エピソード3-2
◇◇◇◇◇
瑞貴は昨日、起きられないから泊まりに来て起こせと言っていたはずなのに。
スマホのアラームで目を覚ました私より先に起きていた。
眠気で閉じそうになる瞳を無理やり開こうとする私を、瑞貴は楽しそうに眺めている。
どうにかベッドから起き上がり、抗議した。
「……起きられなかったんじゃないの?」
「そう思ってたけど、目が覚めた」
「それなら、私がわざわざ泊まりに来る必要はなかったじゃない」
「別にいいだろ。細かいことばっか気にしてると、細かい人間になるぞ」
平然と言われ、溜息が出た。
いつもなら言い返すところだけど、寝起きで怒る気力がまったくない。
私は瑞貴を無視して、バスルームに向かおうとした。
昨日持ってきた着替えの入ったバッグを掴み、部屋を出ようとする。
「綾」
「なに?」
「どこに行くんだ?」
「シャワー」
「俺も一緒に行こうか?」
振り返ると、瑞貴は笑いを堪えていた。
からかわれている。そう気付いた私は溜息をついて、そのまま部屋を出た。
準備を終えた私が連れて行かれたのは、繁華街にあるごく普通のマンションだった。
エレベーターを降り、瑞貴がインターホンを押す。
瑞貴は終始、友達の家に遊びに来たような感じだった。
中で物音がして、ドアがゆっくりと開く。
現れたのは、二十代後半くらいの男。
鋭い目つきが印象的で、鼻と唇と眉尻にボディピアス。Tシャツから出た腕には、手首までびっしりと刺青が彫ってあった。
その鋭い視線が瑞貴を捉え、細められた。
「瑞貴、久しぶり」
刺青の入った腕を伸ばし、手を差し出す。
「おう」
瑞貴がその手を握る。
すぐに離し、二人は拳を作って軽くぶつけた。
瑞貴が仲間と交わす、いつもの挨拶だ。
「こいつ、楓」
紹介された楓は、笑顔で私に右手を差し出してきた。
「綾ちゃんだよね。瑞貴から聞いてる。よろしく」
「はじめまして」
差し出された手に、自分の手を重ねる。
楓はそのまま軽く握り、にっこりと笑った。
「二人ともどうぞ。入って」
促されて中に入る。通されたのは、広い部屋だった。
消毒液の匂いがして、病院を連想させる。
入り口近くのソファに、私と瑞貴は並んで座った。
向かいに楓が腰を下ろす。
楓の前には、スケッチブックが置かれていた。
「彫りたい絵とか、場所は決まってる?」
「うん、一応」
「なにを彫りたいの?」
「蝶を彫りたいんだけど」
「蝶か。場所は?」
「腰」
楓はスケッチブックに、迷いなくペンを走らせ始めた。
「色は?」
「赤」
「了解」
黙々と描き続ける楓は、完全に自分の世界に入っている。
楓がなにを描いているのかが気になって、私は隣の瑞貴を見る。
「いつものことだ」
瑞貴が呆れたように言った。
しばらくして、楓は満足そうにペンを置く。
「こんな感じでどう?」
差し出されたスケッチブックを見て、私は思わず息を止めた。
今にも飛び立ちそうな、大きな羽を広げた真紅の蝶。
「気に入らなければ、他も描くけど?」
「これがいい」
「オッケー」
楓は嬉しそうに笑った。
「大きさは、俺の掌くらいでいい?」
そう言いながら、楓は自分の掌を見せてくれる。
「うん」
「腰の真ん中より、右か左に寄せたほうがいいと思うけど」
「楓に任せる」
楓は、また嬉しそうに頷いた。
「今日は筋だけ彫って、数日後に色入れにする?」
「今日、仕上げてほしい」
「全部?」
「うん。無理かな?」
「無理じゃないけど、結構きついよ」
「痛みには強いから」
楓が、私の顔をじっと見つめてくる。
こういう時、私は視線を逸らすのが癖なのに、なぜか目が離せなかった。
真剣な楓の眼差しと、逃げ場のない距離。
「大丈夫だよ、楓。こいつは、気合だけはあるから。途中で弱音は吐かねぇ」
「……初めてだし、熱が出るかもしれねぇだろ」
「熱くらい平気」
楓の表情が、少し和らいだ。
「分かった。途中で休憩入れながら進めよう。三時間くらいかかるけど、平気?」
「うん」
「じゃあ、準備するから待ってて」
そう言って、楓は立ち上がった。
「ここに座って」
声をかけられ、部屋の中央に置かれたリクライニング式の椅子に腰を下ろす。
「おい」
瑞貴の、笑いを堪えた声。ソファを見ると、案の定、肩を震わせている。
「なに?」
「どこに彫るつもりだ?」
「腰だけど」
「その座り方で彫れると思ってんのか?」
……確かに。このままだと、背もたれが邪魔になってしまう。
じゃあ、どう座ればいいのだろう。
その答えは、すぐに浮かばなかった。
普通、椅子に座れと言われたら、こんな座り方になると思う。
背後から、小さな笑い声が聞こえた。
振り返ると、ピアスの並んだ顔を崩して笑っている楓がいた。
笑われていることが気に入らなくて横目で睨むと、楓は慌てて口元を引き締める。
「綾ちゃん、背もたれのほうを向いて座ってくれる?」
言われるまま、私は椅子に座り直した。




