エピソード3-3
三時間後。
私の腰には、今にも飛び立ちそうな真紅の蝶が、大きく羽を広げて止まっていた。
痛くなかったと言えば、嘘になる。
最初はチクチクする程度だった感覚が、時間とともに身体の奥に響く痛みに変わっていった。
額に脂汗が浮かび、痛みに耐えようとして、身体に自然と力が入る。
背もたれにしがみついていると、瑞貴が横から顔を覗かせた。
「痛いか?」
痛いに決まっている。
そう言いかけて、飲み込んだ。
負けず嫌いで、強がりな私は、「痛い」と言えなかった。
「……全然、痛くない……」
「そうか」
瑞貴は鼻で笑った。
たぶん、強がりだって分かっていたと思う。
瑞貴は私の額の汗を拭き、背もたれを握り締めていた私の手を、自分の手に握らせた。
そのまま、ずっと私を見ていた。
心配そうで、どこか翳りのある目で。
「綾ちゃん、終わったよ」
楓のその一言で、全身の力が一気に抜けた。
大きな溜息が、口から零れる。
痛みから解放された感覚と、やり切った感覚が重なった。
腰に触れる消毒液の冷たさが、熱を持った肌に心地よく広がる。
「見てみる?」
楓が部屋の隅にある大きな姿見を指した。
「うん」
頷いて、握り締めていた瑞貴の手を離す。
瑞貴の大きな手には、私の爪の痕がはっきりと残っていた。
「ごめん、瑞貴」
「気にすんな」
瑞貴は笑って、私の頭を撫でてくれた。
「……でも……」
あれだけ痕がついているなら、痛くないはずがない。
「早く見てこい」
瑞貴は私の手を引いて立たせ、背中を軽く押してくれた。
「……うん」
気になりながらも、私は鏡の前に立つ。
鏡に背を向け、服の腰のあたりを捲り上げた。
そこには、今にも飛び立ちそうな真紅の蝶が、羽を大きく広げていた。
「いいじゃん」
鏡越しに、瑞貴の顔が映る。
「うん」
鏡の中の私が満足そうに頷く。
「楓、ありがとう」
後片付けをしている楓に声をかける。
楓は手を止め、顔を上げた。
「どう? 気に入ってくれた?」
「うん。かなり」
「それはよかった。瑞貴は来週だったよな?」
……え? 今、なんて言った?
「楓。その話はあとで連絡する」
「うん? 了解」
「綾、行くぞ」
「……瑞貴?」
瑞貴は私の腕を掴み、そのまま部屋を出ようとする。
「楓、また連絡する」
「分かった」
それだけ残して、瑞貴は私を引っ張って外へ出た。
「ねえ、瑞貴ってば」
「あ?」
玄関を出てエレベーターの前まで来たところで、ようやく瑞貴は足を止め、私の腕を放した。
「私、まだお金を払ってないんだけど」
「あいつは受け取らない」
「どういう意味?」
「……もう払った」
「は?」
「俺からの、ひとり暮らしと就職祝いだ」
「……」
「ありがたく受け取れ」
瑞貴は、どこか翳りのある目で笑っていた。
いつもなら、『勝手なことしないで』って、怒鳴っていたはずなのに。今日は言葉が出なかった。
瑞貴の瞳が、あまりにも切なかったから。
「……ありがとう」
瑞貴は、ようやく柔らかく笑った。
「今日は早く帰って寝ろ」
「……まだ夕方だよ」
「熱が出るかもしれねぇ。今日は夜遊び禁止だ」
「は?」
繁華街に、夜が降りはじめている。
人工の光に引き寄せられて、人が集まってくる。
ここが、私の居場所。
唯一の居場所だった。




