エピソード5-5
「……綾は、本名です」
「そうか」
「はい」
「店での名前は、誰が付けた?」
「雪乃ママですけど……」
「だよな」
響さんは、納得したように頷いた。
響さんはなにを、確認しているんだろう。
「綾」
低く、落ち着いた声。
その声で名前を呼ばれると、胸が詰まる。
……この感覚は、なんだろう。
「……はい?」
「嘘だろ?」
「えっ?」
「面接のときの嘘も、雪乃がお前の本当の年齢を知らないって話も――嘘だよな?」
「……」
どうして。
背中を、冷たいものが流れた。
自分の顔が強張っているのが、はっきり分かる。
私とは対照的に、響さんは表情ひとつ変えなかった。
「雪乃は十年近く、夜の世界にいる。人の嘘なんて簡単に見抜く。もし本当に雪乃に嘘をついていたなら、あの店で雇ったりしないだろうし、綾乃なんて名前も付けない」
「……」
その通りだった。
雪乃ママと響さんの付き合いが長いことは、この前お店で雪乃ママから直接聞いた。
この人は、私よりずっと雪乃ママを知っている。
そんな相手に、私の嘘が通じるはずがない。
どれだけ頭を使って取り繕っても、全部見抜かれる。
この漆黒の瞳に……。
私は大きく息を吐いた。
同時に、覚悟を決める。
響さんは、もう気づいている。
それなら、雪乃ママや店に迷惑をかけないために、私にできることはひとつしかない。
私は嘘をついてきた。
それでも響さんが怒らず、穏やかなままでいるのは――直接、私の口から聞きたいからに違いない。
……話そう。
私は口を開いた。
「……すみませんでした」
「うん?」
「私は、響さんに嘘をついていました」
「そうか」
「はい」
どうして、こんなに落ち着いていられるんだろう。
普通なら怒るはずだ。
私だったら、間違いなく感情をぶつけている。
しかも、この人は組長なのに。
「理由があるんだろ?」
「……」
「歳や名前を偽るのは、夜の世界じゃ珍しくない。誰だって事情を抱えている。俺はそれ自体を責める気はない。ただな――その嘘は、吐かなくてもよかった嘘じゃないのか?」
「……私は……」
「なんだ?」
「雪乃ママと、あのお店が好きなんです」
「ああ、そうだろうな」
「年齢をごまかして働いてたのは私です。自分が困るのは仕方ない。でも、雪乃ママやお店に迷惑がかかるのは嫌なんです」
「……なるほどな」
響さんは一本タバコを取り出し、指先で持ったまま、それを見つめていた。
見つめたまま、なにかを考えているようだった。
沈黙が流れる。
時間の感覚が曖昧になるほどの静けさ。
だけど、その空気は不快じゃない。
むしろ、落ち着く。
いつもなら、誰かといて沈黙になると居心地が悪くなる。
無理にでも言葉を探してしまう。
それが面倒で、私は特定の人としか話さない。
でも、響さんといると、その感覚はない。
それどころか、心地いい。
そんなふうに感じる自分が、少し意外だった。
「綾」
タバコを見つめたまま、響さんが私の名前を呼ぶ。
「……はい」
「お前が心配してるのは、歳がバレることだけか?」
「はい」
「他にはないんだな?」
「……他に?」
「例えば、夜働いてることを親に知られたくないとか」
……ああ、そういう意味か。
「うちは、完全な放任主義ですから……」
「放任主義?」
「はい。親にとって、私はいないようなものなので」
……親の話は、あまりしたくない。
家を出てから、母親とは一度も連絡を取っていない。
連絡先はお互いに知っている。それでも、連絡はしない。
私も話したいとは思わないし、母親も私がいなくなって清々しているはずだ。
家を出るとき、生活費を出してくれる男を探せと言った人だ。
私が年齢をごまかして夜に働いていると知っても、なにも言わないだろう。
「分かった。お前が心配してるのは、歳のことだけだな」
「そうです」
「雪乃も知っているんだ。別に不安になる必要はねぇ」
「はい」
「もし、なにかあったら……」
「……?」
響さんが、私の前に置いたもの。
それは名刺だった。
縦書きの名刺。
中央には、筆で書いたような達筆な文字で――神宮 響。
右端には、見覚えのあるようなマークと、直視するのをためらう漢字の並び。
名前のすぐ右には、雪乃ママから聞いていた響さんの肩書きが印刷されている。
「裏に、俺の連絡先が書いてある」
名刺を裏返すと、確かに連絡先が並んでいた。
事務所、自宅、携帯電話。
住所まで、きちんと書かれている。
「なにか困ったことがあったら、いつでも連絡しろ」
「はい、ありがとうございます」
響さんに頼らなければならない状況なんて、そうそう起きない。
そう思いながら、名刺入れを持っていなかった私は、それを財布のカード入れにしまった。
響さんが、目の前のコーヒーに口をつける。
カップを持つ左手。
薬指に光る、ゴールドの指輪。
装飾のない、シンプルなリング。
それなのに、どんな派手な指輪よりも強く記憶に残る。




