第8話 この場所を守りたい
「――みんな、今日も一日お疲れさま。明日もみんなにとって、素敵な一日になりますように。おやすみなさい、おつミウ~!」
ふわりと両手を振り、画面越しのリスナーたちへ満面の笑みを届ける。
配信終了ボタンをクリックすると、モニターの上の「LIVE」ランプが消灯し、自室に穏やかな静寂が戻ってきた。
今日の配信は、リスナーから募集したお便り――いわゆる「マシュマロ」に答える雑談枠だった。
『ミウちゃん、仕事でミスして落ち込んでたけど、配信見たら元気出たよ』
『最近ミウちゃんを知ったんだけど、声が優しくて毎晩の癒やしです』
『いつも可愛い姿を見せてくれてありがとう』
届いたお便りの一つ一つに、私は真心を込めて言葉を返した。
コメント欄にはいつもの常連リスナーたち――星見守の温かい言葉が絶え間なく流れ、誰一人として荒らすこともなく、まるで春の陽だまりのような優しい空気が満ちていた。
「ふぅ……」
大型ヘッドホンを外し、デスクの横に置く。
自作PCの水冷ファンの微かな駆動音だけが、部屋の空気を静かに震わせていた。
手帳を開き、いつもの反省メモを書こうとして――ふと、ペンの先が止まった。
減点するべき項目が、ほとんど見当たらない。
声のピッチも、語尾のフェードアウトも、首の傾げ方も、コメントを拾うテンポも。
何ヶ月も血のにじむような訓練と反省を繰り返してきた結果、星祈ミウとしての所作は、今や私の無意識の領域にまで定着しつつあった。
モニターの中では、配信ソフト上のミウが優しく微笑んでいる。
淡い銀髪、星を宿した青紫の瞳、清楚な白ワンピース。
画面の向こうには、彼女を心から愛し、待っていてくれるリスナーたちがいる。
(……あったかいなぁ)
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
前世の私には、こんな場所はどこにもなかった。
誰からも必要とされず、終電に揺られて冷え切ったワンルームへと帰り、コンビニの缶チューハイで孤独を麻痺させていた、あのくたびれた中年男の人生。
誰かに「ありがとう」と言われることも、自分の存在そのものを愛されることもなかった。
けれど今、私はここにいる。
私が選び取り、創り上げ、魂を注ぎ込んだ星祈ミウという少女を通じて、確かに誰かの夜を温めているのだ。
ここは、私がこの世界で見つけた、かけがえのない居場所だった。
けれど――その温かさを噛み締めた瞬間、ふっと冷たい風が背筋を通り抜けた。
(……もし、この場所が失われてしまったら?)
ペンを握る指先が、わずかに強張る。
前世のサラリーマン時代、私は嫌というほど見てきたのだ。
どれほど隆盛を誇った事業も、どれほど熱狂的なブームも、些細な時代の変化や一つのミスで、あっけなく砂上の楼閣のように崩壊していく様を。
ネットの世界は、それ以上に残酷で、移ろいやすい。
昨日まで絶賛してくれていた人々が、明日には掌を返して去っていく。
あるいは、心ない悪意や、少し前に感じたような「中の人の詮索」という無粋なノイズによって、この美しい箱庭が無残に踏み荒らされてしまうかもしれない。
もし星祈ミウの完璧な愛らしさを維持できなくなったら?
もしリスナーたちに飽きられて、誰も来なくなってしまったら?
「……怖い、な」
ぽつりと、本音が口から零れ落ちた。
失うものがなかった前世とは違う。
今の私には、絶対に手放したくない、命よりも大切な宝物があるのだ。
けれど――私はすぐに首を横に振った。
「ううん、違う。怖がって縮こまってる場合じゃない」
両手でパンッと頬を叩く。
手鏡を引き寄せ、そこに映る雨宮澪の瞳を真正面から見つめ据えた。
星祈ミウという居場所は、天から降ってきた幸運じゃない。
神絵師・花守しずく先生が命を削って描いてくれた奇跡の器に、私が一ミリ単位の情熱と技術を注ぎ込み、リスナーたちと一緒に築き上げてきた血と汗の結晶だ。
守るのだ。
誰に何を言われようと、どんな時代の風が吹こうと、私のこの手で。
妥協のないセルフプロデュース。
一秒の隙もない完璧な愛らしさ。
それさえ磨き続けていれば、星祈ミウの光は決して消えはしない。
ピロン、と卓上のスマートフォンが鳴った。
画面を見ると、Discordに花守しずく先生からのメッセージが表示されていた。
『配信お疲れさま! 今日もすごく温かくて素敵な配信だったね。ミウちゃんがたくさんの人に愛されていく姿を見守れて、私も本当に幸せです。……そういえばね、そろそろ活動も軌道に乗ってきたし、次のステップとして新しい表情差分やお洋服のデザインも考えてみようか?』
「…………っ!」
その文面を読んだ瞬間、私の心からすべての影が吹き飛んだ。
「新衣装……! ママ描き下ろしの、新しいお洋服……!!」
ベッドの上で身悶えそうになるのを必死に堪え、私は手帳を力強く開いた。
そうだ。現状維持に満足して怯えている暇なんてない。
この愛しい場所を守るための最善の策は、立ち止まることじゃない。
もっと前へ進むことだ。
もっと多くの人に星祈ミウという最高の可愛いを届けて、見つけてもらうことなのだ。
「明日は……サムネイルの視線誘導のパターンを、もう一種類増やしてみようかな」
ペンを走らせる私の口元に、不敵で、けれど最高に幸せな笑みが浮かぶ。
星祈ミウは、私の祈りだ。
そしてこの祈りは、ここからさらに強く、眩しく、世界を照らし始めていく。
夜空の星を見上げるように、私はモニターの中の私に向かって、静かに約束を交わした。




