第十一話 大いなる野望
『大いなる野望』
第十一話 大いなる野望
天文二十年、春。
織部信綱は、初めて自分の領地を地図の上から眺めていた。
井伊谷城。
その周囲に広がる村々。
街道。
川。
米蔵。
港へ続く道。
そして、その先にある数十の城。
以前なら、ただの地名だった。
今は違う。
一つ一つが、敵になり得る。
味方にもなり得る。
そして、買うこともできる。
「殿」
背後から黒崎玄蕃の声がした。
「何だ?」
「三日間、地図ばかり見ておられます」
「三日ではない」
信綱は振り返った。
「十年先を見ている」
玄蕃が苦笑した。
「十年先ですか」
「十年後、俺はどこにいる?」
「城の中でしょう」
「違う」
信綱は地図を指した。
「ここにいる」
指先が地図の中央を叩いた。
「この地図の上に」
玄蕃の顔から笑みが消えた。
「……天下を?」
「そうだ」
信綱は即答した。
以前なら、そんな言葉を口にすれば笑われただろう。
だが今は違う。
信綱は城を持っている。
兵を持っている。
米を持っている。
商人を持っている。
そして軍師を持っている。
足りないものは一つ。
名だ。
大名としての名。
そして、その名を天下に認めさせるための権威だった。
「京へ行く」
信綱が言った。
玄蕃は頷いた。
「九条兼雅」
「そうだ」
「危険な人物です」
「だから会う」
「朝廷と繋がる公家です。あの男を味方にすれば、殿の地位は一段上がる」
「逆に敵に回せば?」
「面倒なことになります」
「なら、敵にしなければいい」
信綱は立ち上がった。
「俺は敵を減らす」
「殺さずに?」
「必要なら殺す」
信綱は笑った。
「だが、殺す前に使えるか考える」
その言葉を聞いた玄蕃は、深く息を吐いた。
「やはり、殿は普通の武将ではありませんな」
「褒めているのか?」
「恐れているのです」
信綱は笑った。
「それでいい」
◆
京。
春の風が、古い町並みを抜けていく。
信綱は質素な旅装束で歩いていた。
供はわずか十人。
その中には玄蕃とお葉もいる。
左近は井伊谷城に残した。
信綱は、あえて兵を連れてこなかった。
京で必要なのは槍ではない。
言葉だった。
そして、金だった。
九条兼雅の屋敷に入る。
「織部信綱殿」
兼雅は、静かに頭を下げた。
「よくお越しになりました」
「こちらこそ、お会いできて光栄です」
信綱も頭を下げる。
しかし、互いに相手の目を見ていた。
どちらも、相手が何を隠しているか探っている。
「率直に申し上げましょう」
兼雅が口を開いた。
「あなたは何を望んでいる?」
「城です」
「すでに持っているでしょう」
「国です」
「それも、いずれ手に入る」
「では、天下です」
部屋の空気が変わった。
兼雅は笑わなかった。
「天下とは?」
「誰もが安心して米を売り、商人が街道を行き来し、領主が勝手に戦を始められない国です」
「理想論ですな」
「違います」
信綱は答えた。
「商売です」
兼雅の眉が動いた。
「商売?」
「戦が多ければ米が高くなる。街道が閉じれば商人が逃げる。商人が逃げれば税が減る。税が減れば兵が減る」
信綱は静かに言った。
「つまり、戦国大名は戦をすればするほど国を弱くしている」
玄蕃が横で黙って聞いている。
「ならば」
信綱は続けた。
「戦を減らせば、国は強くなる」
兼雅が初めて微笑んだ。
「面白い」
「何がです?」
「あなたは天下を武力で取るつもりではない」
「武力も使います」
「しかし、武力だけではない」
兼雅は茶を一口飲んだ。
「あなたは、天下を仕組みとして考えている」
信綱は答えなかった。
「なるほど」
兼雅は書状を一枚取り出した。
「では、こちらを差し上げましょう」
そこには、信綱の名前と朝廷への推挙に関する内容が記されていた。
「これがあれば、あなたは単なる地方の武将ではなくなる」
「官位ですか」
「そうです」
信綱は書状を見つめた。
しかし、すぐには受け取らなかった。
「何が欲しい?」
兼雅が笑う。
「話が早い」
「ただではないでしょう」
「当然です」
兼雅は一枚の地図を広げた。
そこには京から各地へ伸びる街道が描かれていた。
「この街道を安全にしてほしい」
「誰から?」
「戦国大名です」
「つまり」
信綱が言った。
「俺に大名を抑えろと?」
「違います」
兼雅は首を横に振った。
「あなた自身が、街道を支配するのです」
信綱の目が光った。
それは、彼が最も欲しかったものだった。
城ではない。
領地でもない。
人と物が流れる道。
そこを押さえれば、国と国の間に立てる。
「わかりました」
信綱は書状を受け取った。
「引き受けます」
◆
その夜。
お葉は一人で町を歩いていた。
彼女の目的は、佐久間家の情報だった。
しかし、ある路地で足を止めた。
男がいた。
黒い僧衣。
細い杖。
顔には穏やかな笑み。
「久しぶりですね、お葉」
お葉の手が刀に伸びた。
「御影道玄……」
「怖い顔をなさる」
「あなたが信綱を操っている」
「操る?」
道玄は笑った。
「違います」
「では何?」
「育てているのです」
お葉は睨んだ。
「信綱はあなたの駒じゃない」
「ええ」
道玄は頷いた。
「もう駒ではありません」
「……」
「だから面白い」
道玄は懐から一枚の紙を取り出した。
「これを信綱に渡してください」
「何?」
「彼の父親、宗重についての記録です」
お葉は受け取らなかった。
「自分で渡せばいいでしょう」
「まだ、その時ではありません」
「なぜ?」
道玄は静かに笑った。
「真実は、一度に全部見せるものではないからです」
◆
翌朝。
井伊谷城。
柴崎左近のもとへ、急報が届いた。
「佐久間軍、動きました!」
「どこへ?」
「井伊谷ではありません」
「なら、どこだ?」
「西です」
左近が地図を見る。
「小田切家か?」
「違います」
使者は答えた。
「商人の町です」
左近の顔が険しくなった。
同じころ。
京にいる信綱のもとにも、その報告が届いた。
玄蕃が書状を読み終える。
「佐久間景勝が、商人の町を押さえに動いたようです」
「景虎は?」
「動いていません」
「つまり、景勝が独断で動いている」
信綱は頷いた。
「やはりな」
「何がです?」
「景勝は父親の首を取る前に、財布を奪う」
玄蕃が目を細めた。
「そして景虎は、その動きを知らない」
「ならば」
信綱は立ち上がった。
「景虎に知らせる」
「景勝の裏切りを?」
「そうだ」
「しかし、それでは佐久間家がまとまるのでは?」
信綱は笑った。
「逆だ」
机の上に一枚の紙を置く。
「父親に息子の裏切りを教えれば、親子は疑い合う」
「そして?」
「景勝は焦る」
「焦れば、何をするかわからない」
「そう」
信綱の目が鋭くなる。
「人間は追い詰められた時、一番大事なものを守ろうとする」
「景勝にとって一番大事なものは?」
「天下だ」
「では、景虎は?」
「家だ」
信綱は笑った。
「そこが違う」
その時だった。
お葉が部屋へ入ってきた。
「信綱」
「どうした?」
「道玄に会った」
玄蕃の顔が険しくなる。
「どこで?」
「京で」
「何を言っていた?」
「あなたは、もう駒ではない、と」
信綱は黙った。
お葉が続ける。
「そして、これを渡された」
宗重に関する記録を差し出す。
信綱が紙を開いた。
そこには、十年前の記録があった。
宗重が処刑された日。
井伊谷家。
佐久間家。
そして、滅んだ第三の家。
しかし、その下にもう一つの名前があった。
御影道玄。
さらに、その横には数字が並んでいた。
米。
銀。
鉄。
火薬。
馬。
すべての数量。
信綱は息を止めた。
「これは……」
玄蕃が覗き込む。
「戦の記録ではない」
「では何だ?」
「商取引の記録です」
信綱はページをめくった。
十年前。
二十年前。
さらにその前。
道玄は、複数の大名に商品を売っていた。
しかし、それだけではなかった。
敵にも売っている。
味方にも売っている。
戦争が起きるたびに、利益が増えている。
信綱は震える手で最後のページをめくった。
そこには一文だけがあった。
「戦を起こす者より、戦を必要とする者を支配せよ。」
信綱は顔を上げた。
「道玄は……戦を起こしていたのか?」
宗重が低い声で答えた。
「違う」
「父上?」
「戦を起こした者は、道玄ではない」
宗重は信綱を見た。
「戦を起こすよう、人間を仕向けていた者だ」
「誰だ?」
宗重は答えなかった。
その沈黙が、何より恐ろしかった。
「父上」
「……」
「誰だ?」
宗重は目を伏せた。
「それを知れば、お前はもう戻れない」
「俺は、とっくに戻れない」
信綱の声は静かだった。
「城を取った時からな」
宗重は苦笑した。
「そうか」
そして、初めてその名を口にした。
「御影道玄ではない」
信綱の目が見開かれる。
「道玄の上に、もう一人いる」
玄蕃も息を呑んだ。
「そんな人物が……?」
宗重は頷いた。
「道玄は、その男の命令で動いていた」
「誰だ?」
宗重が答えようとした、その瞬間。
城外から轟音が響いた。
火薬の爆発。
続いて兵の叫び声。
信綱は立ち上がった。
「敵襲か?」
左近からの使者が飛び込んできた。
「殿!」
「何だ!」
「城下の米蔵が爆破されました!」
信綱の顔が変わった。
「米蔵だと?」
「はい!」
「被害は?」
「一番大きな蔵が全焼です!」
玄蕃が叫んだ。
「これは陽動です!」
「何?」
「米蔵を狙ったのではない!」
玄蕃は地図を広げた。
「狙いは、城下の商人です!」
信綱は地図を見る。
商人の集まる区域。
街道。
川。
米蔵。
そして、城。
すべてが一本の線で繋がっている。
「誰だ……」
信綱が呟いた。
その時。
城門から伝令が駆け込んできた。
「殿!」
「今度は何だ!」
「城下の商人たちが、全員逃げ始めています!」
信綱は絶句した。
米を奪われたのではない。
商人を奪われたのだ。
金を奪われたのでもない。
信用を奪われた。
玄蕃が低く言った。
「殿」
「何だ?」
「これは戦ではありません」
「……」
「経済封鎖です」
信綱は拳を握った。
敵は城の外にいるのではない。
市場にいる。
街道にいる。
商人の中にいる。
そして、その中心にいるのは。
「宗兵衛……」
信綱が呟いた。
今井宗兵衛。
天下を動かす商人。
彼ならできる。
しかし。
宗兵衛は本当に敵なのか。
それとも。
誰かに命じられているのか。
信綱はゆっくりと顔を上げた。
「京へ戻る」
玄蕃が驚く。
「城を捨てるのですか?」
「違う」
信綱の目に、かつてない光が宿っていた。
「天下を取りに行く」
その瞬間。
京の御影道玄は、一人で碁盤を眺めていた。
盤上には、白と黒の石が並んでいる。
そして、その中央に一つだけ赤い石が置かれていた。
道玄が笑う。
「ようやく、ここまで来た」
背後から声がする。
「信綱は、もう止まりません」
「それでいい」
「彼が天下を取れば?」
「それでもいい」
「なぜ?」
道玄は振り返った。
「天下を取る者より」
その目が鋭く光る。
「天下を取った者を動かす者の方が強い」
そして、最後の石を盤上に置いた。
「さあ、織部信綱」
「お前の野望が、本物かどうか見せてもらおう」
信綱の前に広がる地図。
そこには、まだ彼の名が一つの城にしか記されていない。
だが。
その指は、すでに地図の中央を越えていた。
京。
そして、その先。
天下。
信綱はまだ知らなかった。
自分が天下を狙っているのではない。
天下そのものが、すでに自分を狙っていることを。




