第26話 反省と自己否定は、似ている
何かをより良くするためのペン先と、自分自身を傷つけるための刃物は、驚くほどよく似ている。
深夜二時。
配信を途中で逃げ出してから、四時間が経過していた。
部屋の明かりは消したまま、デスクライトの丸い光だけが、机の上を白く照らしている。
私は定位置に置かれた手鏡の前に座り、細縁のメガネを鼻梁に乗せ、使い古した黒革のノートを開いた。
――反省会だ。
デビューしたあの日から、一日たりとも欠かしたことのない私の聖なるルーティン。
アーカイブを秒単位で見返し、声の周波数、首の傾き、語尾の吐息の長さを点検し、明日の星祈ミウをより完璧な存在へと磨き上げるための、愛と情熱の研究時間。
「……見なきゃ」
掠れた声で呟き、私はヘッドホンを耳に当てた。
モニターの中で、先ほどの崩れた配信のアーカイブが、無音のままループ再生されている。
カチリ、とノック式ボールペンの芯を出した。
そして、白紙のページに文字を走らせ始める。
『31:12 茶化しコメントに対する反応遅延。無音時間1.8秒発生(致命的減点)』
『31:14 声帯緊張によるピッチ低下。基底周波数160Hzまで失速。倍音ゼロ、濁音化』
『31:15 語尾の投げやりな処理。リスナーへの敵意の露出』
『31:22 表情筋の強張り。笑顔が引き攣り、眉間トラッキングが険悪化』
『31:35 取り繕うような愛想笑い。浅ましく、みっともない』
走る文字が、次第に乱れていく。
紙を削るようなペン先の音が、深夜の静寂にカリカリと痛々しく響いた。
以前の反省ノートは、こうではなかった。
たとえ失敗があっても、「ここは語尾のフェードアウトが綺麗だった(プラス十点)」「この上目遣いは計算通り(合格)」と、自分の磨き上げた可愛い部分をちゃんと愛し、褒めてあげることができていた。
アーカイブのタイムスタンプを細かくメモし、反省と改善を繰り返す時間は、自分を責める場ではなく、理想の星祈ミウを丹精込めて育てるための、何よりも温かい温室だったはずなのだ。
なのに、今夜のノートには、赤いインクで塗りつぶされたような罵倒の言葉しか並ばない。
『下手くそ』
『傲慢』
『プロ失格』
『こんなのは星祈ミウじゃない』
『お前がやってきたことは全部ただの独りよがりだ』
手帳の余白を埋め尽くす、黒々とした拒絶の言葉。
ページをめくってもめくっても、かつて書き溜めてきた「可愛さの設計図」たちが、まるで自分を嘲笑う刃のように見えてくる。
二百十ヘルツの周波数調整も、ショールの星チャームの揺れの物理演算も、すべてはただの厚化粧であり、中身の醜さを覆い隠すための姑息な偽装工作にすぎなかったのではないか。
「……っ」
ふと、ペンの先がピタリと止まった。
ノートの罫線を見つめる私の視界が、ぐにゃりと滲んでいる。
(……何をしてるんだろう、私)
冷たい戦慄が、背筋を駆け上がった。
これは、反省じゃない。
明日の配信を良くするための、建設的な分析などではない。
ただ、失敗した自分をいたぶり、断罪し、痛めつけるためだけの――「自傷行為」だ。
反省と自己否定は、外見だけを見ればとてもよく似ている。
どちらも自分の欠点を並べ立て、問題点を洗い出す作業だからだ。
けれど、その根底にあるものは全くの別物だ。反省の根底にあるのは「未来への愛」だが、自己否定の根底にあるのは「自分への猛毒」にすぎない。
私は今、その猛毒を、自分の手で自分自身の喉へと流し込み続けていた。
……そして、その毒の奥底から、もっとも恐れていたものが、黒いヘドロのように湧き上がってくる。
前世の、くたびれた男の記憶だ。
三十代半ば、何をしても上手くいかず、営業成績は落ち込み、終電の窓に映る自分の生え際を見ては、胃薬と安い酒をあおっていたあの頃。
どうせ俺なんて何をやってもダメなんだ、最初から才能なんてなかったんだ、と。
そうやって自分を蔑み、最初から諦めることで、傷つくことから逃げていた、あの救いようのない男の亡霊。
(……やめて)
頭を抱えて、小さく呻く。
(私は雨宮澪だ。女の子に生まれ変わって、花守しずくママに出会って、星祈ミウを作ったんだ……!)
けれど、心の中の亡霊は、冷ややかに嘲笑うのをやめない。
生まれ変わったって中身はお前のままだろ、と。ガワをどんなに綺麗に繕ったって、所詮はおっさんの作った張り子の虎であり、ちょっと突かれただけでボロが出るに決まっている、と。
胸が張り裂けそうだった。
違うと言い返したかった。
でも、今日のあの冷たい声、あの引き攣った笑顔を思い出すたび、その言葉を否定するだけの根拠が、どこにも見当たらなくなってしまう。
ポタ、とノートの紙の上に、大粒の雫が落ちてインクを滲ませた。
止まらない。
ペンを持つ指先が、ガタガタと震えている。
いくら文字を書き連ねても、いくら自分を罵倒しても、失われたあの完璧な笑顔は戻ってこない。
「……もう、嫌だ……」
力なく指が開き、黒いボールペンが机の上を転がって、床へと落ちた。
硬いプラスチックの音が、暗い部屋に虚しく響く。
私は手鏡の前に突っ伏した。
鏡のガラスの冷たさが、涙で濡れた頬に染み渡っていく。
私は、何のために星祈ミウを創ったのだろう。
なぜ、ここまで自分を追い詰めてまで、あの銀髪の少女でいようとしたのだろう。
底の見えない暗闇の中で、問いだけが、波のように寄せては返していた。




