エピソード5-3
「どうした?」
頭上から声が降ってくる。
見上げると、優しい笑みを浮かべてこちらを見ている響さん。
今まで気づかなかったけれど、彼は背が高い。
私は立ったまま人と話して、見上げることなんて滅多にない。
「綾乃?」
「……えっ?」
「大丈夫か?」
「は……はい。大丈夫です」
なぜか、響さんの話が頭に入ってこなかった。
◇◇◇◇◇
ホテル最上階のラウンジ。
壁一面がガラス張りで、街の景色が一望できる。
落ち着いた色で揃えられたテーブルと椅子が、窓の外の光を引き立てていた。
「ここでなにか飲んで待っていろ」
後ろについてきていた男にそう告げて、響さんは奥へと歩みを進める。
向かったのは、ラウンジのいちばん奥。
仕切りがあり、他の席からは視線が届きにくい席だった。
響さんは、手前の椅子を引いてくれる。
「ありがとうございます」
私が腰を下ろすと、向かいに響さんも座った。
「飲み物は?」
「アイスコーヒーで」
「アイスコーヒー?」
「はい」
「ジュースじゃなくていいのか?」
「……はい?」
「まだ高校生だろ。無理はしなくていい」
……今さら?
あれだけ笑っておいて、今になってその気遣いって、必要?
しかも、なんで笑いを堪えているんだろう。
響さんって優しい顔しているけど、実は性格が悪いんじゃないだろうか。
そんな考えが浮かんだところで、ラウンジのスタッフがやってきた。
「失礼します。ご注文は?」
ついさっきまで笑いを押し殺していた響さんの表情が、すっと切り替わる。
「アイスコーヒーでいいのか? それとも別のものにするか?」
響さんが、私に視線を向けた。
「アイスコーヒーで大丈夫です」
そう答えると、響さんが頷いた。
「アイスコーヒーと、ホットコーヒー」
「かしこまりました」
店員が離れると、響さんはスーツのポケットからタバコの箱を取り出す。
それを見た瞬間、私は無意識に制服のポケットからライターを取り出していた。
タバコを咥えた響さんが、漆黒の瞳を細める。
「いい」
「えっ?」
「今、仕事中じゃねぇだろ?」
……ああ、そうか。
今は仕事中じゃなかった。
「職業病だな」
自分でタバコに火をつけ、響さんが小さく笑う。
職業病。
そんなに仕事が染みついてたんだ。
そう考えると、思わず苦笑が漏れた。
私は握っていたライターを、そっとテーブルの上に置いた。
ぼんやりとそれを眺めていると、響さんは手元の灰皿をテーブルの中央に置いた。
「吸うんだろ?」
どうして分かるんだろう。
響さんと会ったのは、お店で一回と今日だけ。
お店では、女の子がお客さんの前でタバコを吸うことが禁止されている。
あの日も、今日も、響さんの前では吸っていないはず。
「なんで、分かるんですか?」
「ん?」
「私がタバコを吸うって」
首を傾げると、響さんは片方の口角だけを上げた。
「それ」
指差されたのは、テーブルの上のライターだった。
「……ライターですか?」
「吸わねぇなら、制服のポケットからそんな物は出さねぇはずだ」
「なるほど……」
確かに、ライターを出したポケットには今タバコが入っている。
響さんには、敵わない。
そう思いながら、ポケットの中の箱に手を伸ばしかけ――止まった。
今は、制服を着ているんだった。
いくら老けて見えるとしても、公共の場で制服姿のままタバコはまずい。
「吸わないのか?」
動きを止めた私に、響さんが尋ねる。
「……はい。今は……」
必死に理由を探す。
「今は?」
漆黒の瞳が、まっすぐに向けられる。
――喉の調子が。
……さっきまで普通に話してた。
――タバコを持っていない。
……それじゃ、響さんのタバコを欲しがってるみたい。
視線を受け止めきれず、顔に熱が集まる。
心の奥まで見透かされそうな、その瞳。
冷静さを失った頭が、うまく働くはずはなかった。
「制服なので、タバコはまずいかなって」
必死に考えた末、口から零れたのは、そのままの理由だった。
「そんなことか。気にする必要はない」
「……はい?」
「俺が一緒だ。誰も、なにも言わない」
低く、優しい声。
穏やかな口調とは裏腹に、言葉は鋭い。
響さんの瞳と声には、揺るぎない確信のようなものがあった。
ためらっていたはずの手が、自然に動く。
ポケットからタバコの箱を取り出し、一本咥える。
高い金属音が、かすかに耳に残った。
正面から差し出された火に先端をかざす。
ゆっくり煙を吐いたところで、トレーを持った店員が近づいてきた。
「お待たせしました」
私の前に、丁寧にアイスコーヒーが置かれる。
その瞬間、店員の視線が指先のタバコに留まった。
なにか言われる。
そう思って顔を上げる。
店員と視線がぶつかった時だった。
「おい」
低く、圧のある声。
「なにか用か?」
初めて聞く、響さんの冷たい声だった。
「い……いえ、失礼しました」
店員は慌てて頭を下げ、響さんの前にコーヒーを置く。
その手が、わずかに震えていた。
「失礼しました」
もう一度頭を下げ、店員は足早に席を離れていった。
響さんは何事もなかったかのように、運ばれてきたばかりのコーヒーに口をつける。
――誰も、なにも言わない。
じゃなくて、誰も、なにも言えないのだ。
この人は優しくて穏やかで、それでも本物なんだ。
勢いだけで生きている私とは、住む世界が違う。
深く関わらない方がいいのかもしれない。




