エピソード5-1
いつもと変わらない日常。
いつもと変わらない教室の光景。
クラスメートたちは席に着き、教師は教科書に視線を落としたまま、理解が追いつかない英語を口にしている。
その声を聞いているうちに、意識がゆっくり沈みかけた。
響さんがお店に来てから一週間。
相変わらず店は忙しく、昨日も出勤していた私は、一時限目から強い眠気に捕まっている。
……眠い。
この授業なら、普段はそのまま眠れてしまう。
だけど今日は、どういうわけか瞼が落ちてこない。
眠気だけが残り、逃げ場を失ったまま授業は終わった。
私は立ち上がる。
このまま教室にいたら、苛立ちがどこかに向かいそうだった。
そうならないためにも、私は帰ることにした。
早退といっても、担任に話したわけでも、保健室に寄ったわけでもない。
実際は、ただの無断退出だ。
「綾!!」
廊下に出た瞬間、背中に衝撃が走った。
体当たりされ、足はもつれ、危うく廊下の中央で派手に転ぶところだった。
反射的に振り向き、腕が前に出る。
「きゃっ!!」
高い声と同時に、相手は素早く身をかわした。
この学校で、私を名前で呼ぶ人間は多くない。
それが女の声なら、答えはひとつだった。
「凛っ!」
「きゃー、ごめんなさい!」
やっぱり予想どおりだった。
大げさに頭を下げながらも、凛はどこか楽しそうに笑っている。
その顔を見た瞬間、さっきまで張りついていた感情が抜け落ちる。
私は息を吐いた。
「綾、どこ行くの?」
「帰る」
「なんで?」
「眠いから」
「はぁ? 眠い? 具合悪いんじゃなくて?」
「具合は悪くないわよ。気分は良くないけど」
「気分が悪い!? なにかあったの? 誰かに――」
「苛められてはないけど」
「……けど?」
「体当たりされた」
「……申し訳ありませんでした……」
力なく頭を下げる凛を見て、私は思わず吹き出した。
「そんなに眠いなら、空き教室で寝ればいいじゃん」
「あそこは、人が多いから」
「綾が行って、瑞貴に『眠い』って言えば、すぐに誰もいなくなるよ」
「いいの。最近寝不足だし、ちゃんと眠りたいから帰って寝る」
「そっか」
「ねえ、凛。伝言、お願いできる?」
「いいけど、誰に?」
「瑞貴に、『帰るからお昼は一緒に食べられない』って、伝えて」
「分かった。今日もバイト?」
「まだ分からないけど、多分休み」
「じゃあ、たまには溜まり場にも顔出しなよ?」
「うん。起きたら連絡する」
「おやすみ」
今の時間にはそぐわない挨拶に手を振り、私は校舎を後にした。
「眩しい……」
校門を出た瞬間、強い日差しが視界を塞ぐ。
この時間に外を歩くこと自体、ほとんどない。
私は足取りも重く、自宅マンションに向かう。
学校から繁華街にあるマンションまでの距離が、やけに長く感じられる。
……早くベッドに横になりたい……。
そう考えながら歩いていると、背後から車のエンジン音が近づいてきた。
車一台がやっと通れるほどの細い路地だ。
……こんなに狭い道をわざわざ通らなくても。
そう思いながら道の端に寄る。
譲っているはずなのに、エンジン音は近づいたまま、なぜか速度を落としている。
追い越すなら、さっさと行けばいいのに。
文句のひとつでも言ってやろう。
そう考えた私は、苛立ったまま振り返った。
でも——……。
……まずい。この車には、なにも言えない。
私は瞬時にそう悟った。
ゆっくりと近づいてくるのは、黒い車体。
太陽の光を受け、重く鈍い光を放っている。
フルスモークのプレジデント。
……振り返らなければよかった。
数秒前の自分に、思わず手が出そうになる。
視線を逸らすべきか、という考えが不意に浮かぶ。
だけど私は、それができない性分だった。
私はその車から目を離せない。
車は私の横まで来ると、静かに停まった。
……文句を言うつもりだったのに、どうやら言われる側になるらしい。
無意識に、右手のカバンを左に持ち替えた。
空いた利き手で、拳を握る。
こんな状況でも、身体は勝手に備えている。
相手が誰でも、簡単に引く気はなかった。
拳にぐっと力を込めた。
停まった車の後部座席の窓が、ゆっくりと下がる。
「綾乃」
穏やかで、柔らかい声。
……この声は……。
「響さん!?」
「おはよう」
優しい笑みを向けられた瞬間、身体から力が抜けた。
「お……おはようございます」
……いや。挨拶なんてしている場合じゃない。
今、私は制服を着ている。
お店のお客さんである響さんに、この格好を見られたら――。
もう働けなくなる。
そういう未来が、一気に現実味を帯びた。
……どうしよう。誤魔化しようがない。
でも、今クビになったら生活が成り立たない。
……どうする。
「綾乃」
「は……はい」
「飯を食いに行く約束をしていただろ?」
「は?」
「忘れたか?」
「……いいえ。覚えていますけど」
「今から時間あるか?」
学校をサボって抜けてきたんだから、時間はたっぷりある。
眠気で帰ったはずなのに、この状況で眠気は完全に消えていた。
「……はい」
「乗って」
その声と同時に、運転席から男が降りてくる。
そして、響さんとは反対側の後部座席のドアが開いた。
本当は、この場から走って逃げたい。だけど、なにかしらの形をつけなければならない。
クビになるのは仕方がない。




