↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大いなる野望 敵の城を買いました。~30石の武士が商人と軍師を味方につけ、謀略で大名になるまで~  作者: 松本 俊介


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/36

第四話 二人の殿様

# 『大いなる野望』


## 第一部 下剋上編


### 第四話 二人の殿様


「織部殿の父上について、話したい」


その言葉を聞いた瞬間、信綱の胸の奥で、十年間閉じ込めていた何かが動いた。


父。織部宗重。十年前、主君・井伊谷盛定の命によって切腹した男。罪状は、敵方との内通。信綱が幼い頃から聞かされてきた話だった。だが、昨夜見つけた密書は、その話を根底から覆していた。


> ――約定は必ず守る。

> ――あの件については、決して口外するな。


もし父が本当に敵へ通じていたのなら、なぜ、井伊谷家の家紋が押された密書を持っていたのか。


---


信綱は城へ向かった。夜の井伊谷城は静かだった。だが、その静けさが妙に不気味だった。城門をくぐると、見張りの兵が一斉に信綱を見る。昨日までとは違う。まるで、何かを知っている男を見る目。


信綱は気にせず、主君の部屋へ向かった。襖を開ける。井伊谷盛定が一人で座っていた。酒もない。家臣もいない。ただ一枚の古い書状を前に置いている。


「来たか」


「父の話をされるとか」


「そうだ。座れ」


信綱は向かいに座った。盛定はしばらく黙っていた。やがて、


「宗重は、裏切り者ではなかった」


と言った。信綱の指がわずかに動く。


「では、なぜ父を殺したのです?」


盛定は目を伏せた。


「殺したのではない」


「切腹を命じたのは殿でしょう」


「そうだ」


「ならば同じことです」


盛定は反論しなかった。


「宗重は、ある秘密を知っていた」


「何の秘密です?」


「この国の大名たちが、密かに結んでいた盟約だ」


信綱は眉を寄せた。


「盟約?」


「佐久間家だけではない」


盛定は一枚の紙を差し出した。そこには複数の家紋が並んでいた。井伊谷。佐久間。そして、信綱が知らないいくつかの家紋。


「敵同士の大名が?」


「敵だからこそだ」


盛定は言った。


「表では戦い、裏では手を結ぶ」


信綱は紙を見つめた。戦国では珍しくない。だが、問題はその目的だった。


「何のために?」


「ある男を消すためだ」


「誰を?」


盛定は答えなかった。その代わり、


「宗重は、その盟約を知った。そして、私に知らせた」


「それで父は?」


「宗重は、盟約を破ろうとした」


信綱の目が鋭くなる。


「なぜ?」


「分からぬ」


「殿にも?」


「最後まで分からなかった」


盛定は苦しそうに言った。


「だから、宗重を守るために、罪を着せた」


信綱は息を呑んだ。


「……守る?」


「宗重を殺したことにすれば、奴らは宗重を追わない」


「しかし父は死んだ」


「そうだ」


盛定は目を閉じた。


「宗重は、自ら切腹を選んだ」


信綱は拳を握った。


「それを……十年間、私に黙っていたのですか」


「お前まで殺されるからだ」


部屋が静まり返った。盛定は続ける。


「宗重は最後に言った——息子には、何も知らせるな、と」


信綱の胸が痛んだ。父は自分を守るために死んだ。そう思えば思うほど、誰が父をそこまで追い詰めたのかという疑問が強くなる。


「殿」


信綱は顔を上げた。


「父が守ろうとしたものは何です?」


盛定は答えなかった。その代わり、こう言った。


「お前自身だ」


---


同じ頃、佐久間城。景虎は怒っていた。


「長谷川が逃げただと?」


「はい」


「どこへ?」


「井伊谷へ向かったとの噂が」


景虎の顔が赤くなる。


「裏切り者め!」


その横で、黒崎玄蕃は静かに地図を見ていた。


「殿。これは織部信綱の仕業でしょう」


「証拠は?」


「ありません。しかし——長谷川は、裏切る理由がなかった。ところが、裏切った」


玄蕃は地図を指した。


「誰かに裏切る理由を与えられたのです。そして、我らが最も疑うべき人物は」


玄蕃はゆっくり言った。


「織部信綱です」


景虎はしばらく考えた。


「ならば、殺すか?」


「まだ早い」


「なぜ?」


「奴が何を狙っているのか、分かりません」


玄蕃は笑った。


「分からない敵ほど、面白いものはありません」


---


一方、井伊谷城。信綱は廊下を歩いていた。その背後から声がした。


「信綱」


振り返る。柴崎左近だった。


「殿と何を話した?」


「昔話だ」


「嘘だな」


信綱は笑った。


「なぜ?」


「殿の顔を見れば分かる」


左近は信綱を睨む。


「何を聞いた?」


信綱は答えなかった。左近はため息をついた。


「お前は、何でも一人で抱える」


「そのほうがいいこともある」


「戦場ならな」


左近は言った。


「だが、城の中では違う」


「どう違う?」


「秘密を持っている者は、必ず疑われる」


信綱は足を止めた。


「左近。もし俺が、この家を変えようとしたら?」


左近は驚いた。


「どういう意味だ?」


「もっと強い国にする」


「それは殿の役目だ」


「殿だけでは無理だ」


左近はしばらく黙った。そして、


「お前は何を考えている?」


と尋ねた。信綱は笑った。


「まだ分からない」


「嘘だな」


「……そうかもしれない」


---


その日の夕方、信綱のもとへ、また密書が届いた。送り主は、お葉。


> ――佐久間家で異変。

> ――景虎様が井伊谷への攻撃を決定。

> ――出陣は十日後。


信綱は眉をひそめた。十日。兵糧は足りないはずだ。長谷川の離反も起きた。それでも攻めてくる。つまり、佐久間家には別の兵糧供給源がある。


信綱は地図を広げた。


「北ではない。海でもない。ならば……」


指が止まる。佐久間領の西、山の向こう。そこには、小さな国人領主の領地がある。小田切家。信綱は思い出した。小田切家は中立だった。どちらにも属していない。もし佐久間がそこから兵糧を得ているなら——


「なるほど」


信綱は笑った。敵を倒す必要はない。敵を支えている者を味方にすればいい。


信綱は一枚の書状を書いた。宛先は小田切家当主。内容は一言。


> ――佐久間家は、あなた方を信用していない。

> ――来月には領地を奪うつもりだ。


もちろん、証拠はない。だが、証拠など必要ない。戦国では、疑いさえあれば十分だった。


---


翌日、小田切家から返事が届いた。


> ――お会いしたい。


信綱は一人で山を越えた。小田切家の屋敷。そこで待っていたのは、五十歳ほどの男。小田切重政。


「織部殿」


「小田切殿」


「佐久間が、我らの領地を狙っているという話」


「はい」


「証拠は?」


信綱は正直に答えた。


「ありません」


重政の顔が険しくなる。


「では、なぜ私に知らせた?」


信綱は笑った。


「もし本当に佐久間が攻めてきたとき、私はこう言われたくないからです——なぜ教えてくれなかった、と」


重政は信綱をじっと見た。


「お前は変わった男だ」


「よく言われます」


「何が欲しい?」


「何も。小田切殿が、佐久間に兵糧を売らなければ、それでいい」


重政は笑った。


「それだけか?」


「はい」


「ならば、売らぬ」


信綱は頭を下げた。


「ありがとうございます」


しかし帰り際、重政が呼び止めた。


「織部殿。一つだけ忠告しておこう」


「何でしょう?」


「お前のような男は、敵より味方に恐れられる」


信綱は笑わなかった。その言葉は、妙に胸に残った。


---


十日後、佐久間軍が動いた。しかし、兵糧が届かない。米がない。塩もない。馬も足りない。


景虎は怒鳴った。


「小田切はどうした!」


家臣が答える。


「取引を拒否しております!」


「なぜだ!」


「……井伊谷から何か吹き込まれたようで」


景虎の顔が凍った。


「織部……」


その名を口にした瞬間、背後から玄蕃が言った。


「殿。これ以上、奴を放置してはいけません」


「分かっている」


「ならば」


玄蕃は静かに言った。


「こちらから会いに行きましょう」


景虎が振り向く。


「敵の武士に?」


「はい」


「なぜ?」


玄蕃は微笑んだ。


「敵を知るためです」


---


同じ頃、井伊谷城。信綱は一人、城下を見ていた。敵軍は来ない。勝った。まだ一兵も失っていない。それなのに、信綱の心は晴れなかった。父の死。主君の秘密。佐久間家の動き。そして、お葉。すべてが一本の糸でつながっている。


そのとき、背後から声がした。


「織部殿」


振り返る。見知らぬ男だった。上等な衣。腰には刀。だが、武士とは少し違う。男は一礼した。


「佐久間景虎様より、伝言を預かっております」


信綱は黙って男を見る。


「何と?」


「一度、二人だけで話したいとのことです」


「なぜ俺と?」


男は笑った。


「景虎様は、こうおっしゃいました」


一拍置いて、


「織部信綱殿。あなたは、我らの敵になるには惜しい男だ」


信綱は空を見上げた。雲の切れ間から、夕日が差している。敵大名が、自分を呼んでいる。断れば、戦になる。応じれば、何かが変わる。


そして信綱は、まだ誰にも見せていない密書を懐から取り出した。父の書いた最後の一文。


> ――我らが主君のために。


信綱はそれを握りしめた。


「分かった」


男が頭を下げる。


「お会いになりますか?」


信綱は静かに答えた。


「会う。敵の殿様と話をしてくる」


そう言って歩き出した。


しかし信綱は知らなかった。佐久間景虎との会談を望んだのは、景虎自身ではないことを。そしてその裏で、十年前に父・宗重を死へ追いやった者たちが、再び動き始めていることを。


⸻


**第四話 終**


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。