第二話 敵の城を買う男
## 第一部 下剋上編
### 第二話 敵の城を買う男
翌朝、信綱は一睡もしていなかった。囲炉裏の火はとうに消え、夜明け前の冷気が部屋を満たしていた。机の上には、昨夜見つけた密書。そして、謎の木札。
> ――お前の父を殺したのは、敵ではない。
何度読み返しても、意味は変わらない。信綱は密書を懐へ入れた。誰にも見せるつもりはなかった。少なくとも今は。
父の死について調べるなら、まず知らなければならない。誰が敵で、誰が味方なのか。だが、戦国の世では、その二つは簡単には分けられない。昨日まで味方だった男が、明日には敵になる。昨日まで敵だった男が、明日には酒を酌み交わしている。そして、その間を動かしているもの。信綱は昨夜から、そればかり考えていた。
「金……か」
信綱は呟いた。佐久間家が兵を集めている。兵を集めれば米がいる。米を買えば金がいる。武器を買えば、さらに金がいる。
——つまり、戦争とは金を燃やす作業だ。
ならば、金を止めればいい。
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信綱は立ち上がり、城下町へ向かった。城下の南端、この地方最大の商家がある。今井屋。米、塩、油、鉄、馬具、さらには堺から入ってくる鉄砲まで扱っている。店の主人は今井宗兵衛。五十を越えた男だが、背筋は真っ直ぐで、目だけが異様に鋭かった。
信綱が店に入ると、宗兵衛は帳面から顔を上げた。
「これは珍しいお客様だ」
「俺を知っているのか?」
「知らぬほうが商人失格でしょう。織部信綱殿。井伊谷家の足軽大将。三十石。独身。酒は弱い」
信綱の眉が動いた。
「最後の二つは必要か?」
「商売には必要です」
「どういう意味だ?」
「酒に弱い人間には、酒を飲ませれば口が軽くなる。独身の人間には、女を使うこともできる」
宗兵衛は笑顔のままだった。
「商人は、品物だけを見て商売しているわけではありません」
信綱は宗兵衛を見た。この男、ただの商人ではない。
「俺が何を買いに来たと思う?」
「何も買わないでしょう。織部殿は、金を持っていない」
信綱は苦笑した。
「では、帰るとするか」
「ですが」
宗兵衛は帳面を閉じた。
「金を借りに来たのなら、話は別です」
信綱は足を止めた。
「……俺は金を借りに来たわけではない」
「では何を?」
「佐久間家が、どこから米を買っているか知りたい」
宗兵衛の顔から笑みが消えた。数秒の沈黙。
「武士というのは、妙な質問をするものですな」
「答えられないか?」
「答えられます」
宗兵衛は淡々と言った。
「佐久間家は、北の商人組合から大量の米を買っております」
「北?」
「三河方面です」
信綱は考えた。
「では、その商人組合を止めれば、佐久間家は兵を動かせない」
「そう簡単にはいきません」
「なぜ?」
宗兵衛は指を一本立てた。
「米は北からだけではありません」——二本目——「海からも入ります」——三本目——「さらに、佐久間家自身が備蓄しております」
「つまり?」
「三つの道を塞がねばならない」
信綱は宗兵衛を見つめた。
「商人なら、道を塞げるのか?」
宗兵衛は笑った。
「商人なら、道を塞ぐ必要はありません。道を、別の道に変えればよい」
宗兵衛は立ち上がり、店の奥から古い地図を持ってきて広げた。この地方の街道と川、港が細かく描かれている。
「ここが佐久間領」——指を置く——「ここが北の米問屋」——次に港——「ここが海路」——そして最後に、山道——「そしてここが、井伊谷領」
信綱は地図を見つめた。
「……なるほど」
「何がお分かりになりました?」
「佐久間家は、三つの供給路を持っている」
「その通り」
「だが、三つとも佐久間家の領地ではない」
宗兵衛が笑った。
「ようやく面白くなってきましたな」
信綱は地図を指でなぞった。
「商人を敵に回す必要はない。もっと高い値段で買えばいい」
宗兵衛の目が細くなる。
「佐久間家より高く?」
「そうだ」
「それでは、井伊谷家が破産します」
「井伊谷家の金では買わない」
宗兵衛の表情が変わった。
「俺個人の名前で買う」
「三十石の武士が?」
「だから、お前に頼んでいる」
しばらく沈黙が続いた。やがて宗兵衛が笑った。
「織部殿。あなたは面白い」
「そうか?」
「ええ」
宗兵衛は地図を丸めた。
「ですが、一つだけ教えておきましょう。戦国の世で一番高くつくものは、米でも鉄でもありません」
「……命か?」
「違います。信用です」
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三日後。佐久間領へ向かうはずだった大量の米が、突然行き先を変えた。北の商人組合が、別の買い手を見つけたのである。その買い手の名は、織部信綱。もちろん、信綱にそんな大金はない。だが、宗兵衛が保証人になった。米を買い占めたのではない。「佐久間家に売るはずだった米を、一時的に別の商人へ流す」——それだけだった。佐久間家はまだ気づいていない。
ところが、その直後。海路から入る塩にも同じことが起きた。さらに鉄。馬具。矢竹。次々と物資の価格が上がっていく。佐久間家の蔵から金が消えていく。一方、井伊谷家にはまだ何も起きていない。戦は始まっていない。兵も動いていない。それなのに、敵だけが少しずつ弱っていく。
信綱はそれを見ていた。
「これが戦か……」
隣で宗兵衛が笑う。
「違います。これは商売です」
「同じだろう」
「いいえ」
宗兵衛は言った。
「商売では、人を殺しません。ですが、武士の戦では、人を殺して勝たねばならない」
宗兵衛は信綱の目を見た。
「商人は、敵を殺さずに負けさせることができます」
信綱は黙った。その言葉が、妙に胸に残った。
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その日の夕刻、城へ戻ると、異変が起きていた。城門の前に、見慣れない武士が立っている。黒い陣羽織。腰には太刀。信綱が近づくと、男は一礼した。
「織部信綱殿ですな」
「そうだが」
「佐久間家の使者でございます」
信綱の表情が変わる。
「俺に何の用だ?」
男は懐から書状を取り出した。
「佐久間景虎様からです」
信綱は受け取り、封を切った。中には、短い文章。
> ――織部信綱殿。
> ――貴殿が何をしているか、我らは知っている。
> ――商人を使い、米を動かしたな。
信綱の手が止まる。さらに読む。
> ――面白い男だ。
> ――一度、会いたい。
> ――敵としてではなく。
信綱は顔を上げた。
「……何を企んでいる?」
使者は答えない。ただ一言。
「佐久間様は、織部殿を高く評価されております」
そう言って去っていった。
信綱は書状を握った。敵大名が、自分を知っている。それだけではない。自分の動きを把握している。つまり——井伊谷家の中に、情報を流している者がいる。
信綱は城を見上げた。昨日まで、自分はこの城を守る側だった。だが今は違う。城の中に、敵がいる。
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その夜、信綱は再び父の密書を取り出した。
> ――約定は必ず守る。
> ――あの件については、決して口外するな。
そして昨夜の木札。
> ――お前の父を殺したのは、敵ではない。
信綱は二つの文を並べた。その瞬間、ある考えが頭をよぎった。
——父は、敵と何か約束していたのではないか。もしそうなら、父を殺したのは誰なのか。敵か。主君か。それとも——両方か。
信綱は密書を懐へしまい、そして静かに呟いた。
「……城が欲しい」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。今までは、ただ生き残ることを考えていた。父の死の真相を知りたいと思っていた。だが今は違う。敵も、味方も、商人も、主君も——すべてが人の欲で動いている。ならば、その欲を動かす側に立てばいい。
信綱は城下の闇を見つめた。まだ自分には、兵も金もない。家柄もない。名声もない。あるのは、知恵だけ。それで十分だった。少なくとも、今は。
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その頃、城下町の外れにある小さな茶屋。一人の女が、信綱の屋敷を見ていた。年齢は二十歳ほど。旅姿。腰には短刀。女は懐から一枚の紙を取り出した。
> ――織部信綱。
> ――警戒せよ。
> ――この男は、いずれ城を取る。
女は紙を火に投げ込んだ。炎が文字を飲み込んでいく。そして女は、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……その前に、殺す」
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**第二話 終**




