エピソード5-6
同じ形でも、つける指が違えば、こんなふうには感じなかったかもしれない。
仕事柄、男の人の手を見る機会は多い。
左手の薬指の指輪は、守るべき存在がいるという印。
私は、その手から視線を逸らした。
理由は分からない。ただ、見たくなかった。
理由を聞かれても、答えられない。
それでも、その指輪のある手を直視したくなかった。
コーヒーカップを置き、響さんが口を開く。
「今日は、店に出ないんだろ?」
「はい」
昨日も出勤したし、今夜は久しぶりに、溜まり場に顔を出そう。
瑞貴がチームを作ってから、一度も行っていない。
「次に出勤するときは、その日の夕方に連絡をくれ」
「えっ?」
「食事は、出勤前にしよう」
「……それって、同伴ですか?」
「嫌か?」
「……いいえ。ありがとうございます」
「あぁ。今日は帰って寝ろ」
「……えっ?」
「寝不足なんだろ?」
響さんは、柔らかく微笑んだ。
「……はい」
「送っていく」
そう言って立ち上がる。
私はテーブルの上のタバコとスマホをカバンに入れ、後に続いた。
立ち上がった私を確認して、響さんは歩き出す。
急がなくていいような、ゆっくりとした歩調。
入口近くの席には、さきほど車を運転していた男が座っていた。
響さんの姿を見つけた男は、すぐに立ち上がった。
私たちが近づくと、その視線は足元へと落ちる。
そのまま、私たちが前を通り過ぎるまで、彼が顔を上げることはなかった。
エレベーター前で響さんが足を止める。
背後にいた男が、すぐにボタンを押した。
ラウンジを出てから車に乗るまで、響さん自身がなにかをする場面は一度もなかった。
エレベーターの操作も、扉を押さえることも、車のドアを開けるのも――すべて、付き添いの男が行っていた。
それを見て、思う。
……生きている世界が、違う。
そう感じた瞬間、ほんの少しだけ胸が冷えた。
一緒にいても、会話をしていても、越えられない壁がそこにはある気がする。
走る車の窓から流れる景色を眺めながら、そんなことを考える。
隣では、響さんが来たときと同じように腕を組み、目を閉じていた。
考え事をしているのか、眠っているのかは分からない。
だけど、話題を探す必要はない。
響さんといる沈黙は、苦にならなかった。
響さんがどう感じているかは分からないけど。
車に乗ってすぐに伝えた、私の住むマンション。
車は、そこへ向かって走っている。
見慣れた景色が、次々と視界に入ってくる。
マンションの前で、車は停まった。
音もなく止まったのに、その瞬間、閉じていた瞳が開く。
響さんは一瞬、車窓越しにマンションを見てから、ゆっくりと私へと視線を移した。
……どうしよう。
送ってもらったんだし、「お茶でもどうですか」って言うべき?
でも、さっきコーヒーを飲んだばかりだし。
それ以前に、冷蔵庫には、水しかなかった気がする。
……困った。
「どうした?」
響さんが、混乱している私を不思議そうに見ている。
「……えっと……」
「うん?」
優しい表情で、私の顔を見つめていた。
……仕方ない。
いざとなったら、響さんに部屋で待ってもらって、コンビニまで走ろう。
そう覚悟を決めて、口を開いた。
「……あの……お茶でも……」
私の言葉に、響さんはにこりと微笑んだ。
「綾」
「……はい?」
「気を遣うな」
「えっ?」
「お前は、まだガキなんだから」
そう言って、響さんが私の頭に手を伸ばす。
頭の上に伝わる、あたたかさ。
『お前は、まだガキなんだから』
いつもなら、そんなことを言われたら反発している。
文句を言うか、手が出るか、そのどちらかだ。
なのに、響さんに言われても、嫌な気分にならない。
それどころか、こんなふうに優しく頭を撫でられるなら――まだガキのままで、いいかもしれない。
そんなことを考えてしまう私は、相当疲れているんだと思う。
R.B1 【完】
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