第十話 天下の商人
『大いなる野望』
第十話 天下の商人
織部信綱が井伊谷城を手に入れてから、三月が過ぎた。
城下では、以前とは違う光景が見られるようになっていた。
兵が増えた。
米蔵が増えた。
そして何より、商人が増えた。
朝になると、城門には米を積んだ荷車が並ぶ。
塩、油、鉄、炭、馬、火薬。
戦に必要なものが、次々と運び込まれてくる。
しかし、信綱はそれらを買い集めているわけではなかった。
むしろ逆だった。
「売るのだ」
城の大広間。
信綱は地図を広げ、その上に小さな木札を置いていった。
「米を売る?」
柴崎左近が眉をひそめた。
「せっかく集めた米を?」
「そうだ」
「敵に?」
「敵にもだ」
左近は呆れた顔をした。
「殿。戦をする気があるのですか?」
信綱は笑った。
「戦をするからこそ、売る」
隣で黒崎玄蕃が腕を組んでいた。
「説明していただきましょうか」
「簡単な話だ」
信綱は地図上の三つの城を指した。
「この三家は、今年の収穫が悪い」
「だから米を売る?」
「そうだ。ただし、安く売る」
左近が首を傾げる。
「それでは損では?」
「一俵で考えるから損に見える」
信綱は木札を三つ並べた。
「米を売る。すると、相手は兵を養える」
「それは敵を強くすることになります」
「違う」
信綱の指が、木札を一つずつ動かした。
「米を売る」
一つ目。
「その代金として銀を受け取る」
二つ目。
「銀が足りなければ、土地の権利を担保にする」
三つ目。
玄蕃の目が細くなった。
「……なるほど」
「わかったか?」
「ええ」
玄蕃が低い声で言った。
「殿は、城を攻めるのではない」
「そうだ」
「相手の財布を攻める」
信綱は頷いた。
「そして財布を握れば、最後には城も握れる」
左近は地図を見つめた。
これまでの戦なら、兵を集め、城を囲み、門を破る。
だが信綱は違った。
兵を動かす前に、米を動かす。
米を動かす前に、金を動かす。
金を動かす前に、人を動かす。
そのすべてを動かせる者が、戦場そのものを支配する。
その日の夕刻。
信綱の前に一人の男が現れた。
「相変わらず、おかしな戦をなさいますな」
今井宗兵衛だった。
太った体。
柔らかな笑顔。
しかし、その目だけは笑っていない。
「宗兵衛」
「はい」
「お前の商売は、ずいぶん繁盛しているそうだな」
「殿のおかげでございます」
「嘘をつけ」
宗兵衛は笑った。
「これは手厳しい」
「俺が城を取る前から、お前は儲けていた」
「それも事実でございます」
「そして俺が城を取った後、さらに儲けている」
「これも事実」
「ならば聞こう」
信綱は身を乗り出した。
「お前は、誰の味方だ?」
宗兵衛は答えなかった。
しばらくして、懐から一枚の帳面を取り出した。
「これをご覧ください」
帳面には大量の名前が記されていた。
商人。
武士。
寺。
庄屋。
そして大名。
信綱の目が止まる。
「……これは」
「この二十年間、私が金を貸した者たちでございます」
「二十年……」
宗兵衛は静かに頷いた。
「戦国では、刀より長く残るものがございます」
「何だ?」
「借金です」
信綱は帳面をめくった。
そこには、佐久間家の名前もあった。
井伊谷家の名前もある。
さらに、その周辺の小領主たちの名が並んでいる。
「まさか……」
玄蕃が帳面を覗き込んだ。
「この男は、大名に金を貸していたのか」
「大名だけではございません」
宗兵衛は笑った。
「大名の家臣にも、寺にも、商人にも、農民にも」
「つまり」
信綱が呟く。
「戦をしている連中の、ほとんどが、お前から金を借りている」
「左様でございます」
信綱は帳面を閉じた。
「恐ろしい男だな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
その瞬間だった。
玄蕃が帳面の最後の頁をめくった。
そこに、異様な記号があった。
三つの家紋。
井伊谷。
佐久間。
そして、滅んだはずの第三の家。
その下に一人の名前がある。
御影道玄。
玄蕃の顔から笑みが消えた。
「宗兵衛」
「はい」
「これは何だ」
「見ての通りでございます」
「道玄に金を流していたのか?」
「流していた?」
宗兵衛は首を横に振った。
「少し違います」
そして、静かに言った。
「道玄殿は、金を借りる側ではございません」
信綱の背筋に冷たいものが走った。
「……では、何だ?」
「金を貸す側です」
部屋の空気が止まった。
「私は、その下で動いていただけでございます」
信綱は立ち上がった。
「では、お前は道玄の手先か?」
「手先という言葉は好きではありません」
「なら何だ」
「商人です」
宗兵衛は笑った。
「天下を動かす商人でございます」
信綱は宗兵衛を睨みつけた。
「天下を動かす?」
「殿は天下を取るおつもりでしょう?」
「……」
「ならば、私にも野望があって当然では?」
その言葉に、信綱は何も答えなかった。
その夜。
お葉が戻ってきた。
髪を濡らし、泥のついた着物をまとっている。
「信綱」
「どうした?」
「佐久間城で妙な動きがある」
「景虎か?」
「違う」
お葉は首を振った。
「景勝よ」
信綱の表情が変わった。
「何をしている?」
「周辺の領主に使者を送っている」
「兵を集めているのか?」
「それもある」
「それも?」
お葉は懐から紙を出した。
「土地を買っている」
玄蕃が紙を受け取った。
「土地?」
「米の産地、水運の要所、街道沿いの宿場。それから商人の屋敷」
信綱は紙を見つめた。
「景勝は、城ではなく経済を押さえようとしている」
「そう」
お葉が頷いた。
「そして、もう一つ」
「何だ?」
「佐久間景虎が、近いうちに狩りに出る」
「狩り?」
「はい」
信綱は考え込んだ。
景虎は武人だ。
戦なら強い。
だが、景勝は違う。
あの男は、父親を正面から倒そうとはしていない。
金を使い、人を買い、領主を借金漬けにし、味方を一人ずつ増やしている。
「親子で戦をしているな」
信綱が呟いた。
「違う」
玄蕃が言った。
「親子で天下を奪い合っている」
信綱は立ち上がった。
「景虎を殺せ、という密命が来た」
お葉が息を呑む。
「景勝から?」
「そうだ」
「なら、景勝が父親を消そうとしている」
「そうだ」
玄蕃が腕を組む。
「ですが、景勝を殺せば佐久間家はどうなります?」
「割れる」
「そして、その隙を我々が取る」
信綱は首を横に振った。
「それでは道玄の思う壺だ」
「……」
「俺が景勝を殺す」
信綱は地図の上に指を置いた。
「景虎が死ぬ」
さらに指を動かす。
「景勝が跡を継ぐ」
さらに動かす。
「佐久間家が割れる」
そして最後に、自分の城を指した。
「俺が、その隙を奪う」
玄蕃は信綱をじっと見た。
「殿」
「何だ?」
「それは、かなり大きな賭けです」
「戦国で、賭けをしない奴が生き残れるか?」
玄蕃はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頭を下げた。
「では」
その言葉に、信綱が顔を上げる。
「私が軍師を務めましょう」
左近が驚いた。
「玄蕃!」
「もう比較は終わりました」
玄蕃は信綱を見た。
「この男がどこまで行くのか、見届けてみたくなった」
信綱は笑った。
「後悔するぞ」
「その時は、殿の首を取ります」
「それも面白い」
二人は初めて、主君と軍師として向き合った。
しかし。
そのころ。
京の町では、一人の公家が一通の書状を読んでいた。
「織部信綱……」
九条兼雅。
朝廷に近い名門の公家である。
書状には、信綱の戦歴だけではなく、米の取引、借金、商人との関係、佐久間家との争いまで詳細に書かれていた。
兼雅は書状を机に置いた。
「武士ではないな」
隣の男が尋ねる。
「では、何者でしょう?」
「商人でもない」
兼雅は微笑んだ。
「国を作ろうとしている男だ」
そして書状の裏を見た。
そこには、御影道玄の印があった。
兼雅の表情が変わる。
「……また、あの男か」
同じころ。
井伊谷城の地下。
信綱の父、宗重は一本の蝋燭を前に座っていた。
信綱が入ってくる。
「父上」
「来たか」
「聞きたいことがある」
「何だ?」
「道玄は、俺を何にしようとしている?」
宗重はしばらく沈黙した。
そして、信綱を見た。
「お前を大名にするつもりだ」
「それだけか?」
宗重の顔が曇った。
「違う」
「では?」
「大名になったお前を使って、天下の仕組みそのものを変えるつもりだ」
信綱は黙った。
「道玄は、天下を取ろうとしているのか?」
「いや」
宗重は首を振った。
「天下を取る必要などない」
「……」
「天下を動かせばいい」
その言葉が、地下室に落ちた。
信綱はゆっくりと拳を握った。
刀で城を取る。
槍で国を取る。
そんな時代だと思っていた。
だが違う。
米を握る者。
金を握る者。
情報を握る者。
そして人の欲を握る者。
その者が、戦そのものを作る。
「父上」
「何だ?」
「俺は、道玄の駒にはならない」
宗重は目を細めた。
「では、どうする?」
信綱は答えた。
「道玄の盤ごと奪う」
その瞬間。
地上から、鐘の音が鳴り響いた。
敵襲。
信綱と宗重が顔を見合わせる。
地上へ出ると、城門の外に無数の松明が見えた。
だが、それは軍勢ではなかった。
商人だった。
何百もの荷車。
米。
塩。
鉄。
火薬。
そして、佐久間家の旗。
先頭に立っていた男が叫ぶ。
「織部信綱殿!」
信綱が城壁に立つ。
「何者だ!」
「佐久間景虎様よりの使者でございます!」
信綱は目を細めた。
「何の用だ?」
使者は笑った。
「戦ではございません」
そして、一枚の書状を掲げた。
「商談でございます」
信綱の背後で玄蕃が呟いた。
「始まりましたな」
「何がだ?」
「天下の商いです」
信綱は城下を見下ろした。
敵の軍勢ではない。
商人。
荷車。
米。
金。
そして情報。
戦国の本当の戦場が、ようやく姿を現した。
信綱は静かに笑った。
「ならば」
その目に、初めて「天下」が映った。
「俺も商売を始めよう」
だが。
その夜、信綱の寝所に置かれていた木札には、たった一言だけが刻まれていた。
「九条兼雅に会え」
信綱は木札を握りしめた。
そして、その裏側に刻まれたもう一つの文字を見て、凍りついた。
「お前の父を生かしたのは、私だ。」
信綱は顔を上げた。
暗闇の向こうから、御影道玄の声がした。
「次は、京だ」
天下への道は、城の外にあった。
そしてその先には、刀では切れない敵が待っていた。




