第4話:もう一人の野心家
『大いなる野望Ⅱ 天下布武』第四話をお届けします。
第4話:もう一人の野心家
鷹ヶ峰城の二の丸からは、昼夜を問わず腹に響く凄まじい鉄砲の打撃音が轟いていた。
汗と硝煙にまみれながら部隊を叱咤するのは、旧井伊谷家の筆頭武将であり、いまや織部家の第一の猛将となった柴崎左近である。
「遅い! 構えから引き金を引くまでの間合いがまだ甘い! 次の組、前へ出よ!」
左近は信綱から預けられた五十挺の種子島(鉄砲)を徹底的に叩き込み、見事な鉄砲隊へと仕立て上げつつあった。しかし、その胸の内には常に黒い渦が巻き荒れていた。
(武士の誉れも捨て、謀略ばかりで城を奪った成り上がりに、なぜ俺が従わねばならんのだ……)
左近にとって、信綱は父親を裏切り、主君を死に追いやり、知恵と嘘だけで城主にのぼりつめた卑怯者に過ぎなかった。武力と忠義を誇りとしてきた左近には、今の己の立場が屈辱でならなかったのだ。
その夜。左近の屋敷に、一本の矢文(やぶみ、矢に結びつけられた文)が打ち込まれた。
文を開いた左近の手が、ぴたりと止まる。
『柴崎左近殿。織部信綱のごときに膝を折る無念、察するに余りある。信綱の首を差し出せば、井伊谷の旧領をすべて貴殿に与え、佐久間家の筆頭家老として迎え入れよう。――佐久間景勝』
左近の目が大きく見開かれた。
井伊谷の再興、そして己が主君となる道。武人としてのプライドと、領主への野心が左近の心を激しく揺さぶる。
(信綱を討てば……俺がこの井伊谷の主になれる……!)
葛藤を抱えたまま、翌朝、左近は本丸へ呼び出された。
大広間に向かう左近の懐には、あの密書と、研ぎ澄まされた脇差が忍ばせられていた。
広間には信綱と、軍師・黒崎玄蕃の二人しかいなかった。
信綱は文机に向かい、周辺の小領主たちに送る同盟の書状に目を通している。背中を見せた無防備な姿。
(今だ……いま信綱を斬り伏せれば、佐久間軍を城に招き入れられる……)
左近が柄に手をかけ、一歩踏み出そうとしたその時――信綱が振り向きもせずに口を開いた。
「左近。鉄砲隊の仕上がりは見事なものだな」
左近は息を呑み、足をとめた。
「……はっ。兵どもの習熟、もはや実戦に耐えうるものかと」
「重畳だ」
信綱はゆっくりと立ち上がり、左近と向き合った。その目はすべてを見透かしているかのように澄んでいた。
「左近。お前は佐久間景勝から『井伊谷の旧領を返す』と誘われたのだろう?」
静寂が広間を包んだ。
左近の背中に冷や汗が吹き出す。懐の密書が存在感を増し、心臓が破裂しそうなほど脈打つ。
「……な、なぜそれを」
「景勝のやりそうなことだ。お前という猛将を味方に引き入れ、我が織部家を内側から崩壊させる。典雅な公家気取りの割に、泥臭い手を使う」
信綱は笑みすら浮かべていた。怒りも、恐れもそこにはない。左近は刃を抜くことすら忘れ、目の前の男の不気味さに圧倒されていた。
「殿! 謀反の密書でござる! なぜ某を切り捨てぬ!? 今すぐここで某を捕らえ、首を跳ねればよろしかろう!」
左近が叫ぶと、横で扇子を弄んでいた玄蕃がくっくっと低く笑った。
「柴崎殿。我が殿が、そのような無駄な殺生をされるはずがありませぬよ。あなたほどの猛将を殺すなど、戦力の重大な損失でございます」
信綱は左近へ歩み寄り、その肩に手を置いた。
「左近。お前が井伊谷の地に寄せる執着、嫌いではない。……だがな、景勝の言う『旧領を与える』などという甘言を信じるな。佐久間が天下を取れば、お前など使い捨ての地方領主としていずれ潰されるだけだ」
「ならば……某にどうしろとおっしゃる!」
「俺について来い」
信綱の目が、爛々と輝いた。
「俺が狙っているのは、井伊谷のような小さな一画ではない。この国全体、そして京都、天下だ。左近、お前の武勇を井伊谷などという狭い箱庭で腐らせるな。俺の軍勢の『頭』として、天下を揺るがす大合戦の先陣を切ってみせろ。お前に真の大名としての領地を与えてやる」
左近は激しい衝撃を受けた。
信綱は自分の裏切りを知りながら、それを咎めるどころか、さらに大きな「野望」の器を見せつけて自分を呑み込もうとしているのだ。
「明日、佐久間軍が毒殺の報を信じて攻め寄せてくる」
信綱は冷徹な顔に戻り、命令を下した。
「左近。お前の鉄砲隊は、鷹ヶ峰城の北の隘路(狭い谷間)に配置する。逃げ道はない。前には数万の佐久間軍、後ろには俺の本陣だ。お前が背けば、俺はお前を挟み撃ちにして殺す。お前が戦えば、佐久間軍の頭上から鉄砲の雨を降らせ、大功を立てられる」
逃げ道を完璧に塞ぐと同時に、最高の活躍の場を与える――冷酷かつ完璧な配置。
左近は懐の密書を取り出すと、信綱の目の前でバリバリと破り捨てた。そして畳に深く頭をこすりつけた。
「……承知! この柴崎左近、天下の先陣、謹んで引き受けまする!」
武勇と野心に満ちた猛将・柴崎左近は、信綱の巨大な野望という磁力に完全に組み込まれた。
佐久間景勝の誘惑を打ち砕き、信綱はついに、圧倒的な大軍を迎撃するための「一丸となった陣営」を作り上げたのだった。
(第5話へ続く)




