第四話 二人の殿様
# 『大いなる野望』
## 第一部 下剋上編
### 第四話 二人の殿様
「織部殿の父上について、話したい」
その言葉を聞いた瞬間、信綱の胸の奥で、十年間閉じ込めていた何かが動いた。
父。織部宗重。十年前、主君・井伊谷盛定の命によって切腹した男。罪状は、敵方との内通。信綱が幼い頃から聞かされてきた話だった。だが、昨夜見つけた密書は、その話を根底から覆していた。
> ――約定は必ず守る。
> ――あの件については、決して口外するな。
もし父が本当に敵へ通じていたのなら、なぜ、井伊谷家の家紋が押された密書を持っていたのか。
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信綱は城へ向かった。夜の井伊谷城は静かだった。だが、その静けさが妙に不気味だった。城門をくぐると、見張りの兵が一斉に信綱を見る。昨日までとは違う。まるで、何かを知っている男を見る目。
信綱は気にせず、主君の部屋へ向かった。襖を開ける。井伊谷盛定が一人で座っていた。酒もない。家臣もいない。ただ一枚の古い書状を前に置いている。
「来たか」
「父の話をされるとか」
「そうだ。座れ」
信綱は向かいに座った。盛定はしばらく黙っていた。やがて、
「宗重は、裏切り者ではなかった」
と言った。信綱の指がわずかに動く。
「では、なぜ父を殺したのです?」
盛定は目を伏せた。
「殺したのではない」
「切腹を命じたのは殿でしょう」
「そうだ」
「ならば同じことです」
盛定は反論しなかった。
「宗重は、ある秘密を知っていた」
「何の秘密です?」
「この国の大名たちが、密かに結んでいた盟約だ」
信綱は眉を寄せた。
「盟約?」
「佐久間家だけではない」
盛定は一枚の紙を差し出した。そこには複数の家紋が並んでいた。井伊谷。佐久間。そして、信綱が知らないいくつかの家紋。
「敵同士の大名が?」
「敵だからこそだ」
盛定は言った。
「表では戦い、裏では手を結ぶ」
信綱は紙を見つめた。戦国では珍しくない。だが、問題はその目的だった。
「何のために?」
「ある男を消すためだ」
「誰を?」
盛定は答えなかった。その代わり、
「宗重は、その盟約を知った。そして、私に知らせた」
「それで父は?」
「宗重は、盟約を破ろうとした」
信綱の目が鋭くなる。
「なぜ?」
「分からぬ」
「殿にも?」
「最後まで分からなかった」
盛定は苦しそうに言った。
「だから、宗重を守るために、罪を着せた」
信綱は息を呑んだ。
「……守る?」
「宗重を殺したことにすれば、奴らは宗重を追わない」
「しかし父は死んだ」
「そうだ」
盛定は目を閉じた。
「宗重は、自ら切腹を選んだ」
信綱は拳を握った。
「それを……十年間、私に黙っていたのですか」
「お前まで殺されるからだ」
部屋が静まり返った。盛定は続ける。
「宗重は最後に言った——息子には、何も知らせるな、と」
信綱の胸が痛んだ。父は自分を守るために死んだ。そう思えば思うほど、誰が父をそこまで追い詰めたのかという疑問が強くなる。
「殿」
信綱は顔を上げた。
「父が守ろうとしたものは何です?」
盛定は答えなかった。その代わり、こう言った。
「お前自身だ」
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同じ頃、佐久間城。景虎は怒っていた。
「長谷川が逃げただと?」
「はい」
「どこへ?」
「井伊谷へ向かったとの噂が」
景虎の顔が赤くなる。
「裏切り者め!」
その横で、黒崎玄蕃は静かに地図を見ていた。
「殿。これは織部信綱の仕業でしょう」
「証拠は?」
「ありません。しかし——長谷川は、裏切る理由がなかった。ところが、裏切った」
玄蕃は地図を指した。
「誰かに裏切る理由を与えられたのです。そして、我らが最も疑うべき人物は」
玄蕃はゆっくり言った。
「織部信綱です」
景虎はしばらく考えた。
「ならば、殺すか?」
「まだ早い」
「なぜ?」
「奴が何を狙っているのか、分かりません」
玄蕃は笑った。
「分からない敵ほど、面白いものはありません」
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一方、井伊谷城。信綱は廊下を歩いていた。その背後から声がした。
「信綱」
振り返る。柴崎左近だった。
「殿と何を話した?」
「昔話だ」
「嘘だな」
信綱は笑った。
「なぜ?」
「殿の顔を見れば分かる」
左近は信綱を睨む。
「何を聞いた?」
信綱は答えなかった。左近はため息をついた。
「お前は、何でも一人で抱える」
「そのほうがいいこともある」
「戦場ならな」
左近は言った。
「だが、城の中では違う」
「どう違う?」
「秘密を持っている者は、必ず疑われる」
信綱は足を止めた。
「左近。もし俺が、この家を変えようとしたら?」
左近は驚いた。
「どういう意味だ?」
「もっと強い国にする」
「それは殿の役目だ」
「殿だけでは無理だ」
左近はしばらく黙った。そして、
「お前は何を考えている?」
と尋ねた。信綱は笑った。
「まだ分からない」
「嘘だな」
「……そうかもしれない」
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その日の夕方、信綱のもとへ、また密書が届いた。送り主は、お葉。
> ――佐久間家で異変。
> ――景虎様が井伊谷への攻撃を決定。
> ――出陣は十日後。
信綱は眉をひそめた。十日。兵糧は足りないはずだ。長谷川の離反も起きた。それでも攻めてくる。つまり、佐久間家には別の兵糧供給源がある。
信綱は地図を広げた。
「北ではない。海でもない。ならば……」
指が止まる。佐久間領の西、山の向こう。そこには、小さな国人領主の領地がある。小田切家。信綱は思い出した。小田切家は中立だった。どちらにも属していない。もし佐久間がそこから兵糧を得ているなら——
「なるほど」
信綱は笑った。敵を倒す必要はない。敵を支えている者を味方にすればいい。
信綱は一枚の書状を書いた。宛先は小田切家当主。内容は一言。
> ――佐久間家は、あなた方を信用していない。
> ――来月には領地を奪うつもりだ。
もちろん、証拠はない。だが、証拠など必要ない。戦国では、疑いさえあれば十分だった。
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翌日、小田切家から返事が届いた。
> ――お会いしたい。
信綱は一人で山を越えた。小田切家の屋敷。そこで待っていたのは、五十歳ほどの男。小田切重政。
「織部殿」
「小田切殿」
「佐久間が、我らの領地を狙っているという話」
「はい」
「証拠は?」
信綱は正直に答えた。
「ありません」
重政の顔が険しくなる。
「では、なぜ私に知らせた?」
信綱は笑った。
「もし本当に佐久間が攻めてきたとき、私はこう言われたくないからです——なぜ教えてくれなかった、と」
重政は信綱をじっと見た。
「お前は変わった男だ」
「よく言われます」
「何が欲しい?」
「何も。小田切殿が、佐久間に兵糧を売らなければ、それでいい」
重政は笑った。
「それだけか?」
「はい」
「ならば、売らぬ」
信綱は頭を下げた。
「ありがとうございます」
しかし帰り際、重政が呼び止めた。
「織部殿。一つだけ忠告しておこう」
「何でしょう?」
「お前のような男は、敵より味方に恐れられる」
信綱は笑わなかった。その言葉は、妙に胸に残った。
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十日後、佐久間軍が動いた。しかし、兵糧が届かない。米がない。塩もない。馬も足りない。
景虎は怒鳴った。
「小田切はどうした!」
家臣が答える。
「取引を拒否しております!」
「なぜだ!」
「……井伊谷から何か吹き込まれたようで」
景虎の顔が凍った。
「織部……」
その名を口にした瞬間、背後から玄蕃が言った。
「殿。これ以上、奴を放置してはいけません」
「分かっている」
「ならば」
玄蕃は静かに言った。
「こちらから会いに行きましょう」
景虎が振り向く。
「敵の武士に?」
「はい」
「なぜ?」
玄蕃は微笑んだ。
「敵を知るためです」
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同じ頃、井伊谷城。信綱は一人、城下を見ていた。敵軍は来ない。勝った。まだ一兵も失っていない。それなのに、信綱の心は晴れなかった。父の死。主君の秘密。佐久間家の動き。そして、お葉。すべてが一本の糸でつながっている。
そのとき、背後から声がした。
「織部殿」
振り返る。見知らぬ男だった。上等な衣。腰には刀。だが、武士とは少し違う。男は一礼した。
「佐久間景虎様より、伝言を預かっております」
信綱は黙って男を見る。
「何と?」
「一度、二人だけで話したいとのことです」
「なぜ俺と?」
男は笑った。
「景虎様は、こうおっしゃいました」
一拍置いて、
「織部信綱殿。あなたは、我らの敵になるには惜しい男だ」
信綱は空を見上げた。雲の切れ間から、夕日が差している。敵大名が、自分を呼んでいる。断れば、戦になる。応じれば、何かが変わる。
そして信綱は、まだ誰にも見せていない密書を懐から取り出した。父の書いた最後の一文。
> ――我らが主君のために。
信綱はそれを握りしめた。
「分かった」
男が頭を下げる。
「お会いになりますか?」
信綱は静かに答えた。
「会う。敵の殿様と話をしてくる」
そう言って歩き出した。
しかし信綱は知らなかった。佐久間景虎との会談を望んだのは、景虎自身ではないことを。そしてその裏で、十年前に父・宗重を死へ追いやった者たちが、再び動き始めていることを。
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**第四話 終**




