第三話 裏切り者の密書
## 第一部 下剋上編
### 第三話 裏切り者の密書
雨が降っていた。秋雨だった。細い雨が城下町の瓦を濡らし、道には泥が溜まっている。
信綱は、茶屋の軒下に立っていた。目の前では、先ほどの女が茶を運んでいる。年は二十歳ほど。旅装束。顔立ちは整っているが、どこか人を寄せ付けない雰囲気がある。名前は、お葉。それだけは分かっていた。
「織部様」
お葉が茶を置く。
「どうぞ」
「俺が来ることを知っていたのか?」
「この店に来る武士は、だいたい覚えております」
「俺も?」
「もちろん」
お葉は笑った。信綱は茶を一口飲んだ。まずい。いや——味が分からない。昨夜からずっと、背後に視線を感じていた。誰かに見られている。そう確信していた。
「お葉」
「はい」
「俺を殺すつもりか?」
お葉の手が止まった。一瞬だけ。本当に一瞬だった。しかし信綱は見逃さなかった。
「……何をおっしゃっているのです?」
「昨日、俺の屋敷を見ていただろう」
お葉は笑った。
「人違いでは?」
「そうか」
信綱は立ち上がった。
「ならば、忘れてくれ」
「何を?」
「今の話だ」
信綱は代金を置いて店を出た。背中に視線を感じる。だが、振り返らなかった。
店の奥で、お葉は拳を握っていた。懐には短刀。いつでも抜ける。しかし、抜かなかった。なぜなら、昨夜、彼女のもとに届いた新しい命令が、まだ頭から離れなかったからだ。
> ――織部信綱を殺せ。
> ――ただし、すぐには殺すな。
> ――この男が誰と接触しているのか確認せよ。
お葉は命令に従っていた。だが、奇妙なことが一つあった。信綱を見ていると——この男は、自分が見られていることを知っている。そんな気がする。
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その頃、佐久間領の城内では軍議が開かれていた。佐久間景虎は苛立っていた。
「米が来ぬだと?」
「はい」
家臣が頭を下げる。
「北の商人組合が、契約を変更したとのことです」
「なぜだ!」
「より高い値を提示した商人がいるようです」
「誰だ?」
家臣は答えに詰まった。
「……分かりません」
景虎が机を叩いた。
「分からぬだと!」
「申し訳ございません」
「調べよ!」
家臣が退室すると、隣にいた男が静かに口を開いた。
「殿」
「何だ、玄蕃」
黒崎玄蕃。佐久間家の軍師だった。
「これは偶然ではありません。敵は、我らを直接攻めていない」
玄蕃は地図を広げた。「米」——指を置く——「塩」——別の場所——「鉄」——そして——「馬」。
「すべてが少しずつ高くなっております」
景虎は眉をひそめた。
「つまり、誰かが市場を動かしている?」
「はい」
「井伊谷か?」
玄蕃は首を横に振った。
「井伊谷家に、そんな資金はありません」
「では誰だ?」
玄蕃はしばらく黙っていた。そして、
「織部信綱」
と答えた。景虎の顔が変わった。
「……あの三十石の男か?」
「三十石だからこそ危険なのです」
玄蕃は言った。
「大身の武将なら、誰かが警戒する。しかし、名もない男が裏で動けば、誰も気づきません」
景虎は笑った。
「面白い」
しかし玄蕃は笑わなかった。
「殿。織部信綱を、侮られませぬよう」
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その夜、信綱の屋敷に一羽の鳥が飛び込んできた。足に細い紙が結ばれている。信綱は紙を開いた。
> ――佐久間家、軍議。
> ――兵糧不足。
> ――北の商人組合に疑念。
> ――織部信綱の名が出た。
信綱は紙を火にくべた。送り主は分からない。だが、この情報が本物なら、自分の仕掛けが効いている。そしてもう一つ——佐久間家には、情報を流している者がいる。
信綱は地図を広げた。
「敵の兵糧を減らすだけでは、城は落ちない」
城を落とすには、兵を減らす。金を減らす。そして、信用を減らす。
信綱は筆を取り、一通の手紙を書いた。宛先は、佐久間家の重臣・三河守長谷川重房。内容は単純だった。
> ――景虎様は、長谷川殿を疑っておられる。
> ――兵糧不足の責任を、貴殿に負わせるおつもりだ。
> ――身を守るためには、先に動かれるべきかと。
信綱は書き終えると、封をした。だが、その手紙は長谷川重房には届かない。別の男——長谷川の家臣——へ届く。そして、その家臣は主人に見せる前に、内容を自分の手柄として利用する。
「殿に疑われている」
そう思い込んだ重房は、独自に兵を動かす。城内の警備を強化。倉庫を封鎖。他の重臣たちを監視する。たった一通の手紙で、佐久間家の内部に疑心暗鬼が広がっていく。
信綱はそれを見ていた。だが、まだ知らなかった。その手紙が、自分の想像以上の結果を生むことを。
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三日後、佐久間家から密使が井伊谷城へ入った。深夜、信綱はその男と会った。男は顔を隠している。
「織部殿」
「何者だ?」
「長谷川重房の家臣です」
信綱の目が細くなる。
「なぜ俺のところへ?」
男は懐から一枚の書状を出した。
「これを」
信綱が受け取る。そこには、
> ――長谷川家は佐久間家を離れる。
> ――その際、佐久間城の北門を開ける。
と書かれていた。信綱は黙った。これは大きい。北門。佐久間城の弱点。もし本当なら、城を内側から開けられる。
「誰がこれを書いた?」
「長谷川様です」
「なぜ俺に?」
「あなたなら、我々を助けてくれると思ったからです」
信綱は男を見た。
「井伊谷に逃げたいのか?」
「はい」
「家族は?」
「妻と子が二人」
信綱はしばらく考え、
「分かった」
と言った。男は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
男が去ったあと、信綱は一人で書状を見つめた。
「……簡単すぎる」
何かがおかしい。あまりにも都合が良すぎる。北門。長谷川家。内部情報。全部が揃いすぎている。信綱は書状を裏返した。紙の端に、小さな印がある。見覚えのない印。だが、どこかで見た気がする。
その瞬間、窓の外から声がした。
「それは罠です」
信綱が振り向く。そこに、お葉が立っていた。
「……どうやって入った?」
「窓から」
「普通、女は窓から入ってこない」
「私は普通ではありません」
お葉は部屋に入った。
「その書状を捨ててください」
「理由は?」
「死にます」
「誰が?」
「あなたが」
信綱は笑った。
「ならば、なおさら捨てるわけにはいかない」
「なぜ?」
「俺を殺そうとしている奴が、誰なのか分かるかもしれない」
お葉の顔が固まる。
「……あなた」
信綱は一歩近づいた。
「お前、佐久間家の人間だろう」
沈黙。雨音だけが響く。お葉の手が短刀に伸びる。信綱も刀に手をかけた。二人は睨み合った。
「なぜ分かったの?」
「茶屋の娘が、武士の歩き方をする」
お葉は苦笑した。
「よく見ていますね」
「お前もな」
「……私は、あなたを殺すために来ました」
「知っている」
「なら、なぜ逃げない?」
信綱は答えた。
「お前がまだ殺していないからだ」
お葉は黙った。信綱は続ける。
「俺を殺す命令を受けているなら、なぜ警告した?」
お葉の目が揺れた。答えられない。信綱は刀から手を離した。
「お葉。お前に一つ頼みがある」
「敵に頼み事をするの?」
「敵だから頼む」
「……何を?」
信綱は佐久間家の地図を広げた。
「佐久間城の中を調べてくれ」
お葉は目を見開いた。
「正気?」
「もちろん」
「私はあなたの敵よ」
「だからこそ信用できる」
「意味が分からない」
信綱は笑った。
「味方は、俺を裏切るかもしれない。だが、敵は、俺を裏切れない」
お葉は初めて、信綱という男が怖いと思った。この男は、人を信用していない。だが、人間の欲望だけは信用している。それが何より恐ろしかった。
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翌朝、佐久間城。重臣・長谷川重房の屋敷に火が放たれた。
「裏切り者を捕らえよ!」
兵士たちが走る。長谷川重房は必死に逃げた。
「違う! 私は裏切ってなどいない!」
だが誰も聞かなかった。城内では、「長谷川が景虎様を裏切るらしい」という噂が広がっていた。噂の出どころは誰も知らない。しかし、噂は事実より速く走る。重房は追い詰められた。そしてついに、佐久間家を捨てる決意をする。
その夜、北門が開いた。誰にも命じられていないのに。誰も攻めていないのに。敵の城門が、内側から開いた。
その知らせを聞いた信綱は、初めて笑った。
「……戦とは、面白いものだな」
だが、その直後。玄関に一人の老人が現れた。井伊谷家の家臣だった。
「織部殿」
「何だ?」
「殿がお呼びです」
「今夜か?」
「はい」
「理由は?」
老人は一瞬、言葉を選んだ。
「織部殿の父上について、話したいとのことです」
信綱の笑顔が消えた。父。また父だ。信綱は立ち上がり、懐の密書を握った。
そのときだった。城の外、闇の中から一人の男が信綱を見つめていた。男の手には、古い木札。そこには、
「まだ早い」
と書かれている。男は呟いた。
「織部信綱……お前が城を手に入れる前に、知るべきことがある」
そして闇へ消えた。
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**第三話 終**




