第3話:密偵の宿命
『大いなる野望Ⅱ 天下布武』第三話をお届けします。
第3話:密偵の宿命
月明かりもない漆黒の夜。
鷹ヶ峰城の裏手に広がる鬱蒼とした竹林で、ふたつの影が静かに交差した。
「遅いぞ、お葉」
竹の葉が擦れる音に紛れて聞こえたのは、冷酷な男の声だった。佐久間景勝直属の忍び集団「黒脛巾」の頭領・伊賀崎道鬼である。
「手こずりました。信綱の警護が日に日に厳しくなっております」
お葉は身を低くし、静かに答えた。その手には、前回渡されたあの猛毒の小瓶が握られている。
「言い訳は不要だ。景勝様はお焦りだぞ。織部信綱が周辺の小領主どもと密かに文を交わしているとの報が入った。『降伏の準備をしている』というお前の報告と喰い違っておるのではないか?」
「……それは、信綱が降伏に反対する家臣団をなだめるため、ポーズとして文を送っているだけに過ぎません」
お葉の声は淡々としていたが、背中には冷や汗が伝っていた。
道鬼の鋭い視線がお葉を射抜く。
「……お葉。まさかとは思うが、あの成り上がりの男に情でも移ったか?」
「滅相もございません。私は佐久間家に買われた忍び。この命、景勝様のためにございます」
「ならば証明してみせろ。三日後の満月の夜、信綱の晩酌の酒にその毒を混ぜろ。首尾よく討ち取れば、お前を忍びの任から解き、莫大な黄金を与えて放免してやる。……失敗すれば、お前がどうなるか分かっているな?」
道鬼の影が闇の中に消えた。
一人残されたお葉は、竹林の中に崩れ落ちた。膝が震え、胸が張り裂けそうだった。
(信綱様を……殺す……?)
頭の中に浮かぶのは、自分を単なる道具ではなく一人の人間として扱い、時には愛おしそうに髪を撫でてくれた信綱の顔だった。しかし、命令に背けば自分だけでなく、佐久間家に人質として捕らえられている幼い妹の命もない。
葛藤に苛まれながら城内の自室に戻ったお葉を待っていたのは、暗闇の中に一人座る信綱の姿だった。
「――どこへ行っていた、お葉」
低い、だが穏やかな声。
お葉は息を呑み、即座に平伏した。
「……城下の茶屋の仕入れでございます。夜分遅くに申し訳ございません」
信綱は立ち上がり、静かな足取りでお葉に近づくと、その小さな手を優しく包み込んだ。お葉の手は氷のように冷たかった。
「お葉。お前の手は冷たいな。……佐久間の道鬼と会ってきたか」
お葉の全身が凍りついた。血の気が引き、息をすることすら忘れる。
「な……なぜ……」
「俺専属の情報屋が、敵の動きを知らんわけがないだろう」
信綱はお葉の顎を優しく持ち上げ、その瞳をまっすぐ見つめた。
「その手に握っているものは何だ。俺を殺す毒薬か?」
「信綱様……っ!」
お葉の目から涙が溢れ出した。彼女は小瓶を床に投げ出し、頭を床にこすりつけた。
「お討ちください! 私は……私はあなた様を裏切り、佐久間の間者としてここに居りました! 妹を人質に取られ、どうしても抗えず……! いっそ、この手で私を殺してください!」
叫びとも泣き声ともつかない言葉が部屋に響く。
だが、信綱は刃を抜かなかった。ただ静かにしゃがみ込み、震えるお葉の肩を抱き寄せた。
「泣くな、お葉。お前が佐久間の忍びであることなど、出逢った時から知っていた」
「え……?」
お葉は涙に濡れた目で信綱を見上げた。
「お前は俺を裏切らなかった。俺を殺そうと思えば、いくらでも機会はあったはずだ。……お前が苦しんでいたのは、俺を本当に愛してくれたからだろう?」
「信綱様……」
「お前の妹は、今夜中に黒崎玄蕃の手の者が佐久間の領内から救い出す。だから、もう怯える必要はない」
信綱の言葉に、お葉は言葉を失った。自分を赦すだけでなく、妹の救出まで裏で手配していたのだ。この男の懐の深さと、同時に底知れぬ恐ろしさに、お葉は心底震え上がった。
「お葉。佐久間景勝に、こう伝えるのだ」
信綱はお葉の耳元で、冷徹な声で囁いた。
「『信綱の毒殺に成功した。城内は混乱に陥っている。今こそ一気に鷹ヶ峰城へ押し寄せるべし』とな」
お葉は息を呑んだ。
「二重間者となれ、というのですか……?」
「そうだ。景勝が『毒殺成功』の報を信じて全軍を動かした時こそ、俺が仕掛けた罠が完結する。お前の命も、妹の命も、俺の野望も……すべてその一戦にかかっている」
お葉は涙を拭い、深く深く頭を下げた。
「……はっ。このお葉、これよりは織部信綱様の『影』となりて、命を捨ててお仕えいたします」
愛と忠誠が、葛藤の果てにひとつに重なった。
女忍びの決意を背負い、信綱は暗闇の中で静かに笑った。佐久間景勝という巨大な敵を、自らが掘った穴へと誘い込む準備が、いま整ったのだ。
(第4話へ続く)




