エピソード4-4
「なに?」
「とりあえず連絡しろ」
「連絡? どこに?」
「店だ」
「店?」
「理由つけて、遅れるって言え」
「理由って……例えば?」
「なんでもいい」
「その『なんでもいい』がいちばん困るの」
「店の奴らは、お前が高校生ってことを知ってるんだろ?」
「うん……ママだけ」
「なら簡単だ」
瑞貴が口元を歪めた。
「……なにが簡単なの?」
「『放課後に担任に呼び出されて、今、終わった。急いで向かうけど少し遅れる』って、言えばいい」
「嫌よ。そんなこと言ったら、雪乃ママにどう思われるか……」
「よく考えろ」
「なにを?」
「今は印象の話をしている場合じゃねぇだろ。どっちにしても悪くなる。『授業サボって昼寝して寝過ごしました』って言うよりは、まだマシだ」
……確かに、その通りだった。
私はスマホを取り出し、雪乃ママの番号を呼び出す。
数回の呼び出し音のあと、落ち着いた声が聞こえた。
『どうしたの? 綾乃ちゃん』
いつもと変わらない、上品で優しい声。
私は、瑞貴が考えた言い訳をそのまま伝えた。
『分かったわ。急がなくていいから、気をつけて来てね』
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
通話を切ったあと、大きく息を吐く。
罪悪感を吐き出したかっただけかもしれない。
……ごめんなさい、雪乃ママ。
この気持ちは、バイトを頑張って返そう。
心の中でそう決めた。
「行くぞ」
視線を向けると、さっきまでソファに座っていた瑞貴は、もう立ち上がって出入り口の前に立っていた。
「……どこに?」
「いつまで寝ぼけてんだ。いい加減にしろ」
どうやら、相当呆れられているらしい。
「バイトに行くんだろ? 家まで送る」
なるほど、そういうことか。
「ありがとう、瑞貴」
そう言うと、瑞貴は乱暴に髪をかき上げた。
「早く行くぞ」
顔を逸らしたまま、空き教室を出ていく。
「あ、待ってよ」
慌てて立ち上がり、私は瑞貴のあとを追った。
先に行ったはずの瑞貴は、少し離れた場所で立ち止まって待っていた。
瑞貴は本当に優しい。
自然と笑みが零れた。
そのまま家まで送ってくれた瑞貴は、なぜか私の家でシャワーまで浴びた。
「お前がバイト行く間、俺は溜まり場に行く」
マンションの下でそう言う。
「じゃあ、飲み物でも飲んで待つ?」
「いや、俺もシャワー浴びてから行く」
「……は? 着替えは?」
「クローゼットにあるだろ。制服で夜の繁華街は無理だ」
私がここに住み始めてから、瑞貴は時々泊まりに来る。
夜は繁華街にいることが多く、バイト帰りに顔を合わせることもある。
その流れで泊まるから、瑞貴の服は何着かクローゼットに入っている。
「……そう」
拒む理由はなかった。
並んでマンションに入り、先に私がシャワーを浴びる。
準備をしている間に、瑞貴がシャワーを使った。
支度を終え、また並んで外に出る。
「じゃあな」
「うん、ありがとう」
店の近くで別れ、私はそのまま店へと向かった。
従業員用の入口から中に入り、控え室のドアを開ける。
中では、顔なじみになった専属ヘアメイクの女性が待っていた。
「綾乃ちゃん、おはよう」
「おはようございます、マリさん。遅くなってすみません」
「全然、大丈夫。今日はこれに着替えてね」
差し出されたのはロングドレス。
思わず息が止まる。
真紅の、美しいドレスだった。
「雪乃ママが、綾乃ちゃんに似合いそうって、新調してくれたんだよ」
「えっ? 雪乃ママが?」
「うん」
マリさんがにこりと笑う。
「……嬉しい」
「綾乃ちゃんは、雪乃ママのお気に入りだからね」
「はい?」
ドレスに着替えようとしていた手が止まった。
「ねえ、綾乃ちゃん。知ってる?」
「……なにをですか?」
「雪乃ママから名前の漢字をもらったの、綾乃ちゃんが初めてなんだよ」
「そうなんですか?」
「うん」
「……知らなかった……」
嬉しい。でも、それと同時に胸の奥がざわつく。
「大変。綾乃ちゃん、急がないと」
そうだった。今日は遅刻しているんだった。
急いで真紅のロングドレスに着替えると、マリさんが手早く髪を整え、メイクを仕上げてくれた。
「はい。綾乃ちゃん、完成」
大きな鏡に映っているのは、いつもの私じゃない。
綾乃だった。
この姿になると、自然と気持ちが切り替わる。
背筋が伸び、指先にまで神経が行き届く。
今の私は綾じゃない。綾乃なんだ。
そう言い聞かせるように一度目を閉じ、ゆっくりと開いて鏡の中の自分に微笑んだ。
「今日も綺麗ね、綾乃ちゃん」
「ありがとう、マリさん」
「いってらっしゃい。頑張ってね」
その声に見送られ、控え室を出る。
奥へ進むと、もう一枚の扉がある。
その向こうが、私の場所。
綾乃の居場所だ。
深呼吸をして気持ちを整え、ドアノブに手を掛ける。
薄暗い通路に、煌びやかな光が滲み出ている。
一歩踏み出すと、そこは別世界だった。
目に入るものすべてが洗練された高級品。
普段の私なら、見ることも触れることもない調度品。
シャンデリア、テーブル、ソファ、置かれた小物、グラスや食器。
そのすべてが、雪乃ママが選び抜いたもの。
ここで働く人たちも同じ。
ここは、雪乃ママが作り上げた世界。
客でさえ、許可がなければ足を踏み入れられない。




