第6話 最初のラフで息が止まる
オンラインでの打ち合わせを終えてから、ちょうど一週間が経った土曜日のことだった。
約束されていたキャラクターラフの提出予定日。
私は朝から、まるで落ち着きというものを母の胎内に置き忘れてきたかのように、部屋の中を意味もなくうろうろと往復していた。
「……落ち着け。神絵師だって人間だ。締め切り当日の二十三時五十九分までが当日なんだから、朝からソワソワしたって仕方がない」
自分に言い聞かせるものの、五分おきにスマートフォンの画面を点灯させてしまう。
通知が鳴るたびに心臓が喉から飛び出そうになり、それがただの公式アプリのクーポン通知だと分かると、全身から力が抜けてベッドに崩れ落ちる。それをもう六回は繰り返していた。
普段なら「心拍数の乱れは呼吸筋の緊張を生み、発声のピッチを狂わせる」などと冷静に分析しているはずの私が、形無しだった。
前世で大きな商談の受注結果を待っていた時ですら、もう少し大人としての平静を保てていたはずだ。
けれど、これは違う。
私の人生の、魂の依り代が生まれる瞬間なのだ。
午後十四時二十七分。
デスクのPCから、ピロン、とDiscordの通知音が短く鳴り響いた。
私の動きが、完全にフリーズした。
恐る恐るモニターを見る。
画面右下にポップアップした通知には、間違いなくあの名前が表示されていた。
『花守しずく:雨宮さん、お待たせいたしました。星祈ミウちゃんのキャラクターデザイン第一稿をお送りしますね』
「…………っ!」
息を呑み、私はマウスを握りしめた。
手のひらにじっとりと冷や汗が滲んでいる。
メッセージには、一枚の高解像度画像ファイルが添付されていた。
カーソルを合わせ、ダブルクリックする。
画面が暗転し、次の瞬間――。
「あ…………」
声にならなかった。
喉の奥が痙攣したように締まり、本当に、物理的に呼吸が止まった。
モニターいっぱいに広がったのは、圧倒的な「光」だった。
水色と薄紫の淡いグラデーションを孕んだ、柔らかな銀髪の毛束。
まだカラーラフの段階だというのに、筆のタッチの一つ一つから、春の夜風にふわりと揺れるような空気感が立ち上っている。
白を基調としたワンピースは、胸元に繊細な星のレースが施され、華奢な肩のラインをこの上なく可憐に引き立てていた。
けれど――何よりも私の魂を撃ち抜いたのは、その「瞳」と「口元」だった。
夜空の深淵を溶かし込んだような青紫の瞳。
その奥に、控えめに、けれど確かな輝きを放つ星のハイライトが浮かんでいる。
やや垂れ目気味の優しい目元なのに――見る者を見透かすように、ほんのわずかだけ悪戯っぽく細められていた。
そして、わずかに結ばれた薄桃色の唇は、まるでこう語りかけているかのようだった。
『――ねえ。ミウのこと、可愛いって思っちゃった?』
「う、うそ……でしょ……」
涙が、ぽろりと頬を伝い落ちた。
拭うことすら忘れ、私は画面に顔を近づけた。
私の頭の中にあった、輪郭のぼやけた願望。
ただ守られるだけの美少女にはなりたくない。
清らかで、儚くて、星空のように届かないのに――自分を愛してくれる人の心を、その愛らしさで意のままに翻弄する、誇り高き小悪魔。
私が拙い言葉で伝えたそのすべてが、一ミリの狂いもなく、いや、私が思い描いていた理想の百二十パーセントの解像度で、そこに具現化されていた。
チャット欄にしずく先生からの追伸が届く。
『雨宮さんが打ち合わせでおっしゃっていた「自覚的な可愛さ」という言葉がずっと頭に残っていて……少しだけ挑戦的に、見る人を翻弄するような小悪魔のスパイスを目元と口元に忍ばせてみました。雨宮さんのイメージとズレていなければ良いのですが……いかがでしょうか?』
「ズレてない……っ! ズレてるわけがないです……っ!」
私はキーボードの上に涙を零しながら、猛烈な勢いで返信を打ち込んだ。
『完璧です。修正点なんて何一つありません。私の命の恩人です。先生、本当にありがとうございます……!』
画面の中の銀髪の少女を見つめ直す。
胸の奥が、熱く、痛いほどに脈打っていた。
これが、私だ。
前世のくたびれた男の記憶も、雨宮澪という偶然与えられた女子高生の肉体も超えて――私が私の意思で選び取り、魂を注ぎ込むべき、唯一無二の姿。
「私……この子として生きたい」
その日から、私の世界は一変した。
星祈ミウをこの世に受肉させるための、狂気的なまでの準備期間が始まったのだ。
数ヶ月間、アルバイトと貯金を注ぎ込んで最上位のオーディオインターフェースとマイクを買い揃えた。
Live2Dのモデルが納品された後は、トラッキングソフトのパラメータをゼロ点一刻みで調整し、瞬きの追従性、首を傾げた時の物理演算の揺れ具合を徹底的に煮詰めた。
毎日、手鏡を前にして発声練習を繰り返した。
この完璧な器に見合うだけの声と、仕草と、あざとさを、自分の肉体に叩き込むために。
そして――。
ふと、まばたきをすると、目の前には現在の私のデスクが広がっていた。
モニターの中には、あの日から数ヶ月の時を経て、完全に命を吹き込まれた星祈ミウが微笑んでいる。
回想から引き戻された私の手には、使い込まれた反省ノートが握られていた。
「……あの日、ママが命をくれたんだ」
しずく先生が託してくれた最高の器を、私は何一つ無駄にしていない。
日々の配信で、ミリ単位の努力で、正しく磨き続けてきた。
けれど――私の欲は、まだまだ留まることを知らなかった。
ただ可愛い姿で画面に座っているだけじゃ、満足できない。
私の磨き上げたこの可愛さで、もっと、もっと多くのリスナーを熱狂させたい。
世界中に「今日もかわいい」と言わせてみせるのだ。
私は決意を新たにペンを走らせ、次なる配信の作戦立案へと意識を集中させた。




