第27話 星祈ミウである意味
静かな部屋の中では、自分の心臓の音だけが、やけに大きく響く。
月曜日の放課後。
私は今夜の配信スケジュールを入れず、制服のまま、薄暗い自室のベッドの端に腰掛けていた。
デスクの上のPCは、電源が落とされたままだ。
いつもなら赤く点灯しているはずのオーディオインターフェースのランプも眠り、マイクは黒いスポンジのカバーを被ったまま、冷たい金属の沈黙を保っている。
デビューして以来、こんなにも静かな放課後を過ごすのは初めてだった。
配信をしない夜。反省会をしない夜。
一万五千人の視線も、ノイズも、チャット欄の濁流もない、ただの女子高生・雨宮澪だけの時間。
「…………」
私は机に歩み寄り、小さな手鏡を手に取った。
夕暮れの淡い朱色が差し込む窓際で、鏡を覗き込む。
そこに映っているのは、黒髪セミロングの、華奢で小柄な少女の顔だ。
すっきりと通った鼻筋、少し色素の薄い瞳、手入れの行き届いた唇。
客観的に見ても、決して見苦しい顔立ちではない。学校のクラスメイトからも「澪ちゃんって可愛いよね」と言われることがある、正真正銘の女子高生の姿。
――なのに。
なぜ私は、この顔だけでは満たされなかったのだろう。
(……なぜ、私は星祈ミウでいたいんだろう)
静寂の中で、問いが胸の底から湧き上がってくる。
前世のくたびれた男の記憶を持つ私にとって、この雨宮澪という身体に生まれ変われたこと自体が、天文学的な奇跡だったはずだ。
三十代半ばで胃薬を飲み、終電の窓に映るくたびれた自分に絶望して命を終えた前世。
あの頃の私からすれば、可憐な女の子に生まれ直し、可愛い服を着て、コスメを選び、普通に息をして生きられるだけで、人生の願いは百点満点で達成されていたはずなのだ。
それなのに、なぜ。
なぜ私は、数万円の機材を買い込み、神絵師に頭を下げて企画書を送り、毎晩のように喉をすり減らしてまで、「星祈ミウ」という架空の少女を作り出したのか。
なぜ、あんなにも偏執的に、二百十ヘルツの周波数や、零コンマ二秒の吐息に命を懸けてきたのか。
他人に消費されて傷つき、中の人を暴かれそうになって怯え、配信で崩れて自分を罵倒するほど追い詰められてまで――私はなぜ、あの銀髪の姿を手放すことができないのか。
(……ただの、現実逃避だったのか?)
胸を刺すような疑念がよぎる。
雨宮澪という生身の現実を生きるのが怖くて、安全なモニターの向こう側に、絶対に傷つかない無敵の「着ぐるみ」を作りたかっただけなのか?
虚構の城に立てこもり、ネットの群衆から「かわいい」という甘い蜜を吸って、肥大化した自意識を慰めたかっただけなのか?
「……違う」
手鏡を握る指先に、自然と力がこもった。
違う。絶対に違う。
もしも逃避だったなら、もしもただの承認欲求の道具だったなら、あんなにも苦しむはずがないのだ。
あの夜、しずくママから送られてきた最初のカラーラフを見た時、私の胸を貫いたあの雷のような感動。
淡い銀髪、星を宿した青紫の瞳、見る者を翻弄する小悪魔な微笑み。
あの時、私の魂の奥底が震え、涙を流しながら「これが私だ」と叫んだあの感覚は、決して虚飾や逃避なんかではなかった。
机の引き出しを開け、私はデビュー前からの資料を取り出した。
しずくママとやり取りした数々の設定画、メモ用紙、そして星見守たちから届いた最初期の温かいファンアートの印刷物。
そこにあるのは、嘘じゃない。
私が前世の三十数年間と、今世の十六年間、ずっと心の奥底で焦がれ続けてきた「なりたかった私」の純粋な結晶だ。
生身の雨宮澪は、両親から受け継いだ偶然の遺伝子の産物にすぎない。
けれど、星祈ミウは違う。
私が選び、私が悩み、私が一ミリ単位で意志を注ぎ込んで創り上げた、私だけの「祈り」なのだ。
……また変に哲学的なことを考えている、とおっさんじみた自分が苦笑する。
営業マン時代、自社製品のブランドアイデンティティを再定義する役員会議で、熱弁を振るいすぎて引かれた時の記憶がふっと頭をかすめる。
……いけない、またおっさん臭い比喩が出かけた。脳内議事録から即座に抹消!
「……でも」
手鏡の中の雨宮澪の瞳を見つめ直す。
ミウが嘘じゃないことは分かった。逃避じゃないことも分かった。
けれど――それなら私は、この生身の雨宮澪と、あの完璧な星祈ミウのあいだにできた深い溝を、どうやって埋めればいいのだろう。
壊れてしまったあの夜のアーカイブ。
冷たい声でリスナーを拒絶してしまった自分。
完璧でいられなかった私を、私はどうやって許し、受け止めてあげればいいのか。
答えの輪郭は、まだ霧の向こう側に隠れたままだ。
掴めそうで、掴めない。
単に「理想の自分だから」という簡単な言葉だけでは、この胸の痛みをすべて説明しきることはできない。
けれど――。
昨夜のように、自分をナイフで切り裂くような自己否定の嵐は、もう止んでいた。
まだ、うまく言えない。
けれど私は、諦めたくないのだ。
星祈ミウを、私の人生のすべてを懸けて愛したあの祈りを、こんなところで終わらせたくはないのだ。
夕日が完全に沈み、東京の街にぽつりぽつりと灯りが灯り始める。
静まり返った部屋の中で、私は手鏡をそっと机に戻し、次の一歩を踏み出すためのペンを、再び手に取ろうとしていた。




