第24話 近くに見える子、遠くにいる子
正解がひとつしかない世界なら、どれほど楽だっただろう。
しずくママとの通話から数日後。
日曜日の午後、私は自室のベッドの上でタブレットを抱え、YouTubeの配信画面を巡回していた。
客観的な視点を取り戻すために、他のVTuberたちがどのようにリスナーと向き合っているのかを研究しようとしていたのだ。
最初に開いたのは、先日コラボしてくれた先輩個人勢・橘ユイカさんの配信枠だ。
『あははは! ちょ、「ユイカちゃん部屋汚そう」って書いた奴、あとで裏の体育館裏な!?』
ビタミンカラーのパーカーを着たユイカさんが、マシンガンのような勢いでリスナーとプロレスを繰り広げている。チャット欄は秒速で『草』『体育館裏助かる』と流れていた。
声の周波数も、吐息の秒数も気にしていない。ただ素の感情を全開にし、生のラリーを楽しむ圧倒的なトーク力。それが彼女の最強の武器だった。
次に開いたのは、登録者数万人規模のポンコツ癒やし系ライバー。
ぎこちない表情で漢字を読み間違える彼女に、コメント欄は『守りたいこの笑顔』と全肯定の温かい空気で溢れていた。隙だらけの不完全さこそが、リスナーの庇護欲を惹きつけているのだ。
そして――おすすめの最上位に表示された、ひときわ同接の多い配信枠をタップした瞬間。
私は、息を呑んで画面に釘付けになった。
『【Shiro家コラボ】娘たちの新衣装チェック&まったり晩酌雑談!【天音りりか / 桃瀬ねる / Shiro】』
画面に映っていたのは、業界屈指の人気を誇る個人勢姉妹ライバーと、その二人のキャラデザおよびLive2Dを手掛けた神絵師――ファンから「Shiroママ」と崇められるイラストレーター・Shiroさんだった。
『ママー! 大好きー! 私の新衣装見て、世界一可愛いよね!? 私のママが宇宙一!』
『りりか先輩、ママにベタベタ引っつきすぎ。……ママぁ、りりか先輩ばかりひいきしてない?』
『ぷはっ……あー、うめぇ……って、近い近い! くっつかないの!』
プシュッ、と缶ビールを開ける小気味いい音がマイク越しに響き、コメント欄が爆速で流れる。
『またビール開けてて草w』
『一番搾り助かる』
『りりかちゃんの限界ママオタクたすかる』
『ねるちゃんの牽制かわいい』
『Shiro家てぇてぇなぁ……』
長女の天音りりかさんは、登録者五十万人超のアイドルライバー。普段の元気いっぱいの天使アイドルの姿は一転、ママの前で完全にIQがゼロになった限界オタクと化している。
次女の桃瀬ねるさんは、登録者三十万人の中堅ライバー。配信では小悪魔メスガキなのに、今は耳を赤くしてママの袖を引いていた。
画面の中で繰り広げられる、眩しい家族の団らん。
立ち絵の圧倒的な神画力と、驚異的なLive2Dの可動域。造形の完成度は本物の超一流だ。
けれど、それ以上に胸を打ったのは、彼女たちが互いに注ぎ合う剥き出しの愛情だった。
重度の親バカとして娘たちを溺愛する絵師ママ。ママを世界一と崇め、全身全霊で愛を返す娘たち。リスナーはその「家族の絆」そのものに熱狂している。
「……すごいな」
タブレットを見つめ、私はぽつりと呟いた。
そこには、無数の「正解」があった。
プロレスで距離をゼロにするユイカさん。不器用さで庇護欲を誘う子。
そして、絵師ママと娘たちが家族として愛し合っているShiro家。
彼女たちは誰一人、「一ミリの隙も見せてはならない」と自らを縛り付けてなどいなかった。
完璧な工芸品を演じることより、生身の感情や体温をさらけ出すことこそが、人の心を掴む強大な引力に見えた。
――そして、その事実を理解した瞬間。
私の足元が、ぐらりと揺らぎ始めた。
(……私のやり方は、間違っているのか?)
私はこれまで、星祈ミウから雨宮澪のノイズを極限まで削ぎ落とし、純度百パーセントの虚構の美を創ることだけを信じてきた。
二百十ヘルツの周波数、零コンマ二秒の吐息、視線誘導の角度。花守しずくママが描いてくれた至高の立ち絵に殉じるように、一ミリの狂いもなく律してきた。
けれど、リスナーが求めているのは、そんな息苦しい彫刻ではなく、笑い合える「生身の体温」なのではないか?
それに――何より。
Shiro家のあの眩しい関係性が、胸を刺した。
(……あんな風に、ママに甘えていいんだ)
私にとって、しずくママは信仰の対象であり、絶対の創造主だ。
ミウを私の未熟さで汚してはならない、負担をかけてはならないと、私はいつだって背筋を伸ばし、敬虔な信徒のように接してきた。
けれど――もし、しずくママにとっても。
一ミリ単位の理屈をこねる面倒くさい娘より、あんな風に無邪気に「大好き」と甘えてくる娘のほうが、ずっと可愛いのではないだろうか。
私が守ろうとしている「一ミリ単位の可愛さ」は、ただの「重苦しい自意識過剰」で、独りよがりの自己満足にすぎないのではないか。
……前世の営業時代、顧客の要望を無視してこだわり抜いた機能ばかり詰め込み、他社のシンプルな安売り製品に惨敗したダメ企画書を思い出す。
マーケットインとプロダクトアウトの乖離。独りよがりの職人肌が一番市場で嫌悪されるパターンだ。
……いけない、またおっさん臭いビジネス用語で自分を追い詰めている。脳内議事録から即座に破棄!
「……でも、私にはできないよ」
手鏡を覗き込み、小さく息を吐く。
ユイカさんのトーク力も、素のポンコツさも、Shiro家のように無防備に甘える素直さも、私にはない。
何より――中の人をチラ見せして親しみやすさを売るなんて、私にとっては「死」に等しい。
私の裏側には、女子高生・雨宮澪の不器用さと、前世のくたびれた男の記憶という、絶対に見せてはならない劇毒が眠っている。
完璧な鎧を脱ぎ捨てて素顔を晒せば、待っているのは親しみやすさなどではなく、醜い虚飾の崩壊だけだ。
自分を変えるべきなのか。
もっと気楽にやるべきなのか。
それとも、この息苦しい完璧主義を貫くべきなのか。
答えは出なかった。
他の誰かの輝きを知るほど、自分の足場が脆く、不確かなものに見えてくる。
そして――時計の針は進み、今夜の配信時間が近づいていた。
迷いを抱えたまま、私は再びあのマイクの前に立とうとしていた。
心に差し込んだ小さなヒビが、取り返しのつかない崩壊の引き金になるとも知らずに。




