第9話 次は、もっと見つけてもらうために
配信終了ボタンをクリックし、OBSの赤いインジケーターが消灯するのを見届ける。
ふう、と静かに吐き出した息が、防音仕様の自室に吸い込まれて消えた。
机の上のスタンドライトが、淡い明かりを投げかけている。
手鏡を引き寄せ、そこに映るすっぴんの女子高生――雨宮澪の顔を覗き込んだ。
上気した頬。前髪の隙間から覗く瞳。
二時間の雑談配信を終えたばかりの私の顔には、心地よい疲労と、それ以上の深い充足感が滲んでいた。
「……うん。今日の配信も、すごく温かかったな」
モニターの片隅に残るチャット欄の残響を、ゆっくりと目で追う。
『ミウちゃん今日もありがとうー!』
『癒やされた、明日も仕事頑張れるわ』
『最後のバイバイの首の傾げ方、相変わらず反則級に可愛い』
『おつミウでした! ゆっくり休んでね!』
画面を埋め尽くす、温かい言葉の数々。
同接はおよそ三百五十人。チャンネル登録者数は千二百五十人。
コメントをくれるのは、見知ったアイコンの常連リスナーたち――星見守の面々だ。
誰一人として棘のある言葉を投げず、私の語る些細な学校の話や、一ミリ単位で計算したあざとい仕草を、丸ごと愛おしそうに受け止めてくれる。
ここは紛れもなく、私が血の滲むような努力と、神絵師・花守しずく先生の奇跡のような筆によって手に入れた、かけがえのない居場所だった。
前世の冴えない中年男だった頃には、想像すらできなかった楽園。
胃薬を流し込みながら終電の窓に映る疲れた自分を呪っていたあの頃の孤独を思えば、この部屋に満ちる温もりは、奇跡以外の何物でもない。
幸せだ。
心の底から、そう思う。
このままでも十分に満たされているし、この穏やかな日々がずっと続いてくれればいいと願う気持ちに、嘘偽りはなかった。
――けれど。
私はマウスを握り直し、ブラウザの別タブ――YouTube Studioのアナリティクス画面を開いた。
折れ線グラフが描く軌跡を、無言で見つめる。
右肩上がりの傾斜は、ここ一ヶ月ほど、極めて緩やかな平行線に近い角度を描いていた。
インプレッション数、微増。
クリック率、五・二パーセント。
平均視聴維持時間、四十二パーセント。
数字そのものは、決して悪くない。むしろ個人勢の新人としては、驚異的なエンゲージメント率の高さだと言えるだろう。
来てくれた人のほとんどがファンになり、アーカイブを繰り返し見てくれている。
だが、それは裏を返せば――。
「……新規の流入が、完全に頭打ちになってる」
ぽつりと、声が漏れた。
眼鏡のブリッジを押し上げ、私は数字の深層を冷徹に分析し始める。
現在の星祈ミウのチャンネルは、いわば『駅前商店街の路地裏にある、隠れ家的な名店』だ。
一度暖簾をくぐった客は、店主の丁寧な仕込みと極上の出汁に感動し、足繁く通う常連になってくれる。
けれど、大通りを歩く人々には、そもそもこの店の看板すら見えていない。
看板も出さず、間口も狭く、ただ「うちは味が美味いから」と腕組みして座っている頑固親父のラーメン屋――。
「……って、また暖簾くぐった先のおっさん視点で例えちゃった! 脳内議事録から即座に抹消!」
両手で自分の頬を軽くパチンと叩き、思考を現実の美少女に戻す。
危ない危ない。油断すると前世の居酒屋街の記憶がひょっこり顔を出す。
コホン、と小さく咳払いをして、私は真面目に考えを巡らせた。
頑固親父のラーメン屋の話はさておき、課題は明白だった。
私はこれまで、星祈ミウの内面的な完成度――つまり、声のトーンやLive2Dの挙動、語尾のミリ秒単位のフェードアウトといった『中身のクオリティ』を磨くことに全精力を注いできた。
それは間違っていなかったと思う。土台のない場所に人を呼んでも、誰も定着しないからだ。
けれど、土台が完成した今、次のステップに進む必要がある。
「中身がどれだけ可愛くても……見つけてもらえなきゃ、届かないんだ」
Xのタイムラインをスクロールする。
無数のVTuberたちの告知ポスト、美麗なファンアート、切り抜き動画が、濁流のようにタイムラインを流れていく。
その中で、私の告知ポストはどうだろうか。
『本日21時から雑談配信を始めます! まったりお話ししましょう✨【待機所URL】』
……普通だ。
あまりにも、慎ましやかで普通すぎる。
添付されているサムネイルも、しずくママの素晴らしい立ち絵をそのまま配置し、無難な角丸フォントで『まったり雑談』と置いただけのもの。
これでは、私のことを最初から知っている人しかタップしない。
タイムラインを一瞬でスクロールしていく初見のユーザーの指を、ピタリと止めるだけのフックがないのだ。
「バズりたい、わけじゃない」
胸に手を当て、自分の心の奥底にある欲望を確かめるように呟く。
炎上覚悟の過激な企画をして目立ちたいわけじゃない。
奇をてらった奇行で数字だけを稼ぎたいわけでもない。
そんなもので得た数字なんて、私の愛する星祈ミウの純度を汚すだけだ。
私が欲しいのは、安っぽい知名度じゃない。
花守しずく先生が魂を削って生み出してくれた、この世界一愛らしい銀髪の少女。
私が前世からの憧れと美意識のすべてを懸けて、一ミリ単位で命を吹き込んでいる星祈ミウという存在。
この子が持つ本当の可愛さを、正しく愛してくれる人と、もっと出会いたい。
まだ星祈ミウを知らない誰かの心に、この眩しい星の光を、ちゃんと届けたいのだ。
「見つけてもらう努力を怠るのは……プロデュースの怠慢だよね」
自室の机に向き直り、愛用の反省ノートの新しいページを開いた。
ボールペンの先を走らせ、サラサラと文字を刻み込んでいく。
【今後の活動方針改善計画】
・サムネイルの視線誘導と情報設計の抜本的見直し
――〇・五秒で感情が伝わる構図
――文字のジャンプ率と色彩対比の強化
・告知ポストのテキスト最適化
――単なる業務連絡からの脱却。星祈ミウの『人格』が滲むコピーライト
・配信切り抜き・ショート動画への導線設計
・ママへの新差分・新衣装相談
ペンを止め、書き殴った箇条書きをじっと見つめる。
胸の奥で、小さな炎がパチパチと音を立てて燃え盛るような感覚があった。
これまで私は、星祈ミウという自分の城を築いてきた。
誰にも邪魔されない、温かくて甘やかな、私の祈りの城。
でも、閉じこもっているだけじゃ、世界は変わらない。
城の門を少しだけ開き、外の世界に向けて、星の旗を掲げなければならないのだ。
「よし」
手帳をパタンと閉じ、私は立ち上がって大きく背伸びをした。
華奢な身体が心地よくきしみ、窓の外に広がる東京の夜空が目に飛び込んでくる。
街の灯りの向こうには、まだ見ぬリスナーたちが無数に眠っている。
待っていてほしい。
明日はもっと、あなたの視線を奪うための、完璧な星祈ミウを届けてみせるから。
静かな夜の部屋で、私は未来に向けて、確かな一歩を踏み出していた。




