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大いなる野望 敵の城を買いました。~30石の武士が商人と軍師を味方につけ、謀略で大名になるまで~  作者: 松本 俊介


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『大いなる野望I 下克上編』 第一話 名もなき武士


## 第一部 下剋上編


### 第一話 名もなき武士


天文十八年——。


秋の山には、すでに冬の気配が忍び寄っていた。風が吹くたび、山城の木柵が軋む。城と呼ぶにはあまりにも小さい。土塁を巡らせ、粗末な櫓を三つ置いただけの山城。それでも、この城を巡って何人もの武士が血を流し、何百人もの百姓が年貢を納めている。


井伊谷家。この地方では、それなりに名の知られた小領主である。


その城門の脇に、一人の若い武士が立っていた。名を、織部信綱という。二十五歳。身分は低い。知行はわずか三十石。家老でもなければ、名のある武将でもない。戦場では百人ほどの足軽を率いることがあるものの、城内では上役から「織部」と呼び捨てにされる程度の存在だった。


信綱は城下を見下ろしていた。田畑の向こうには、霧に霞む山々。そのさらに向こうには、敵対する佐久間家の領地がある。


——今年も戦になるだろう。


いや。戦になるように仕向けられている。信綱は、そう考えていた。


「……妙だな」


背後から声がした。振り返ると、同僚の柴崎左近が立っている。三十歳。信綱より五歳年上。武勇に優れ、家中でも評判の良い男だった。


「何がだ?」


「敵が動かん」


左近は山の向こうを見た。


「佐久間は先月から兵を集めている。なのに、こちらへ攻めてこない」


「攻めてくる必要がないからだ」


「どういう意味だ?」


信綱は答えなかった。城下では、米俵を運ぶ百姓たちが忙しく動いている。だが、その数が少ない。今年は凶作だった。米が足りない。兵を集めれば、さらに食糧が必要になる。それなのに、主君・井伊谷盛定は兵を増やそうとしていた。


「戦をする金がない」


信綱が呟いた。


「だが殿は戦をする」


「そうだ」


「ならば、どうする?」


信綱は左近を見た。


「誰かが金を出す」


左近は眉をひそめた。


「誰が?」


信綱は笑った。


「それを考えるのが、俺たちの仕事だ」


「お前は武士だぞ」


「武士だから考えるんだ」


左近は呆れた顔をした。


「お前は昔からそうだ。刀より算盤のほうが似合っている」


「算盤で人が殺せるなら、俺は喜んで算盤を持つ」


「物騒なことを言うな」


信綱は笑った。しかし、その目は笑っていなかった。


---


その夜、城内では評定が開かれた。家老たちが並び、中央に井伊谷盛定が座る。四十七歳。決して大器ではない。だが、人の良い男だった。


「佐久間は来月にも兵を動かすとの知らせが入った」


家老の一人が報告する。


「ならばこちらも兵を集めるべきです」


「兵糧が足りぬ」


「城下から徴発すればよい」


「これ以上取れば、来年の種籾までなくなるぞ」


議論が激しくなる。信綱は黙って聞いていた。そして、ふと気づいた。盛定の右手が震えている。ほんのわずかだった。他の者は気づいていない。だが信綱には分かった。


——殿は怯えている。戦そのものではない。何か別のものを恐れている。


「織部」


突然、盛定がこちらを見た。


「はっ」


「お前ならどうする?」


家老たちの視線が集まった。信綱は一瞬だけ考え、そして答えた。


「戦を避けます」


室内が静まり返った。


「臆病者め」


誰かが吐き捨てた。信綱は気にしない。


「しかし、避けられぬ戦もある」


盛定が言った。


「その場合は?」


「敵を攻めません」


「何?」


「敵の味方を攻めます」


ざわめきが起こった。信綱は続けた。


「佐久間家の兵は多い。しかし、佐久間家に忠誠を誓っている者ばかりではない。国人衆も商人も、みな自分の利益で動いております」


「つまり?」


「佐久間家に兵を出させなければよい」


盛定がじっと信綱を見る。


「どうやって?」


信綱は答えなかった。


「考えてみます」


それだけ言って、評定は終わった。


---


廊下に出た信綱を、盛定が呼び止めた。


「織部」


「はい」


「お前の父も、よく同じことを言っていた」


信綱の足が止まった。父——織部宗重。十年前に切腹した。主君の命に背いた罪。それが表向きの理由だった。


信綱は振り返った。


「父の話は……もうよいでしょう」


「そうだな」


盛定は静かに答えた。


「だが、いつか話さねばならぬ日が来る」


信綱はその意味を理解できなかった。いや——理解したくなかった。


---


その夜、信綱は自宅に戻った。粗末な屋敷だった。家臣と呼ぶにはあまりにも小さな家。妻はいない。母もすでに亡くなっている。一人で暮らしている。


囲炉裏に火を入れ、古い酒を一杯だけ飲む。そして壁際に置かれた木箱を見た。父の遺品だった。十年間、一度も開けていない。なぜか。怖かったからだ。父が最後に何を考えていたのか。何を知っていたのか。それを知ってしまえば、自分もまた戦国という巨大な渦に巻き込まれる気がした。


だが、その夜——信綱は木箱を開けた。


中には古びた刀。数冊の書物。そして、一通の密書。信綱の手が止まった。封には、見覚えのある家紋が押されている。


——井伊谷家。


「……なぜ?」


父の遺品に、主君の家紋。信綱は震える手で封を開いた。紙には、わずか数行だけ書かれていた。


> ――宗重殿。

> ――約定は必ず守る。

> ――あの件については、決して口外するな。


差出人の名はなかった。ただ最後に、


> 「我らが主君のために」


とだけ記されていた。


信綱は息を呑んだ。父は、主君に背いて切腹したのではない。むしろ——主君のために何かを隠していた。では、なぜ父は死ななければならなかったのか。


信綱は密書を握りしめた。


その瞬間だった。外で、馬の蹄が鳴った。


——こんな夜更けに?


信綱は刀を取った。窓の隙間から外を見る。月明かりの中、一人の男が立っていた。黒い衣。顔は見えない。男は何かを置くと、そのまま闇の中へ消えた。


信綱は外へ出た。地面に置かれていたのは、小さな木札だった。そこには一文字だけ。


「父」


信綱の背筋に冷たいものが走った。裏返すと、そこには、さらに一行。


> ――お前の父を殺したのは、敵ではない。


信綱は長い間、動かなかった。やがて顔を上げ、城の天守を見つめる。


これまで信綱にとって、あの城は主君の城だった。自分とは無縁のもの。だが、その夜、初めて違うように見えた。城壁。櫓。天守。そのすべてが、ひどく近く感じられた。


信綱は小さく呟いた。


「……誰が父を殺した?」


答えはない。ただ、夜風だけが吹いていた。


そして信綱は、まだ自分でも気づいていなかった。この夜を境に、一人の名もなき武士が、戦国の歴史を大きく動かし始めることを。その最初の一歩が、「父の死の真相を知りたい」という小さな疑問だったことを。そして、その疑問がやがて、「俺自身が、この国を動かす」という、大いなる野望へ変わっていくことを。


⸻


**第一話 終**


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