↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大いなる野望 敵の城を買いました。~30石の武士が商人と軍師を味方につけ、謀略で大名になるまで~  作者: 松本 俊介


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/36

第五話 女間者 お葉


第一部・第五話「女間者・お葉」


夜の雨が、佐久間城の瓦を叩いていた。


城内の灯りは少ない。


戦支度のため兵が増えているというのに、妙に静かだった。


その静けさの中を、一人の女が歩いていた。


名は、お葉。


城下の茶屋では、愛想のいい茶屋娘。


しかし、その正体は佐久間家に仕える女間者だった。


年は二十ほど。


人の懐へ入り込むことにかけては、男の武士よりも優れている。


客の話を聞き、酒を注ぎ、笑いながら秘密を拾う。


そして必要とあれば、人の命さえ奪う。


そんな女だった。


だが。


最近のお葉には、一つだけ計算できないものがあった。


織部信綱。


「……あの男は、何なの」


誰もいない廊下で、お葉は小さく呟いた。


普通の武士ではない。


腕力も、身分も、兵力も大したことはない。


なのに、人が動く。


商人が動く。


敵の家臣まで動く。


そして何より。


自分まで動かされている。


「殺せ」


そう命じられた。


最初に受けた命令は、それだけだった。


だが、すぐには殺すな。


誰と接触しているのか探れ。


それが追加された。


お葉は信綱を監視した。


商人の今井宗兵衛。


井伊谷家の柴崎左近。


そして、敵であるはずの小田切家。


信綱は人を動かしていた。


剣ではない。


金と情報で。


お葉は、そこに恐ろしさを感じていた。


戦場で刀を振るう男なら、まだ分かりやすい。


だが信綱は違う。


刀を抜く前に、相手の刀を抜けなくする。


それが信綱という男だった。


そして今夜。


お葉には新しい命令が届いていた。


「織部信綱が佐久間景虎様と会う」


文には、そう書かれていた。


さらに一行。


「会談の場所を確認せよ」


お葉は文を火鉢へ入れた。


紙は炎に包まれ、黒く縮んでいく。


「……罠ね」


お葉はそう呟いた。


信綱を景虎と会わせる。


それだけなら問題はない。


しかし、信綱が敵城へ入れば、帰ってこられる保証はない。


そして、佐久間家の中にも。


信綱を殺したい者はいる。


いや。


景虎自身が信綱を欲しがっているとしても、家臣たちが同じ考えとは限らない。


お葉は廊下の奥を見た。


そこに一人の男が立っていた。


黒崎玄蕃。


佐久間家の軍師。


「お葉」


低い声だった。


「はい」


「織部信綱と接触したな」


お葉の心臓が、一つ大きく鳴った。


だが、顔には出さない。


「茶屋の客として、何度か」


「それだけか?」


「それ以上、何かありますか?」


玄蕃は笑わなかった。


ただ、お葉をじっと見た。


「女は嘘が上手い」


「男は嘘が下手ですか?」


「いや」


玄蕃は静かに答えた。


「男は自分が嘘をついていることに気づかない」


お葉は黙った。


玄蕃は続けた。


「信綱は明日の夕刻、城外の廃寺へ向かう」


「……はい」


「お前も行け」


「何を?」


「見届けろ」


玄蕃は一歩近づいた。


「そして、もし信綱が何か妙な動きをしたら」


懐から短刀を取り出した。


「殺せ」


お葉は短刀を見つめた。


「承知しました」


そう答えた。


だが。


心の中では別の言葉が浮かんでいた。


殺したくない。


なぜなのか。


お葉自身にも分からなかった。


◇


翌日の夕刻。


山道に霧が降りていた。


信綱は一人で歩いていた。


腰には刀。


だが、供を連れていない。


柴崎左近には何も告げていなかった。


井伊谷盛定にも。


ただ一枚の紙だけを残した。


「佐久間景虎と会う」


それだけだった。


廃寺に近づいたところで、信綱は足を止めた。


「出てこい」


返事はない。


「昨日から三度、同じ鳥が飛んでいる」


木の上で、鳥が鳴いた。


「俺を見ている人間がいる」


信綱は笑った。


「お葉だろう?」


霧の向こうから女が現れた。


「……どうして分かったの?」


「足音が軽い」


「それだけ?」


「いや」


信綱はお葉を見た。


「お前は俺を殺せる距離まで近づいているのに、殺気がない」


お葉の目が細くなった。


「殺気がないから、殺せないと思っているの?」


「逆だ」


信綱は答えた。


「殺せる人間ほど、殺す前には殺気を消す」


一瞬。


二人の間に沈黙が落ちた。


「あなた、本当に嫌な人ね」


「よく言われる」


「褒めてないわ」


「分かっている」


お葉はため息をついた。


そして声を低くした。


「ここで景虎様と会うのは危険よ」


「知っている」


「違う」


お葉は信綱を睨んだ。


「景虎様が危険なんじゃない」


信綱の表情が変わった。


「……誰だ?」


「分からない」


「分からない?」


「誰かが、あなたと景虎様を会わせようとしている」


信綱は黙った。


お葉は続けた。


「景虎様はあなたを欲しがっている。でも、あなたを殺したい者もいる」


「誰だ?」


「それを調べているところ」


「つまり、お前も分からないのか」


「ええ」


お葉は信綱を見つめた。


「だから、あなたを殺す前に確認したい」


「何を?」


「あなたが何を知っているのか」


信綱は少し笑った。


「父のことか?」


お葉の顔から表情が消えた。


「……あなたのお父上?」


「宗重のことだ」


その瞬間。


お葉は、初めて動揺した。


ほんのわずかな変化だった。


だが信綱は見逃さない。


「知っているな」


「知らない」


「嘘だ」


「知らないわ」


お葉は一歩下がった。


「ただ……」


「ただ?」


「佐久間家には、古い記録がある」


信綱の目が鋭くなる。


「何の記録だ?」


「二十年前の密約」


「誰と誰の?」


お葉は答えなかった。


代わりに懐から小さな紙片を取り出した。


「これだけ」


信綱が受け取る。


そこには、三つの家紋が描かれていた。


井伊谷。


佐久間。


そして。


見たことのない家紋。


「これは?」


「分からない」


「嘘だ」


「本当に分からない」


お葉は静かに言った。


「でも、この家紋があなたのお父上の死と関係している可能性がある」


信綱は紙を握りしめた。


父の死。


井伊谷家。


佐久間家。


そして第三の家。


全てが一本の糸でつながろうとしていた。


「お葉」


「何?」


「なぜ俺に教える?」


お葉は答えられなかった。


しばらくして、ようやく口を開く。


「……あなたが死ぬと、困るから」


「なぜ?」


「分からない」


信綱は少し笑った。


「そればかりだな」


「うるさい」


そのときだった。


遠くで枝が折れた。


二人は同時に振り向いた。


「誰かいる」


信綱が刀へ手を伸ばす。


お葉が信綱の腕を掴んだ。


「待って」


「何だ?」


「一人じゃない」


霧の向こう。


複数の足音が近づいてくる。


信綱は周囲を見回した。


「俺を殺しに来たか」


「そうかもしれない」


「お前の仲間か?」


お葉は首を横に振った。


「違う」


その瞬間。


矢が飛んできた。


信綱の横をかすめ、木へ突き刺さる。


「伏せて!」


お葉が信綱を押し倒した。


続けて二本。


三本。


矢が飛ぶ。


信綱は地面を転がり、木陰へ入った。


「お葉!」


返事がない。


「お葉!」


信綱が振り返る。


お葉が地面に倒れていた。


肩に矢が刺さっている。


「お葉!」


信綱が駆け寄る。


「来ないで!」


お葉は短刀を抜いた。


だが、その刃は敵ではなく。


自分の肩に刺さった矢へ向けられていた。


「抜くぞ」


「駄目」


「なぜ?」


「血が出る」


「当たり前だ」


「違う」


お葉は苦しそうに笑った。


「あなたの目の前で弱っているところを見せたくない」


信綱は一瞬、言葉を失った。


その隙に、霧の向こうから男たちが現れた。


黒装束。


佐久間家の兵ではない。


信綱が刀を抜く。


「お葉」


「何?」


「立てるか?」


「たぶん」


「なら走るぞ」


「どこへ?」


「敵が少ない方」


お葉が笑った。


「そんな場所、あるの?」


「作る」


信綱はお葉の腕を掴み、山道を走り始めた。


◇


二人が消えたあと。


霧の中に一人の男が残った。


黒崎玄蕃だった。


彼は地面に落ちた紙片を拾った。


三つの家紋。


そのうち一つを見て、玄蕃の顔が初めて曇った。


「……やはり生きていたか」


背後から声がした。


「玄蕃殿」


若い男だった。


佐久間景勝。


景虎の嫡男である。


「お葉はどうした?」


「逃げました」


「信綱と?」


「はい」


景勝はしばらく黙っていた。


「殺せなかったのか」


「殺さなかったのでしょう」


「なぜ?」


玄蕃は答えなかった。


景勝が紙片を見る。


「それは?」


「古い借りです」


「誰の?」


玄蕃は三つ目の家紋を指でなぞった。


「二十年前、消えた家のものです」


景勝の顔色が変わる。


「まさか……」


「そうです」


玄蕃は霧の向こうを見た。


「織部宗重は、あの家を守ろうとして死んだ」


「では信綱は……」


「知らないでしょう」


玄蕃は静かに笑った。


「だからこそ、危険なのです」


◇


夜。


井伊谷城。


信綱は自室に戻っていた。


肩には、お葉が受けた傷を手当てした痕跡が残っている。


お葉は途中で姿を消した。


「また会う」


そう言って。


信綱は机の上に紙片を置いた。


三つの家紋。


そして、その横に父の箱から出てきた古い書状を並べる。


二つを見比べる。


一致した。


父の書状に押されていた小さな印。


それと同じ家紋だった。


「……父上」


信綱は呟いた。


「あなたは、いったい何を守った?」


そのとき。


窓の外から音がした。


コトン。


木片が落ちた。


信綱が拾い上げる。


そこには、また文字が刻まれていた。


――「殿様になる気はあるか」


信綱は眉を寄せた。


今までとは違う。


「城を取れ」でもない。


「父を殺したのは敵ではない」でもない。


殿様になる気はあるか。


信綱は木片を握った。


そして。


初めて答えた。


「ある」


誰もいない部屋で、信綱は笑った。


「あるとも」


窓の外。


闇の中から、誰かの声がした。


「ならば、次は人を殺せ」


信綱の笑みが消えた。


「殿様になるには、人を救うだけでは足りぬ」


声は闇へ溶けた。


「人を捨てる覚悟がいる」


信綱は黙って夜空を見上げた。


その頃。


城下の茶屋では。


お葉が一人、傷ついた肩を押さえていた。


その手には。


信綱から盗んだ一枚の書状が握られている。


そこには、こう書かれていた。


――「織部宗重の死について、真相を知る者は一人だけ」


お葉はその名前を見た。


「……御影、道玄」


知らない名前だった。


だが。


佐久間家の古い記録には、その名が何度も出ている。


二十年前。


十年前。


そして現在。


お葉は書状を握りしめた。


「あなたは……何者なの?」


その問いに答える者は、まだいなかった。


ただ。


遠い山の中で。


一人の老人が月を見上げていた。


御影道玄。


その手には、信綱が持っているものと同じ木片があった。


老人は静かに笑った。


「ようやく始まったか」


そして木片を火へ投げ入れた。


炎の中で、文字が消える。


――「大いなる野望」


第一部・第五話 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。