」
「はい」
「何を根拠に?」
男は答えた。
「最近、玄蕃は織部信綱と接触しております」
景虎は黙った。
「玄蕃を疑うのか?」
「疑うべきです」
「しかし、玄蕃は長年、私に仕えている」
「だからこそ危険なのです」
景虎は男を睨んだ。
「誰の差し金だ?」
男は頭を下げた。
「……景勝様です」
景虎の顔が険しくなる。
「息子が?」
その頃。
別の部屋では、景勝が一人で書状を燃やしていた。
その書状には、こう書かれていた。
――黒崎玄蕃を失えば、父上の力は半分になる。
そして。
――織部信綱を利用せよ。
景勝は炎を見つめた。
「父上」
小さく呟く。
「あなたは強すぎる」
炎の中で紙が崩れる。
「だから、私はあなたを倒す」
◇
翌日。
信綱は城下へ出た。
すると、道の向こうからお葉が歩いてきた。
肩の傷はまだ癒えていない。
「信綱」
「どうした?」
「あなたに伝えたいことがある」
「何です?」
お葉は周囲を確認した。
「玄蕃が、あなたを裏切るかもしれない」
信綱は驚かなかった。
「知っている」
「……え?」
「俺を裏切る可能性のない人間などいない」
お葉は信綱を見る。
「それでも、引き抜くの?」
「もちろん」
「どうして?」
信綱は笑った。
「裏切る可能性があるから面白い」
「あなた、本当に馬鹿ね」
「よく言われる」
お葉はため息をついた。
そして、小さな声で言った。
「……死なないで」
信綱は何も答えなかった。
ただ。
一瞬だけ、お葉の目を見つめた。
その瞬間。
城下の鐘が鳴った。
ゴーン。
一度。
二度。
三度。
非常の鐘だった。
信綱とお葉が同時に振り返る。
井伊谷城の方向から煙が上がっている。
「城が……」
お葉が呟いた。
信綱の顔から血の気が引いた。
「……何だ?」
煙は一本ではなかった。
二本。
三本。
城内の複数箇所から黒煙が上がっている。
「火事じゃない」
信綱が呟く。
「内応だ」
誰かが城の中から、門を開けた。
誰かが兵糧庫へ火を放った。
そして。
誰かが主君・井伊谷盛定を襲った。
信綱は走り出した。
お葉も続く。
「信綱!」
「来るな!」
「嫌!」
「敵だぞ!」
お葉は叫んだ。
「それでも行く!」
二人は炎へ向かって走った。
その頃。
井伊谷城の奥では。
血を流した盛定が、誰かを見上げていた。
「……お前だったのか」
その人物は答えなかった。
ただ。
盛定の前に一枚の紙を置いた。
そこには、三つの家紋が描かれていた。
そして、その下に一つの名前。
――織部宗重。
盛定の顔が凍りつく。
「まさか……」
闇の中から声がした。
「二十年前の約束を、終わらせる」
炎が天井を舐める。
その夜。
井伊谷城は、味方の手によって燃え始めた。
そして信綱の「大いなる野望」は。
初めて。
自分の城を失うところから始まろうとしていた。
第一部・第六話 了




