第25話 崩れた夜の、アーカイブ
どれほど頑丈に積み上げた積み木であっても、崩れる時は、たった一個の揺らぎで音もなく瓦解する。
日曜日の夜九時。
迷いと疲労を抱えたまま、私はいつも通りマイクの前に座り、定期雑談配信のスタートボタンを押した。
「みんな、星空の彼方からこんばんは! 星祈ミウだよ〜!」
意識してキーを高くし、二百十ヘルツの鈴の音を響かせようとする。
けれど、マイクに向かって息を吐き出した瞬間、喉の奥にわずかな引っかかりを感じた。
昼間に見た他のVTuberたちの姿――素の感情で笑い、気楽に愛されている彼女たちの残像が、雑音のように私の集中力を乱していた。
集中しろ、雨宮澪。
画面の向こうにいる千五百人の星見守たちに、最高に可愛いミウを届けなければならない。
そう自らに言い聞かせ、私は最近あった学校の出来事を、お決まりの小悪魔なトーンで話し始めた。
けれど、歯車は最初から狂っていた。
話題の間の取り方が、いつものリズムよりコンマ何秒か早い。
チャット欄の文字を追う視線が泳ぎ、Live2Dの首の傾げ方がぎこちなく硬直する。
そして――配信開始から三十分が過ぎた頃、チャット欄に流れたいくつかの言葉が、私の張り詰めていた神経を容赦なく逆撫でした。
『なんか今日ミウちゃん元気なくね?』
『声低くなってて草』
『テンション低っw 疲れ? それとも彼氏でもできた?』
『営業スマイル疲れたか〜?』
ただの、悪意のない軽い茶化しだ。
いつもの私なら、「もう、彼氏なんて星空のどこにもいないよ〜! ミウの恋人はみんなだけ!」と、唇を尖らせて甘いプロレスに変えられたはずだった。
けれど、疲労で擦り切れ、自分の美学に疑念を抱いていた私の心には、その言葉を笑って受け流すだけの「クッション」が、もうどこにも残っていなかった。
「…………」
息が、喉の奥で止まった。
頭の中で、ブツン、と何かが切れる音がした。
胸の奥底から、ドロリとした黒い感情がせり上がってくる。
私がどれだけの思いでこの声を守っているかも知らないくせに。私がどれだけ命を削ってこの笑顔を作っているかも知らないくせに。
「――そんなこと、ないですけど」
マイクを通して流れたのは、星祈ミウの声ではなかった。
低く、冷たく、感情の抜け落ちた、硬い声。
普段の倍音など跡形もなく消え去った、生身の雨宮澪の苛立ちが、そのままスピーカーの向こう側へと漏れ出ていた。
配信画面が、一瞬で凍りついた。
チャット欄の流れがピタリと止まり、数秒の沈黙の後、困惑した文字がパラパラと流れ始める。
『え?』
『ミウちゃん……?』
『怒った?』
『なんか空気ピキった?』
その文字を目にした瞬間、私の全身から血の気が引いた。
(……やって、しまった)
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が全身から噴き出す。
慌てて口角を吊り上げ、引き攣る表情筋を無理やり動かして笑顔を作ろうとした。
「あ、あはは……っ! ううん、ごめんね!? ちょっと喉がイガイガしちゃってて! 怒ってないよ? 怒ってないからね……っ!」
取り繕おうとすればするほど、声は上ずり、惨めな嘘が画面にへばりついていく。
Live2Dのアバターは、私の引き攣った顔を拾い、怯えたような、奇妙に歪んだ笑顔をモニターに晒していた。
大炎上ではない。
ファンたちは『大丈夫?』『無理しないで!』『今日は早めに休んで!』と、優しい心配の言葉をかけてくれている。
けれど、私にとっては――世界で一番完璧で、神聖でなければならなかった星祈ミウを、私自身の醜い感情で、泥水の中へと叩き落とした瞬間だった。
「……うん、ごめんね。今日はいっぱい心配かけちゃったから、ここでおしまいにします。みんな、おやすみなさい……っ」
挨拶もそこそこに、私は逃げるように配信終了ボタンをクリックした。
通信が切断された自室は、墓場のように静まり返っていた。
「……っ、うそ、だ……」
震える指先でマウスを握り、私はYouTube Studioの画面を開いた。
さっき終わったばかりの配信のアーカイブ。
見たくない。絶対に直視したくない。
けれど、私の内面にある残酷な完璧主義が、再生ボタンをクリックさせた。
『――そんなこと、ないですけど』
モニターのスピーカーから流れてくる、冷たく濁った自分の声。
その瞬間のアバターの表情。
瞳の星のハイライトは死に、口元はへの字に結ばれ、リスナーを拒絶するように冷え切っていた。
そして、その直後の、取り繕うようなみっともない愛想笑い。
必死に誤魔化そうと引き攣る姿は、誰が見ても痛々しく、醜悪だった。
「……こんなの、星祈ミウじゃない」
画面を殴りつけるように消去し、私は机の上に突っ伏した。
他人は言うかもしれない。
たかが一回、ちょっと不機嫌そうになっただけじゃないか。誰にだって体調の悪い日や、言い淀む夜くらいある。リスナーだって気にしていない、と。
でも、私にとっては違った。
星祈ミウは、偶然の生身に妥協したくない私が、魂のすべてを注ぎ込んで創り上げた「理想の自分」だったのだ。
どんな時でも美しく、可憐で、誰にも傷つけられない聖域だったはずなのだ。
それを、壊した。
アンチでも、ノイズでも、外敵でもない。
私自身のみっともない弱さと、前世から引きずってきた粗雑な感情が、あの一ミリの狂いもなく磨き上げた世界を、粉々に叩き割ったのだ。
暗い部屋の中、モニターの電源ランプだけが、赤く冷たく点滅していた。
一度ヒビの入った鏡は、もう二度と、元の光を取り戻すことはできないかのように。




