エピソード4-5
「綾乃さん、おはようございます」
黒服のスタッフが声をかけてくる。
「おはようございます」
時間を問わないこの挨拶にも、もう戸惑わなくなった。
「綾乃ちゃん」
挨拶を交わしている私に気づき、雪乃ママが慌てた様子で駆け寄ってきた。
「雪乃ママ、すみません。遅くなってしまって……」
いつも和服姿で落ち着いている雪乃ママが、今日は珍しく焦っていた。
そんなママが私の腕を勢いよく掴んだ。
「雪乃ママ?」
「雪乃ママ、どうぞ」
カウンターの中から、男の子がお茶の入ったグラスを差し出す。
「ありがとう」
雪乃ママはそれを受け取ると、一気に飲み干した。
グラスを置き、深く息を吸って呼吸を整える。
「ママ、大丈夫?」
「ええ。おはよう、綾乃ちゃん」
妖艶な笑みを浮かべた雪乃ママは、いつもの上品で落ち着いた表情に戻っていた。
「おはようございます」
「早速で悪いんだけど、満席なのよ」
「満席?」
「ええ。女の子が全然足りなくて……」
「じゃあ、私、着いてきます」
そう言って店の奥へ向かおうとした瞬間、腕を引かれた。
「綾乃ちゃん」
「えっ?」
「今日のお客様……」
雪乃ママは一瞬、言葉を選ぶように口を閉じた。
「なんですか?」
「ちょっと、特殊なお仕事の方たちなの」
……特殊。
その意味深な言葉に、私は反射的に柱の陰から、そっと店内を覗く。
確かに。特殊だ。
厳ついスーツ姿の男たちが、ソファを埋め尽くしている。
「大丈夫?」
雪乃ママが、私の顔を覗き込む。
「大丈夫です。任せてください」
普通のお客さんより、やりやすいかもしれない。
そう思って、私は微笑んだ。
「よかった」
雪乃ママの表情が、少し緩む。
「どのテーブルに着けばいいですか?」
「いちばん奥をお願いできるかしら」
いちばん奥。それは特別席だった。
「綾乃ちゃん?」
「は、はい。分かりました」
やり取りを見ていたボーイの男の子が近づいてくる。
「ご案内します」
「いいわ。私が案内するから」
雪乃ママはやんわりと断った。
「いちばん奥のテーブルには、この辺り一帯を仕切っている組の組長さんがいるの。そこがいちばん、安全だから」
落とした声で、耳元で囁かれる。
〝組長〟と〝安全〟。そのふたつの言葉が、どうしても結びつかなかった。でも、これは雪乃ママの配慮に違いない。
「ありがとうございます」
その気遣いに、素直に頭を下げた。
「行きましょうか?」
一度、深呼吸をする。
「はい」
私は一歩、踏み出した。
一歩前を歩く雪乃ママに続き、店の奥へ向かう。
店内にいる人たちの視線が、全身に刺さる。
特別席へと続く通路は、すべてのボックス席から見える位置にある。
雪乃ママに連れられて歩いているのだから、目立たないわけがなかった。
こんな状況でも、負けず嫌いが顔を出す。
俯いたら、負けた気がする。
だから私は、前だけを見て歩いた。
無数の視線を浴びながら辿り着いたのは、特別ルーム。
薄いカーテンで仕切られたその席は、限られた人しか座れない場所。
この世界での限られた人とは、お金を使ってくれる人という意味だ。
「響さん」
雪乃ママが、カーテンの上がった出入口から中へ足を踏み入れる。
「なんだ?」
返ってきたのは、低くて穏やかな男の声だった。
「紹介したい子がいるんだけど、いいかしら?」
「ああ」
「綾乃ちゃん」
名前を呼ばれ、私は初めて特別ルームの中に足を踏み入れた。
外からは人影程度しか見えなかった空間は、思っていた以上に広い。
「はじめまして。綾乃です。よろしくお願いします」
挨拶をして顔を上げた瞬間、思わず息を呑んだ。
正面の上座に座っているこの人が、組長なのだろう。
でも、まったくヤクザには見えない。
想像していた人物像とは、あまりにも違う。
ヤクザと接した経験なんてほとんどないけれど、小太りで厳つい顔の中年を思い浮かべていた。
目の前にいるのは、穏やかで落ち着いた大人の男性。
黒いスーツを着てはいるけれど威圧感はなく、むしろ洗練された印象すらある。
まっすぐに向けられた視線から、目を逸らせなかった。
漆黒の瞳が私を見つめている。
「綾乃ちゃん?」
雪乃ママの声で、はっと我に返る。
「……失礼しました」
そう言いながら、ようやく気づいた。
女の子は十分に足りている。
この席には、組長を含めて客は三人だけ。
組長の隣には、この店のナンバーワンであるアリサがぴったりと寄り添っているし、ヘルプ用の椅子にも女の子が座っている。
他のテーブルと比べても——私がここに着く必要は、ないように思えた。
「アリサちゃん」
「はい?」
「綾乃ちゃんと代わって」
「えっ?」
雪乃ママの言葉に驚いたのは、アリサだけじゃなかった。
私も、空になったグラスに水割りを作ろうとしていた女の子も、思わず息を呑んで雪乃ママを見た。
組長がアリサを指名していないのは分かる。
でも、すでに組長の隣に座っているナンバーワンのアリサを、バイトの私と代えるなんて。
アリサが組長を狙っているのは、誰の目にも明らかだ。
この店を貸し切るということは、それだけの金額を落とすということ。
そんな客を自分のものにできれば、ナンバーワンとしての立場も収入も安泰だ。
バイトの私には、売り上げなんて関係ないのに。
「アリサちゃん」
雪乃ママの優しく上品な声が響いた。
促すように妖艶な笑みを浮かべた雪乃ママを見つめ、アリサは一瞬だけ悔しそうな表情を見せる。だけど、それは本当に一瞬のことで、すぐに組長へと微笑みを向ける。
「響さん、ごゆっくり。失礼します」
「ああ」




