第10話:決裂の酒杯
『大いなる野望Ⅱ 天下布武』第十話をお届けします。
第10話:決裂の酒杯
四万の包囲網を破り、黒幕・御影道玄の存在を知った織部信綱の快進撃は止まらなかった。
本陣を突かれ、手足であった協力者をことごとく分断された佐久間景勝は、残兵を率いて自領の居城・赤坂城へと撤退を余儀なくされていた。
だが、佐久間家の底力はなおも健在であった。赤坂城は堅牢無比。正面から攻め立てれば、信綱軍にも膨大な損害が出る。
そうした折、信綱のもとへ佐久間景勝からの密使が届いた。
『両軍の兵を無用に減らすは愚の骨頂。境界の寺院・般若寺にて、二人きりで対面されたし。天下の行方を語り合わん』
会談の提案――サミットであった。
「殿、罠にございます!」
柴崎左近が声を荒らげた。
「景勝め、合戦で勝てぬと知るや、直接手にかける気かもしれませぬ! 行ってはなりませぬ!」
軍師・黒崎玄蕃も扇子を静かに叩きながら言葉を添える。
「景勝という男、冷徹にしてプライドが極めて高い。敗北を認めたフリをして殿を道連れにする危険は十分にございますな」
しかし、信綱は遠く般若寺の方角を見つめたまま、微かに口元を緩めた。
「左近、玄蕃。景勝は本気で俺と話す気だ。奴は今、追い詰められ、焦っている。だからこそ……対面で直接叩き潰す価値がある」
「ですが……!」
「お前たちは寺の周囲に伏兵を置け。景勝が少しでも怪しい動きを見せたら、寺ごと蜂の巣にしろ。……お葉、お前も来い」
影の中から女忍びのお葉が静かに頷いた。
翌日。国境の山中にひっそりと佇む古刹・般若寺。
境内の静寂を破り、二人の男が対面した。
上座に座すのは、名門・佐久間家の若き当主、佐久間景勝。
下座に座すのは、足軽の倅から城主へとのぼりつめた成り上がり、織部信綱。
信綱が井伊谷を奪い、景勝が父・景虎を追い落として佐久間の全権を握ってから、わずか一年余り。それぞれの野心だけを頼りに成り上がってきた二人が、今や天下の覇権を争う宿敵として相まみえていた。
室内には、二人を囲むように置かれた酒瓶と酒杯。
景勝は自ら酒を酌み、信綱の前へと滑らせた。
「……久しいな、織部信綱」
景勝の声は低く、そして澄んでいた。合戦の敗北による疲労の色はあるものの、その瞳には名門当主としての毅然とした光が宿っている。
「久しくございます、景勝様。相変わらず、見事な醸造酒をお持ちだ」
信綱は何の躊躇もなく酒杯を干した。毒が入っていないことを見抜いていたのだ。
「フ……相変わらず肝の据わった男だ」
景勝も自らの杯を空け、静かに息を吐いた。
「信綱。単刀直入に言おう。我らの戦いは、ここまでにせんか」
「ほう?」
「お前の軍略、謀略、そして執念……見事であった。認めよう、貴様はただの野武士ではない。……だが、このまま戦いを続ければ、我ら両家は傷つき、棚ぼたで京都の将軍や他国の大名が得をするだけだ」
景勝は身を乗り出し、鋭い視線を信綱にぶつけた。
「我が佐久間家の持つ『血筋と名声』。そして貴様の持つ『才覚と謀略』。このふたつが合わされば、天下に敵などおらん。……二人で手を組み、天下を二分しようではないか。東を俺が治め、西をお前に任せる。二人で新しい時代を作るのだ」
二分天下の提案。
名門大名からの破格の和睦条件であった。
お葉は天井裏から固唾を呑んで見守っていた。もし信綱がこれを受け入れれば、無用な流血は避けられ、織部家は一気に日本半分の覇者となる。
しかし――信綱はくっくっと低く笑い始めた。
「……何が可笑しい、信綱」
景勝の眉がぴくりと動く。
「景勝様。あなたはやはり、どこまでも『お坊ちゃん』だ」
「何だと……!?」
信綱は酒杯を畳に叩きつけた。カチンと乾いた音が響く。
「天下を分け合う? 冗談ではない。太陽が二つ並んで空に昇ることがあるか? 二人の主が立つ国など、いずれ再び乱れて血の雨が降るだけだ」
信綱の目が、爛々とした狂気の光を放ち始めた。
「俺が欲しいのは『半分』ではない。この日本のすべて、天下のすべてだ! 名門の血筋も、朝廷の権威も、お前が誇る佐久間の歴史も……すべて俺の足元にひれ伏させなければ、俺の『大いなる野望』は満たされんのだよ!」
景勝の顔が怒りと絶望で歪んだ。
「成り上がりの分際で……! 天下を一人で統べられると本気で思っているのか! 貴様のような謀略しか知らぬ匹夫に、世を治める資格などあるものか!」
「資格などというものは、勝者が後から作るものだ!」
信綱は立ち上がり、景勝を見下ろした。
「景勝。お前との同盟は、ここで完全に決裂した。次に会うのは……京都への上洛戦。お前の赤坂城を踏み潰し、その首を挙げる時だ」
景勝も立ち上がり、腰の太刀の柄に手をかけた。
「……後悔するぞ、織部信綱。我が佐久間家の全勢力を賭し、京の都の前にて貴様を地獄へ叩き落としてやる!」
二人の視線が火花を散らし、完全に交錯した。
和睦の酒杯は割れ、二人の間にはもはや「最終決戦」という破滅の道しか残されていなかった。
般若寺を出た信綱のもとへ、お葉と左近が駆け寄る。
「殿! 和睦は……!?」
「決裂だ」
信綱は馬に飛び乗り、手綱を強く握りしめた。
「全軍に伝えよ! これより佐久間家の本拠へ向けて進撃を開始する! 京都上洛戦の始まりだ!」
天下を二分する試みを蹴り捨て、唯一無二の覇者となる道を選んだ織部信綱。
物語はいよいよ、第二部のクライマックス――都の命運を賭けた最終決戦へとなだれ込んでいく。
(第11話へ続く)




