第28話 まだ、うまく言えない
すべての感情が、きれいに言葉になるわけじゃない。
けれど、言葉にならない曖昧な輪郭の中にこそ、人間が命を懸けて守りたい本質が眠っているのかもしれない。
火曜日の夜。
私は机に向かい、昨夜床に落とした黒いボールペンを拾い上げて、新しい白紙のノートを開いていた。
昨夜のように、自分を切り裂くような減点や罵倒を書き連ねるためではない。
今、私の胸の中で渦巻いている、未整理のままの感情を、なんとかして言葉としてこの世に定着させようと格闘していたのだ。
『星祈ミウは、雨宮澪から逃げるための仮面じゃない』
『可愛いを追求することは、誰かを騙すための嘘じゃない』
『私は、星祈ミウとして生きている時間が、何よりも好きだ』
一行書いては、ペン先を止める。
呼吸を整え、胸の奥に問いかけながら、また次の一行を紡ぐ。
けれど――その先が、続かない。
(じゃあ、なぜあの夜、私は崩れてしまったんだろう?)
冷たい疑問が、インクの染みた紙面を見つめる私の胸を締め付ける。
ミウが嘘じゃないなら。私の愛が本物だったなら。
なぜ私は、あの些細な茶化しコメントに過剰に傷つき、冷たい声でリスナーを拒絶してしまったのか。
なぜ「可愛い自分でいること」が、あんなにも息苦しい義務へと変質してしまったのか。
そして――どうすれば、私は再びあの画面の前で、心からの笑顔を浮かべることができるのか。
そこに対する決定的な答えは、まだ見つかっていなかった。
頭の中では何かが繋がりかけている。
けれど、それを「これだ」と言い切るための決定的な言葉が、どうしても喉の奥から出てこないのだ。
「……はぁ」
ペンを置き、私は椅子の背もたれに体を預けた。
モニターの前に置かれたマイクを見る。
配信を再開したい、という思いはある。リスナーに会いたい。あの温かい星空の下へ戻りたい。
けれど、いざマウスを握り、配信開始ボタンにカーソルを合わせようとすると、指先がピタリと凍りついてしまうのだ。
また、声が硬くなったらどうしよう。
また、些細な言葉に傷ついて、星祈ミウを壊してしまったらどうしよう。
あの夜の冷たい沈黙と、リスナーたちの困惑した文字が、フラッシュバックのように脳裏をかすめて、息が苦しくなる。
怖いのだ。
星祈ミウを大切に思えば思うほど、再び画面の前に立つことが、恐ろしくてたまらない。
かといって、完全にやめてしまうことなど、私には到底できなかった。
VTuberをやめて、ただの雨宮澪として生きていくこと。
そんな選択肢は、考えただけで胸が引き裂かれそうになる。
私にとって星祈ミウは、もはや単なる趣味や活動ではなく、私の魂そのものなのだから。
進むこともできず、退くこともできない。
宙吊りのままの心。
その時、机の上のスマートフォンの画面が、微かな振動とともに点灯した。
画面には、Discordの通知が表示されていた。
『花守しずく:澪ちゃん、体調はどうかな?』
息を呑み、画面をタップする。
『花守しずく:焦らなくて大丈夫だからね。立ち止まることも、ものづくりには大切な時間だよ。ミウちゃんはずっと、澪ちゃんが戻ってくるのをここで待ってるから』
メッセージの最後には、優しく微笑む星祈ミウの小さなスタンプが添えられていた。
「……ママ」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなった。
さらに、私はおそるおそるXのアプリを開いてみた。
あの日以来、一度も開いていなかった自分のアカウント。
リプライ欄とメンション欄には、驚くほどたくさんのメッセージが届いていた。
『ミウちゃん大丈夫かな、季節の変わり目だし無理しないでね』
『アーカイブ何回も見返して待ってるよ!』
『ミウちゃんの声が大好きだから、ゆっくり元気になってね』
『ずっと待ってるからね!』
誰も、私を責めていなかった。
あんな無様な姿を晒した私を、星見守たちは、変わらない温もりで待っていてくれていた。
涙が、視界をぼやけさせる。
世界は、私が思っていたよりも、ずっと優しかった。
私が一人で城壁を高く築き、勝手に怯え、勝手に追い詰められていただけだったのかもしれない。
けれど――だからこそ、中途半端な気持ちで戻るわけにはいかないのだ。
みんなの優しさに甘えて、迷いを抱えたまま誤魔化しの笑顔を貼り付けることだけは、絶対に許されない。
私は震える指で、Xのポスト画面を開いた。
そして、短く、飾らない言葉を打ち込んだ。
『みんな、心配かけてごめんなさい。少しだけ、自分を見つめ直すためにお休みをいただきます。ちゃんと前を向いて、心から笑えるようになったら、必ず戻ってきます。待っていてくれたら嬉しいです』
送信ボタンを、迷うことなくタップした。
投稿された画面を見つめながら、私は静かに息を吐いた。
まだ、うまく言えない。
雨宮澪と星祈ミウが、どうすれば本当の意味でひとつになれるのか。
その答えは、まだ見つかっていない。
けれど。
私はもう、逃げてはいない。自分を傷つけることもやめた。
なくしたくないのだ。
花守しずくママが描いてくれた私の祈りを。
星見守たちが待っていてくれるあの居場所を。
そして何より――私が選び取った、最高に可愛い「私自身」を。
窓の向こうの夜空を見上げると、ビル群の隙間に、小さく澄んだ星がひとつ、瞬いていた。
暗闇を抜けるための旅が、ここから静かに始まろうとしていた。




